別世界:マインツ・クレスケンス
この世界にはおよそ40億もの人類に加え、人類が亜人種と呼ぶリザードンやケンタウロスなど人類の特徴が見られる者も含めるとどれくらいの人型の生命体が暮らしているか分からない。
魔物もいれば魔族もいるこの世界は生命の息吹に溢れている。
弱肉強食という言葉の通り、言葉を介する人類を除けばその言葉がピッタリなほど。生活圏から抜ければそこはもう力が全ての世界に様変わりする。
そんな広大な大地を多くの生物が闊歩するこの世界で一番の宗教団体は何処だろう。
この質問をすると誰もがこう答えるだろう――――アフラ教と。
草人だけが信仰するヴァナラ教のよりもはるかに多くの人類が信仰している宗教だ。
宗教とはなんだろう。
人類の心のよりどころ、生きるための指標、神からの試練、様々な意見があるだろうし明確な答えもないだろう。ただ一つ言えるのは、信じるか信じないかは本人次第という事。
ではこのアフラ教とは一体どんな宗教なのか。
一言で言うなら、あまりにも身近になりすぎていて自分がアフラ教とだとは知らずに生きている人物がいるほどにまで浸透している宗教である。
日々の行事にアフラ教の儀式が簡略化されて取り入れられていたり、先祖を奉ったり墓の様式など、あらゆるところにアフラ教は根を張っている。
日本でも例え自分が仏教を信仰してはいないと思っても仏教徒に数えられる。
お正月には参拝をして、お盆には墓参り。七五三もやるし節分もやる。死んだら墓に入ってお経を唱えてもらう。これでは完全に仏教徒なのだ。
つまり日本という国において、一般的な大多数の日本人に該当する行事を行うくらいアフラ教はこの国に広まっていた。
ではそんなアフラ教とはどんな宗教なのか。
教えはただ一つ。
『家族を愛しなさい、隣人を愛しなさい、他人を愛しなさい、動物を愛しなさい、植物を愛しなさい。全ては皆生きているのだから』
簡潔に言えば博愛の精神を持ちなさいという事なのである。
教皇を頂点としたピラミッド型の身分制度で構成された宗教団体。
以下に枢機卿、総大司教、首座大司教、大司教、司教、司祭、助祭がいる。一般的な街や村に存在する教会にいる神父や牧師、修道士などは司祭に相当する。
さらに下には侍祭、祓魔師、読師、守門などの地位が存在するが、これらは現在では殆ど形骸化している。つまり名ばかりのものになっている。その為一般的には助祭までがアフラ教では一般的な宣教師として考えられている。
では話を戻そう。こう見ると下から四番目、街の教会の神父や牧師の上司的な位置と考えるといまいち凄さが分からない。寧ろそんなに偉くはないのではないか、とも思えてしまう。
だがよく考えてほしい。
一つの街や村に教会がいくつある?一つあれば良い方だろう。
寺院だってそうだ。一部の古都などには密集して存在しているかもしれないが、村には一つあるかどうか。町であっても数千人に一社の比率でしか存在しない。
司祭一人がアフラ教徒数千人の頂点と考えればその偉大さが分かるだろう。
その力は時に一軍を凌ぐ、一揆などが起きた時圧倒的な暴力へと変わる。だからこそ例え一国の王だとしても無下には出来ない。
司祭で千、司教で万となれば司教で十万、大司教ともなれば数十万は下らない教徒の頂点となりえる。
数十万もの人類の頂点に立つ、それはもはや一国の主と言ってもいい。それが今回の話の主人公、アフラ教大司教マインツ・クレスケンスその人だ。
教会は何処の国とも一定の距離を置いている。もちろん教会の幹部の中には様々な国々から賄賂をもらい便宜を図って居る人物だっている。清廉潔白などとは程遠い、裏の顔を持つ人間だっているのだ。
だがそれでも協会に属する多くの人物が様々な国々の人物とは一定の距離を保ち、あくまでも宗教と政は別であると考えている。
唯一距離を置いていないのが教会の本部が置かれているザラスシュトラ教国である。
アフラ教を唯一の国教として信仰している世界唯一の国家にして、様々な意味で最強の国家の一つである。
多くの聖騎士を有する協会本部の軍事力は大国の近衛騎士団に匹敵し、大義名分が無ければ軍事行動が執れないとしても十分な抑止力になっている。
質実剛健な応接室、最低限の家具しか置かれていないが決して粗末ではない部屋。
そこに聖騎士を背後に引き連れて、マインツ・クレスケンス大司教は現れた。
「お待たせいたしました、ミリテリアス国の方々。ご存じかもしれませんが、私がマインツ・クレスケンスです。本日は私に何か御用があるという事でしたが、どういった事でしょうか?」
子供に言い聞かせるように柔らかく、清流の様に心地よい、まるで作られたかのような聞き心地の良い声でマインツ・クレスケンスは聞いてきた。
