禽忌の庭Ⅶ
茂みを抜けた先は行き止まりだった。
峡谷。崖は険しく、対岸は遠い。
進むべき道をなくした部隊は足を止めて立ち尽くす。
風の強い場所だった。谷間を飛ぶのは鳥ではなく、風に巻き上げられ、落ちることを許されない木の葉の群れ。眼下に流れる川は糸のようで、流れる音すら風に吹き消され聞こえることはない。
吹きつける風にシリュウは目を細め、道となる何かを探し――それを見つける。
部隊の正面から少し東。崖の間に浮かぶ不自然な黒い雲。視認しただけで分かる、震えるほど濃密な瘴気の塊。
――瘴核。
それを見た皆の脳裏にその言葉が過ぎったのだろう。
荒い呼吸を整えていた仲間たちは競うように声を上げ始める。
「おい、あれ! あれ!」「あんな瘴気の塊、見たことない……」「あの雲みたいのが瘴気の核なの?」「さっさと『浄』で何とかしよう!」「魔物だってまた追ってくる。急がないと」
「静かに! 総員、魔力、体力の回復をしておいてくれ。ファイ総長、足場は作れますか?」
「ああ、いけるぞ。あれも俺が祓うか?」
「いえ、ファイ総長は足場に集中してください。戦闘の可能性も考慮して足場は大きく、予備もいくつか作ってください。キーン、おそらく君が一番魔力に余裕がある。瘴核らしきあの雲を任せたい。いけるか?」
「大丈夫だ。問題ない」
「よし、『Q』からファイ総長とキーンを加えて『J』であの瘴核らしき雲に向かう。『K』と『Q』は周囲の警戒と『J』の援護を。指揮はベン団長とリタに任せる。瘴核があったんだ。『王』もいる可能性が高い。油断せず、『J』に近づく魔物がいたら即座に攻撃し、排除しろ。瘴核らしき雲を祓った後は、リーフ側の領域外に向かう。また走ることになるから覚悟しておいてくれ。では、五分後、もしくは魔物が現れた時点で作戦開始だ」
了解、と声が重なり、切れそうなほど張りつめていた緊張の糸が僅かに緩んだ。
ポーション、魔石、傷の手当。各々が短い休息に入る中、シリュウも強張った体を解そうと大きく片手を横に伸ばす。
「……ん、着いた?」
空気の変化に気がついたのか、エリュテイアが目を覚ます。
顔を上げた彼女はシリュウの背から降りながら、状況を把握していく。
「峡谷……また、戦い辛そうな場所だ……あの雲が瘴核?」
「ああ、その前提で行動する感じだ。今からファイさんが足場を作って、キーンが祓いにいく。護衛はガウルとファスターたち『J』の部隊だ」
「私たちは?」
「警戒と近づく魔物の排除だ。瘴核があったんだから、『王』もいるかもしれねえしな。どうだ、それっぽい気配を感じるか?」
「うーん……魔物の気配は瘴気が濃すぎてわかりづらいし、音もしないな……でも、今は近くで動いている魔物はいないと思う。茜と東雲も気配は感じてなさそう。チェレンとトーリは?」
同じ目を持つもの。聴覚ではなく視覚を強化する魔法を持つもの。
情報の確度を高めるようとしてか、エリュテイアは近くにいた二人に声をかける。
「私はお前と同じだ。瘴気が濃すぎて分かりづらいが、魔物の気配はないように思える」
「私も。【魔眼】で見える範囲の空に魔物はいませんね」
その情報にシリュウを始めとする『Q』とベンたち『K』は首を傾げた。
おそらく、ここは最奥で間違いない。魔瘴方界の規模、進んできた距離から考えても、ここが王域の中心地と考えるのが妥当だ。何より、この場に漂う異質な空気が否定を許さない。
ただ、
「ここに魔物の姿がないのはともかく、背後の魔物が消えたのは解せないな……」
ベンの言う通りだった。ここが最奥ならば何故魔物の姿がないのだろうか。『王』の存在はあくまで伝承程度のためいない可能性だってある。しかし、追ってきていた魔物は違う。
(あの鳥ども……どこいったんだ?)
