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盤上のピーセス  作者: 悠々楽々
一章
11/196

悪戯の勧誘

――そういえば、逃げるのは得意だったな。


 荒い呼吸を整えながら、テルスは苔生した古木に背をあずけていた。

 体はもう疲れ切っている。手足は見えない枷をはめられているかのように重く、心臓はうるさいほど脈打っている。

 小雨に濡れ、全身が擦り傷や切り傷で痛み、緊張と恐怖に体は震えている。


 それでも、まだ生きている。


 もう一時間以上もテルスはあの屍の魔物から逃げていた。

 自らを囮にリーフから引き離すことは簡単だった。

 だが、振り切ることができない。十分にリーフから離れたというのに、テルスはどう頑張ってもこの魔物から逃れることができなかった。

 決して、あの魔物が速いわけではない。

 むしろ、足を引きずるようにして歩いているのだから、その速度は遅いといっていい。

 テルスが【強化】を使って全力で走れば、追いつくことはできない。

 そのはずだ。そのはずなのに、


 あの魔物はふと気づけば、テルスのすぐ近くまで亡霊のように迫っている。


 そう、今と同じように。


「……っ!」


 転がるようにして、その場から飛び出す。

 振り返りもせずに走り出したテルスの耳に古木が倒れる音が聞こえてくる。

 攻撃を躱せたことを安堵する時間はない。

 瘴気はいつの間にか近くに迫っている。

 感じる悪寒に従ってテルスが地面に身を投げ出すと、周囲の木々が一斉に伐採された。

 倒れた木々が地面を震わし、木の葉に遮られていた光がテルスを照らす。

 まずい。身を隠すことができなければ、さらに一歩死に近づく。

 焦るテルスに、今度は魔物が持つ骨剣が枝分かれしながら降りかかってくる。

 ほんの一歩の差。

 首元で揺れるフードを切り裂かれながら、テルスはその範囲から逃げ出した。

 そうして振り返れば、


 テルスを覗き込むようにして、屍の魔物が立っていた。


「はあ、はっ……」


 もう何度も直視しているが、この魔物の異形に慣れることはない。

 近くでその姿を目にするたび、例えようのない悪寒がテルスを包み込む。


 焼け焦げたと思っていた肌は、本当に炭化しているようだった。

 ゆっくりと歩く振動でボロボロと崩れ、その欠片が地に落ちていく。

 暗い眼窩の下には濡れた痕があるが、それが涙だとしても、同情や哀れみといった感情はまるで湧かない。ただ、気持ち悪さだけが胸に残る。


 声もなく、悠々と歩いてくる屍の魔物に、テルスは再び背を向けて走り出す。

 木を盾に、茂みに隠れ、必死に、全速力で。


 しかし、歩いているはずの魔物は、気づけばテルスの背後に忍び寄っている。


 もう何で逃げているのか、テルスは分からなくなってきていた。

 目的は果たした。リーフからは十分に遠ざけた。

 なら、これ以上何を望むというのか。

 生きたい? でも、生きていても、もう――欲しかったものは手に入らない。


「うる、さい……!」


 首を勢いよく振って、テルスは弱気な気持ちを振り払う。

 体よりも先に心が諦めようとしていた。

 少しずつ、少しずつ、魔物の濃い瘴気にあてられ、心が削がれていっている。

 痛みに、恐怖に、もう何度も逃げることを諦めかけていた。

 

――あのときは何を支えにこの辛さを耐えていたのだろう?


 過去を振り返れども、褪せた記憶の中に答えはない。

 これと似たような状況で、今よりもずっと弱く幼かった自分が、何を支えにしていたのか。

 テルスは少しだけ、あのときの自分を羨ましく思った。

 だけど、今の自分にもあのときとは違うものがある。


「ふう……もう、いっか……」


 もう逃げられないとテルスは覚悟を決めた。


――戦おう。


 この魔物から逃げきることはもう無理だ。

 いたぶるように追いかけられ、身も心も限界に近い。

 それなら、最後は戦ってみよう。

 なにより、何もせずに殺されるなんて腹が立つ。

 立ち止まったテルスは弱音を吐く心を叱咤して、震える手で刀を抜いた。


「お金、払いそびれちゃったな……」


 多分、この刀を使うのは最初で最後になる。

 こんなときなのに、頭は嫌になるくらい冷静だ。

 自分自身に呆れて笑みを浮かべたテルスは、視線の先に現れた屍の魔物を静かに待ち受ける。


「何から攻撃してみよう。落とし穴もないし、やっぱり【魔弾】か」


 テルスの手札の魔法は五枚。


 【強化】、【魔弾】、【魔壁】、【魔刃】、そして、オリジナルの魔法。


 この三年でテルスは五つの魔法を覚えた。

 とはいっても、テルスの魔力の総量は大して増えず、オリジナルと【魔刃】以外は基礎の魔法だ。

 エレンリードの必殺が届かなかった以上、テルスの魔法に勝ち目はない。

 それでも、テルスは抗おうとしていた。


「よし……いくぞ」


 震える膝を叩き、テルスは走り出す。

 そして、牽制に屍の魔物へと【魔弾】を放ち、


「【魔弾《翡翠(ジェイド)》】! やった、間に合った!」


 たやすくテルスの【魔弾】を追い越していく翠緑の弾幕。

 それが屍の魔物に叩きこまれるのをテルスは呆然と眺めていた。


「ああもう、テルス! 大丈夫、怪我はない!? 無茶したら駄目でしょ! こんな危ないのは、どうせちょっかい出したのはあいつなんだから、あの馬鹿に押しつければいいの! 精霊魔法、【フルメン】、【イグニス】、【ウェント】」


