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盤上のピーセス  作者: 悠々楽々
一章
1/196

ぼっちな少年

 冷たい雨が倒れた少年の体に降り注いでいた。

 黒い髪は雨と泥に濡れ、破けた服には血が滲んでいる。

 少年にはもう立ち上がる力さえ残っておらず、ただ白く重苦しい雲を眺めることしかできない。

 湿った土の匂いに包まれ、ただ水が体に染み込んでいく感触に浸る。

 そうしていると、体に染み込むのは水だけでないことが分かった。


 黒く得体の知れない何かが水に紛れて体を染めていく。


 雨粒が体を打つたび、この空間に漂う澱んだ空気を吸うたび、少しずつ、少しずつ、それは小さな体に染み渡る。

 記憶が欠けるように消えていく。

 自分の名前が思い出せない。頭に浮かぶ人たちの名前が思い出せない。

 何故こんなことになっているかも分からない。分からない分からない分からない………………何もかもが分からなくなっていく。


――きっと、この淀んだ何かが体中に広がったとき、自分は消えるのだろう。


 少年にも死が迫っていることは理解できた。

 しかし、もう体を動かそうとしても指先が震えるだけ。この暗い世界から逃げ出そうにも、心より先に体が悲鳴を上げていた。

 どれほど走ったのかも、どれくらいここにいたのかも覚えていない。

 気がつけばこんな場所にいて、大きな生き物に襲われた。

 逃げて、隠れて、なんでこんなことに、と声を押し殺して泣いた。恐怖に怯え安らぐことのない浅い眠りを繰り返し、傷つき血を流しながら走って、走って、走って……ついに力尽きて倒れた。

 もうその記憶すら、遥か遠い昔の出来事のように色褪せていた。

 記憶という写真の端に火が灯り、思い出すら黒く焦がしていく。


 駄目だ、と思った。

 

 その中にはとても大事で、大切で、守らなくてはいけない『約束』があるから。


「戻らないと……あいつが待ってるんだ……絶対に、助けに行くから……!」

 

 そうやって忘れぬように、心に刻むように、『約束』を呟く少年の目から涙が溢れていく。

 

 駄目だった。

 

 もう、誰が自分を待っているのか思い出せない。

 灰となった記憶を探しても答えはなく、広がる空白に理由も分からぬ涙を流す。

 全てが空となり、体は朽ち果て息絶える。

 それが、この少年のほんの少し先の未来。どれほど頑張ろうと変わらない、独りの人間の運命。

 ゆっくりと瞼は閉じられ、静かに眠りへと落ちていく。

 まどろむ意識の中、少年が最後に感じたのは自分の体を包み込む温もりだった。











 この世界『セネト』では、まるで盤上の駒のように人と魔物が争っている。

 汚染され、黒く切り取られた魔物の領域が点在する大陸は遥か上空から見下ろせばゲームの盤上のよう。

 人と魔物はこの戦いのチェックメイトを求めて、互いの領域を奪い合う。


 これは、何の因果か、そんな世界で戦うことになった『駒』の物語。











◇◇◇











 葉風の町リーフ。


 大陸セネトの東端、精霊が集うと言われる緑が多いこの町の一番の特徴といえば、町の中心部を貫くようにそびえる大樹『精霊樹』だ。

 この大樹を取り囲むように大広場があり、そこでは子供たちが遊び回っている。他にも美味しそうな料理を売る屋台に並ぶ人もいれば、大道芸をしているピエロに拍手を送ったり、声高らかに商売をする行商人もいる。


 そんな広場の様子を一望できる『精霊樹』の枝の上に、その少年は座っていた。


「ふわ……」


 麗らかな陽気が大きな欠伸を誘う。黒髪を優しく揺らす風の感触も心地よい。

 目は眠いのか細められ、手に持った絵本はいつまでたってもページが次へと進まない。

 もっとも、この少年にとっては眠かろうと眠くなかろうと、絵本を読む速度は大して変わらない。


 何しろ、読めないのだから。


「王様と、騎士が……殴り合いました……?」


 それはない。この絵本は型破りな王様が真面目な騎士と悪い魔物を退治しに行く物語。だから、こんな仲が悪そうな表現は出てこないはず。突如、王と騎士が殴り合いを始める英雄譚のはずがないのだ。


「話すのはできるようになったし、計算はなんでか得意なんだけどな……」


 諦めのぼやきは誰にも聞かれず、風にさらわれていった。

 半年前にこの町で目を覚ましたテルス・・・にとって、町の風景も、字も、魔法も、世界の何もかもが未知のものだった。

 どうやら、自分は『すくうぇあ』とかいう魔物の領域で拾われた、というのは知っている。何度も何度も助けてくれた人から聞いたから。名前も『テルス』という名前をもらった。自分の家がいつも面倒を見てくれるベアがいる孤児院であることも分かっている。


 でも、ここに来る前のことはさっぱりだ。


 名前は?