振り向けど、シリュウの目に鳥の影は映らず、耳は鳴き声の一つ拾いはしない。
王域の最奥と目される場所に魔物が一匹もおらず、追いかけてこない。はっきりいって困惑しかなかった。
あの蒸気と矢で全ての魔物を倒したとは考えづらい。それなら、ここは王域外の魔物が王域に入らないのと同じように、何らかの理由で魔物が入ってこない領域なのだろうか。
「……駄目だ。魔物がいない理由なんて、俺にはまったく分からねえ」
「同じく」
「強い魔物の縄張りとかなら、ここにいない理由も説明できそうだけど……いないしね、魔物」
シリュウと同じくアスケラとエリュテイアも首を傾げたまま。
ベンやチェレン、リタ、トリウィアたちも表情を見る限り、それらしい答えは浮かんでいないようだ。
ここは先人などいない未踏の果て。
答えはどんな本にも書かれておらず、誰かが知っているわけでもない。そうなると誰かが謎を明かさなければならないが……結局謎は謎のまま、魔物が姿を現すこともなく、五分が過ぎた。
「作戦開始だ。ファイ総長、道を」
「おおよ!」
ガウルが作戦開始の合図を出すと同時に、ファイが足元に拳を叩きつけた。
次々と崖から大岩が乱立していく。今にも崩れかけそうになりながら周囲一帯の地形が変わっていく様は、まるで巨大な獣が口を閉じていくような光景だった。
「うわ……」
エリュテイア、それにチェレンが何とも言えない顔をしている。
これ以上ないほど力任せの『土』属性魔法の行使。おそらく、エルフの目はその非常識をこれでもかと伝えてくるのだろう。
それほどの非常識を行使しようが、騎士団総長ファイ・サジタリウスの表情は涼しいもの。浮かべているのは余裕たっぷりの笑みだ。
(同じ人間だとは思えねえよな、あれ)
流石は総長とでも言うべきか。何度見ても信じがたい魔法だった。
そもそも、浄化師になった後もかつての属性魔法を使える者は少ない。使えたとしても『浄』の側面が強く出てしまうのが普通だ。
エリュテイアも『火』と『水』の側面を強く出したかつての紅い『咆閃華』を使うには、茜や東雲たちの力を借りている。
ファイもそこは同じで、彼が言うには勝手に精霊が力を借してくれるらしい。
ただし、その隣には茜や東雲のような精霊の姿はない。
それなのにこの規模……いったい彼の周りにはどれだけの姿なき精霊たちがいるのだろうか。まあ、エリュテイアたちの引いている姿から、なんとなくその気持ち悪さは伝わってくる。多分、大量の羽虫が群がってる感じだ。
「おし、いけるぞ」
「了解です。皆、進むぞ。警戒を怠るな」
ファイが足場の完成を告げ、大岩の一つをガウルを先頭に『J』が歩いていく。
シリュウたちも木立の隙間を、空を、崖下を、四方に視線をせわしなく動かし、少しでも異変に気づけるように意識を張り巡らせる。
(……いねえな)
しかし、魔物の姿は大岩を渡り、『J』が黒雲の前にこようと現れない。
これで終わるほど甘いわけがないのに、視覚、聴覚、魔力感知、どれにも異変は引っかからない。
本当にこれで最後なのだろうか。そんな期待が首をもたげ始める。
キーンの手がゆっくりと黒雲に近づいていく。誰もが固唾を飲んで警戒をする中、薄っすらと白い光を纏うその手が瘴核に触れ――
視界がぶれ、激痛がシリュウの背中に走った。
「がはっ!」
「シリュウ!」
一瞬だった。
何かが崖下から飛んできて、爆風に吹き飛ばされた。
おそらく、この木に叩きつけられなければ考えたくないほど遠くまで王域を戻されていた。
だが、シリュウは吹き飛ばされることは防げずとも、反応することはできた。
「ごほっ、おい来た、ぞ!」
「分かってる! 動けるでしょ、戻るよ!」
咄嗟に抱き寄せたエリュテイアが怪我をした様子はない。治療代わりの【浄光】をシリュウに灯すと同時に、彼女は周囲を確認していく。
「リタ、状況は!?」
「わ、私の近くにいた人は【浄呪】で受け止めた! 何人かは私たちよりも吹き飛ばされてる! でも、こっちより『J』の方が!」
リタの焦燥が滲む叫びを耳にしながらシリュウは走り出す。
(誰も防げなかったのかよ……!)
一瞥し、リタやアスケラたちがまだ動けることは確認した。問題は――
「くそがっ!」
峡谷に戻ったシリュウが見たのは、満身創痍のガウルたちだった。
足場として乱立していた大岩はそのほとんどがなくなっていた。周囲の木はなぎ倒され、崖には数秒前までなかったはずの赤い染みがいくつもできている。何とかキーンが助けようとしたのだろう。白い茨が遥か下方の川へと落ちぬように大岩と仲間たちを繋ぎとめていた。
ただ、すでに茨の先に人の形をしているものはいなかった。
「あ、あああああああっ――!」
悲鳴とともに空から真っ赤で歪な雨粒が落ちてくる。その軌跡をなぞるように見上げた先。
そこに、その魔物はいた。
「こいつが……!」
自らの存在を示すが如く、甲高い鳴き声が峡谷に響き渡る。
その威風で、悍ましい瘴気で、自身よりも小さなその魔鳥の格を理解する。
だが、それがなんだというのか。その程度で足を止める者はこの場にいない。
シリュウがエリュテイアが、動ける誰もが己の必殺を振りかざしながら、たった一羽の魔物へと駆ける。油断などない。これ以上、何もさせてはいけない。ここが全力を傾けるべき時だと皆が分かっていた。しかし、
「駄目だ! 防御態勢を取れ! なんでもいい、近くにあるものに掴まれえええっ!」
慟哭にも似たガウルの叫びが木霊するが、すでにシリュウたちの足は大地を離れていた。
散らされていく。落ちていく。塵のように無価値に空へと放られていく。
猛り狂う暴風の中心で魔鳥――『王』はゆっくりと瘴核に舞い降りた。