 背後から抱きすくめられ、テルスは体をぐるんぐるん揺さぶられる。

 その片手間に恐ろしい規模の魔法が冗談みたいに放たれていた。

 雷光が魔物に直撃し、その雷の魔法で生まれた火種が炎の渦となって燃え盛る。

 最後は爆風と風の魔法が重なり合い、屍の魔物を森の奥へと吹き飛ばした。


「………………すごいけど、なんだかなあ」


 なんだか、自分の覚悟とかを色々と返してほしい。でも、


「助けに来てくれてありがとう。ルーン姉」


「ふふ、どういたしまして」


 とても心が温かかった。

 冷たい氷が溶けていくかのように、じんわりと熱が体に広がっていく。

 温かく、どこかくすぐったい感情が今はとても心地よかった。


「さて逃げよう。すぐに逃げよう。あれじゃあ仕留められないし、準備してた魔法は全部使ったから、ルーンのマジックショーはもう終わり。閉幕! ほら、行くよテルス!」


 体に染みわたる温かさに安らぐ暇はない。

 ルーンは破けたフードを掴んで、ぐいぐいとテルスを引っ張って走り出す。

 走る速度も、すぐにテルスの息が上がるくらい速い。

 ルーンの顔を見れば、その横顔は緊張からか張りつめていて……なんだか、いつものルーンらしくなかった。


――焦っている……?


 怒涛の連続魔法を直撃させて魔物を吹き飛ばしたにもかかわらず、ルーンの表情には余裕がなかった。

 あの魔物を倒せているとはテルスも思っていない。

 しかし、ルーンの魔法で足止めにもならないとは思いたくなかった。


「あの魔法でも駄目なの?」


「うん。あれを倒すなら、王都の最高戦力と浄化師でも連れてこないと無理」


「それって……ルーン姉はあの魔物を知ってるの?」


「多分、あれは……って、やっぱりついてきてた」


 ルーンの視線の先には、ファル団長たち《トリック大道芸団》の面々がいた。

 走ってくるテルスとルーンを見つけると、四人は安堵したような笑みを浮かべて合流する。


「久しぶり」「大丈夫だった?」「災難だったね」「そのうちいいことあるよ」「多分だけど」


「久しぶり……もう、いいことはあったよ」


 最後の部分は誰にも聞かれぬようにこっそりと呟いた。

 皆が助けに来てくれたことが嬉しくて、涙が出そうだった。

 気づかれないように、少しうつむいて走るテルスの頭をファル団長の大きくて丸い手が撫でる。


「よく頑張りました。後で、お菓子をあげましょう……ハンス君が」


「俺かよ。ま、無事で何よりだ。菓子の一つや二つ、全部終わったらいくらでもくれてやるよ」


「そういえば」「今度、テルスに会ったら」「言うことがあったんじゃない?」


「それ、今言うことかよ」


「そうだね……悔いのないように言っておいたほうがいいかな。ねえ、テルス」


 ルーンの呼びかけに、テルスは顔を上げた。

 ミケとタマはわくわくと目を輝かせ、ファル団長は不気味に微笑み、ハンスは少し口角を上げる。

 そして、ルーンもいつかと同じ、悪戯っぽい笑顔を浮かべていた。


「《トリック大道芸団》に入らない?」


「え?……でも、おれは面白いことできないよ。ファル団長みたいに初対面の人のことを泣かせるのも無理だし」


「……その言葉が出てくるなら」「十分面白いと思うけど」


「ええー、それは誤解だよお、テルス君。我々は『悪戯大好き、世界に笑顔を届けるトリック大道芸団』だよ。誰かが涙するのは、嬉し泣き。嬉しくて、嬉しくて、仕方がなくて笑みが浮かぶのだよ。決して、背筋が震えるような恐怖に涙を零すわけでも、笑わないと死ぬから無理矢理笑おうとしているのではありません。分かりましたか?」


「そっかー。分かった」


「いや、分かるなよ! あれは、単なる営業妨害だ! 自分で自分のクランを潰そうとしているだけだ!」


「私たちがいつまで経っても有名にならなくて」「貧乏なのは」「あれが原因なんだろうね……」


「そんな馬鹿な! 皆、何を言っているんだ!」


 口喧嘩がすぐ隣で始まる。

 もう、魔物から逃げていることすら忘れていそうだ。

 そんな狂騒はいつものこととばかりに、ルーンは四人を無視して、テルスに答えを聞く。


「さあ、どうするテルス? 一緒に貧乏生活しながら、こんな風に騒がしい旅をしてみない?」


 考えたことがなくて、答えに詰まる。


 戻らなくてはいけない。


 テルスはずっとそんな気がしていた。

 家族のことを、失くしたものを思い出すため、自分が拾われた場所に行くことを考えていた。

 仮に、この勧誘が昨日だったなら、テルスは考えた末に断っていただろう。

 でも、今なら。

 素直に胸に広がる温かさに寄りかかってもいいかもしれない。

 束の間、テルスはルーンたちと旅をしている光景を脳裏に描いた。

 皆と共に旅をし、大道芸を手伝い、魔物を退治したりするそんな光景を。


――ああ、それはとても、とても楽しそうだ。


 答えようと口を開いたテルスに、


 そんな幸せは認めないとばかりに、あの悪寒が背筋を震わせた。


「おれは――止まって! 前から、あいつがくる!」


 テルスが叫ぶと同時にそれは葉をかき分けて現れた。

 ずるずると骨剣を引きずり、弱々しく歩きながら、


 屍の魔物は一歩一歩、近づいてくる。

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