 家族は?

 友達は?


 答えは分からない。

 拾われた少年は名前も分からず、自分についての記憶もなく、喋ることすらできなかったのだから。


 そして、テルスにとって問題はもう一つある。


 枝の上から広場を見渡していると、ある子供たちでテルスの視線が止まる。

 孤児院の子供たちだ。テルスよりも年上でいつも晴れの日は広場でボールを蹴って遊んでいる。対して、自分はいつも一人で木登りをしている。


 というか、この半年間、一人で木登りをしていた記憶しかない気がする。


「……なんか、虚しい」


 ぼっちである。圧倒的にぼっちである。


 べつにテルスはボール遊びがしたいとはそこまで思っていない。

 ただ、一人はまずい。暇だというのもあるが、なにより、魂的なものが訴えかけてくるのだ。お前、その歳からぼっちとか……やばいな、と。

 解決方法はいたって単純。

 声をかけて、あの輪に加わればいい。頑張って笑顔を浮かべて、無邪気な感じでとことこと走り寄り、「一緒に遊ぼう!」と声をかければ、万事解決……


「……しないよなー」


 とりあえず、話しかけて、にこにこと遊び回っている子供たちの笑顔が引きつるところまでは想像ができた。


 気味が悪い存在。


 これが孤児院の子供たちがテルスに抱く印象だということは、なんとなくテルス自身気づいている。第一印象というものはとても大事だ。

 なんといっても、それがこの状況を招いている元凶なのだから。


 テルスの第一印象。それは――『ミイラ』であった。


 当時のテルスは包帯でぐるぐる巻きにされ、ベッドに寝かされていた。

 孤児院の子供たちにとっては、まさに『ミイラ』だ。話しかけても返事はなく、包帯の隙間から覗く真っ黒な目にじーっと見つめ返される。さぞ、不気味に映ったのだろう。子供がいなくなるのに数分とかからなかった。


(気持ちは分かる……分かるけど……おれは悪くないと思うんだ)


 おれにはどうしようもないじゃないか、とテルスは黒歴史に頭を抱えた。

 

 今更、ミイラの中身が出てきたところで、誰も気にかけない。

 距離感が分からないし、未だに会話もままならない。あの輪に入るには少し遅すぎた。入れるにしても今すぐにとはいかず、時間という薬がたっぷり必要になってくるのだろう。


「はあ……今日はどうしようか」


 誰かと遊ぶのはすっぱり諦めて、テルスは町を歩き回ることに決めた。

 うん、いつもとまったく同じ。

 今日はドワーフの武器屋に行こうか、それとも買えもしない屋台を見に行こうか……腹具合的には屋台である。

 行先を決めたテルスはするすると苔生した大樹を降りていく。

 何十人も手を繋がなければ囲めないような大きな樹だが、表面がごつごつしていて、とても登りやすい。今日はいなかったが、テルス以外にもこの樹で遊ぶ子供は多いのだ。

 数分とせず大樹を降りたテルスは和気あいあいと遊ぶ子供たちを横目に広場を離れていく。


「……おれにも、いたのかなあ」


 すれ違う同い年くらいの子供。仲睦まじそうに歩く男女。母親に抱かれる赤子。皆、隣に誰かがいる。前は自分の隣にも誰かがいたのだろうか。


――もし、いたのなら、自分はとんだ薄情者だ。

 

 大事なものを全て忘れるような奴。まさに薄情者。歩いているだけなのに、何かを裏切っている気までしてくる。

 嫌な思いに俯いて歩いていたテルスはやがて足を止める。

 その視線の先には肉を焼いている屋台があった。

 美味しそうな甘い香りが鼻孔をくすぐる。

 ピグーという丸くてブヒブヒと鳴く、巨大化した豚のような動物を焼いた高級肉料理らしいのだが、孤児院のお財布事情的に肉は滅多に食卓に並ばない。並んだとしても安い鶏肉。たまに豚こま。高級肉なんて食べたことがないため、テルスにとってはこれも未知のものだ。


「うまそう……」


 匂いを嗅いでいると涎が出てくる。お腹もぐう、と鳴ってくる。しかし、テルスはこれを買うお金などとてもじゃないが持っていない。

 今日も見ているだけかあ、とテルスはそう思っていた。


「んんっ? やあ、かわいこちゃん。これが欲しいの?」


 そんな声が聞こえた。

 振り向いてみれば、一人の少女が右手に持った串をぶらぶらと振っていた。

 匂いに誘われるように、テルスの顔は串を追う。

 小動物をからかっている気分にでもなったのか少女はにやにやしながら、さらに串を揺らした。


「ほうら、食べたいのかい? 食べちゃいたいのかい? ふふふ」


 甘美な誘惑に勢いよく何度もテルスは頷く。やがて、香ばしいタレが塗られた分厚い肉がテルスの口へ運ばれ、

 かぶりつこうとしたテルスを躱すようにして、ピグーの串焼きは少女の口に運ばれた。


「ん~おいしっ。やっぱ、一仕事した後のお肉は美味しいな~……って、ごめん。そんな親の仇でも見るような目で見ないで! 冗談だって! ちょっとした悪戯だから! はい、どうぞ! 今日はたくさん儲かったから、幸運のおすそわけです。ほら、あーん……」


 疑い半分に開いたテルスの口に今度こそ串が突っ込まれる。

 瞬間、テルスの目が見開かれた。


「うまいっ!」


 舌に広がる肉汁。甘辛いタレ。

 それらが混然となってテルスの口に広がっていく。

 間違いない。確信をもってテルスは叫んだ。

 かなり大きな声で叫ばれたその声に、少女は少し身を引く。反対に身を乗り出してテルスの頭を強めに撫でたのは屋台の店主だった。


「あら、ぼく。嬉しいこと言うじゃないの。ほうら、これ持っておいきなさいな。そこのエルフのお嬢ちゃん風に言うなら幸運のおすそわけね」


 ピグーの串焼きを渡されたテルスは先ほどまでの陰鬱な思いも忘れ、にこやかに笑いながら、口調が変な大男の店主にお礼を言う。

 続いて、少女にもお礼を言おうとし、そこでテルスはこの少女が他の人と少し違うことに気づいた。


 なんか耳が尖ってる。


「ねえ、お姉さん」


「お、お姉さん!」


 何故か少女はその言葉に胸を押さえ、過剰に反応する。

 そんな少女に首を傾げながらテルスはゆっくりと言葉を続けていく。


「なんで、耳が尖ってるの?」


「それはねー、私がエルフだから! エルフのことは知ってるかな?」


「うん、知ってる」


 エルフ。聞いたことも、見たこともテルスにはある。

 エルフとは魔法が得意な種族で、耳が尖っているのが特徴な見目麗しい種族だ。

 精霊が多いと言われるリーフでは、精霊を信仰するエルフを見る機会は他の町よりも多い。だけど、この少女はテルスが見たことがあるエルフとは特徴が一緒でも雰囲気が違う。

 エルフはなんというか、こんなちんまりとした感じじゃないのだ。

 平たく言うとパチモンっぽかった。


「……まあ、いっか。お姉さんありがとう!」


「うんうん、どういたしまして」


 金の髪を耳にかけながら、少女は少しだけ屈むとテルスの頭を撫でる。

 心地よい感触に目を細めながらもテルスの頭にあることは一つだけだ。


「ねえ、どうやったら、あの肉を買えるの?」


 その質問はきっと目の前に立つ少女だったから出た言葉だ。

 細い金の髪にちょっと目を見張るような整った顔。

 きっと成長したらさぞ美人さんになるだろうと誰もが思う……が、テルスにとって大事なのは、自分とさして変わらぬ小さな身長。


 テルスは少女の身長を見てこの人と自分はそんなに年齢は離れていない。

 それなのに、どうしてこんなお肉を一人で買えたのだろう、と考えていた。


 エルフは人よりも寿命が長くその成長も人とは異なるため、外見と年齢がテルスの思う通りとは限らないわけだが、そんな知識はテルスにはなかった。

 エルフは魔法が得意な耳が尖っていて綺麗な人だとしかテルスは知らない。


「そりゃあ、稼ぐのよ!」


「稼ぐ? お金を?……どうやって?」


「ふふ、やっぱり君は男の子だからね。こう駒者ピーセスにでもなって、魔物をやっつけて男を上げればお金も自然に入ってくるよ!」


「そっかー、『ぴーせす』っていうのになればいいのかー」


 テルスの中である図式が作られた瞬間だった。


 魔物を倒せば、お金が入る。お金があれば、これが食べられる。これが食べられるということは、他のも食べられる。他のものが手に入るなら、気になって指を咥えていただけのあれも、これも買える。それに…………


 この危険な図式がテルスの頭の中で構築されていっていることにエルフの少女は気づいていない。

 うんうん、と頷いているテルスの黒い髪をだらけた笑みを浮かべて撫でているだけだった。


「お姉さん、ありがとう! 頑張る!」


 テルスはお礼を告げると、笑顔で走り始める。

 途中で振り返ってもう一度手を振ると、エルフの少女は満面の笑みで大きく手を振り返してくれた。

 ピグーの串を片手にテルスは走る。


 こんなに胸がわくわくするのは目覚めてから初めてだった。


 まるで、求めていたパズルのピースが見つかったかのよう。

 一直線に孤児院まで走って帰ると、テルスは大きな音を立てて孤児院のぼろぼろな扉を開いた。


「ごらあっ!! 扉はこれ以上ないほど優しく開けろっつってんだろ!」


 すぐに孤児院のお母さん役であるベアの叫びが轟いた。

 その窓ガラスを震わす、恐ろしい咆哮すら今は気にならない。

 テルスはそのままの勢いで走っていき、熊のようにがっしりとしとした体にぶつかるようにして止まった。

 軽く息切れしながら頬を上気させて目の前に立つテルスを、やや困惑した様子で巨体の主であるベアは見ている。

 いつもは落ち着いていて、大人びた子供であったテルスとの違いに驚いているのだろう。


「はい、これあげる」


「あ、ああ。ありがとな。ん? これ、どこで手に入れたんだい?」


「貰った」


「誰にだい? 知らない人にものを貰っちゃ――」


 事情を詳しく聞こうとするベアに先んじて、テルスは告げる。


「おれ、『ぴーせす』っていうのになるよ」


 これは変化だ。親しい人間を作れず、何もすることがなく流されるままに日々を過ごしていたテルスの胸に灯った思い。というより、目標や食欲とか好奇心。

 それが一度できてしまえば、あとは進むだけ。ただし、この少年は致命的なまでの問題があった。


 この世界についての常識があまりにも欠けていた。


「じゃあ、魔物倒してくる」


 ようはこの日、テルスは弾けたのだ。駄目な方に。


「……………………は? 何言って、って待て! どこ行くつもりだいテルス!?」


 ベアの怒鳴り声すら追い風にし、テルスは再び走り出す。

 善は急げ、目指すはリーフの外。

 遠目でしか見たことがない外の世界へと続く門へと走っていく。その後ろを五十過ぎのお婆さんが息を荒げ、巨体を揺らし追いかけていく。

 ベアの走る様は、獲物を追いかける山姥のように必死だ。

 何も知らない無邪気な子供が魔物が跋扈する町の外へ武器もなしに出ようとしている。すなわち、ゴールが自殺の道を猛進している。それはもう、必死な鬼の形相にもなるというものだ。

 しかし、三枚のお札もないのにテルスはぐんぐん山姥と差をつけ、走っていく。

 そして、遂に門を通り過ぎ、


「ちょ、待てよ! 子供が外に出ちゃいけないだろ!」


 もう少しというところで、衛兵に抱き止められてしまった。


「何で? 魔物を倒したいから、まずは見に行くんだ」


「いや無理だから! 危ないから! 子供じゃ倒せないの。諦めなさい」


「そうなの?」


「そうなの! 子供じゃ力とか色々足りないだろ? おっきな剣も持てないし、魔法もまだ使えないだろ。生身で子供が正面から突っ込んでも、餌としか思われないよ。こう、せめて罠とかあれば子供でもいける……わけないか」


「そっかー」


 衛兵は己の職務を忠実にこなし、外に出してくれない。

 こっそり衛兵越しにテルスはまだ一歩も出たことのない外の景色を見る。

 まばらに生える木々を縫うように道が伸びている。

 道といっても、落ち葉に覆われ舗装もされていない道だ。綺麗なものでもないし、道の先に町があるわけでも、特別な場所に繋がっているわけでもない。すぐに途切れ、緑に飲まれてしまう道だということは知っている。


 だが、これがテルスの最初の目標だ。


 何とか外に出て、魔物を退治できるようになり、お金を手に入れる……そして、気になるあれやこれやをまずは手に入れる。

 そう心に決めて外の景色を目に焼き付けるテルスに、ようやく追いついた老婆の拳骨が火を噴いた。

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