今年42歳になるとは思えないほどに若々しく、瞳も決して濁っていない輝きを放っている。だがそれは決して無知や高潔からくるものではなく、魑魅魍魎の蔓延る教会内でもその確固たる地位を築いていることからも分かる自信の表れ。
決して全てを受け入れる寛容な心だけではなく、自らの信念を曲げない不屈の精神を感じられる。
「まずは本日お時間を頂いた事、誠にありがとうございます。頂いた時間も限られておりますので単刀直入に申し上げます。……マインツ・クレスケンス大司教、貴方の体の何処かに紋章はありませんか?」
「…………はい?」
圧倒的な存在感を放つマインツ・クレスケンス大司教に対し、一歩も引かずに交渉するのは今回の全権を任された外交官。バトラー家とも縁戚の関係にあり身内といってもいいオーモンド伯爵家現当主嫡男、ジェームズ・バトラーである。
彼が放った言葉はさすがのマインツ・クレスケンス大司教も驚いたのか、それとも呆けている演技なのか。
第三者からも分かるほどのリアクションを引き起こした。
「……それは一体どういう事か、ご説明して頂いてもよろしいでしょうか?」
「もちろんです。そもそもの発端は――――
そしてジェームズ・バトラーは今までの経緯について説明し始めた。
背後に控える聖騎士も本当に信用の置ける数人だけを残してもらうことを承知してもらった上で。
ミリテリアス国のキャリック伯爵家の当主が亡くなった事。
紋章が国内の縁者に引き継がれなかった事。
治部省で血縁関係を調べた事。
可能性がある人物がマインツ・クレスケンス大司教しか考えられない事。
話を聞いている最中、マインツ・クレスケンス大司教はじっと彼の声に耳を傾けていた。
それはマインツ・クレスケンス大司教という人物を形作った過去のお話――――自分が一体どういう出生なのか、母親がいるのに父親がいないのは何故か。死別か離婚か逃避行か、頑なに口を開こうとはしない母親。
母親だけしかいないのに働いている姿を見るのは数えるほど、賄えるとは思えないほどの十分な教育を受けさせてくるだけの労働には見合わない財力という矛盾。
力を有しているわけでもなく、子供から見ても不細工とまでは言わないが、特別美人とも言い難い容姿。何処かの後援者のような存在がいるほど特別な存在とは思えない自分の母親。
だがその長年の悩みは――――全て解けた。
自分の父親が貴族の出身であるという事。
当時自分の母親は貴族の家のメイドとして働いており、まだ若かった父親となる貴族と母親は一夜の過ちで子供が出来てしまった事。
通常であればそのまま庶子として、母親は側室として留めて置く事が普通かもしれない。
だが当時の状況はそれを嫌った。正妻の間に子供が出来ていなかったのである。加えて正妻となる人物、マインツ・クレスケンス大司教にとっては義母になりえた人物は非常に独占欲の強い女性だった。
正妻との間に子供はおらず、それどころか側室に嫡男になりえる人物が産まれてしまった。自分には愛する人との間に子供がいないのに、後から出てきた女狐の様な女に子供が出来た。
愛する人を奪われた、そう思うのも無理からぬことだろう。例えそれが貴族の責務の一つであったとしても。
マインツ・クレスケンス大司教の母親や周囲の人物は思うだろう。このままでは二人の命が危うい、と。
嫉妬に狂った者は男であろうと女であろうと関係ない、狂気の人物へと変貌する。自らの目的を果たすためには手段を択ばない殺人鬼へと。
だからこそ当時のキャリック伯爵とマインツ・クレスケンス大司教の母親、そして周囲の人物は秘密裏に行動を起こした。二人の命を救うために。
ジェームズ・バトラーの口から次々と語られる信じられぬ自らの過去。
一切の口出しも許されていない後ろに控える聖騎士達もその内容には驚きを隠せない。
キャリック伯爵と言えば隣国のミリテリアス国の中でも軍事に長けた一族、バトラー家の当主が持つとされている軍閥の中でも一大勢力を誇る一族だ。
ミリテリアス国における剣術や剣技に置いての大家であるメザイア家の様に、過去に何人もの将軍を輩出している戦術に置いての大家なのだ。そんな家の当主になりえる人物が今目の前にいて、月先ほどまで忠誠を誓い守ると誓った人物だという。
聖騎士の彼らでさえ脳処理が追い付かないのに、当事者は果たして処理出来るのだろうか。いや、当事者ならば一層出来はしないだろう。
「はははっ……それは何とも……。突然言われても信じがたい内容ですね」
「信じられないのも無理はありません。突然赤の他人ともいえる人物から自らの産まれの話を聞いて信じられないのも無理ではありません。ですが一つだけ、一つだけお願いがございます。マインツ・クレスケンス大司教、貴方の体の何処かに、紋章がある可能性が高いのです。どうか、どうか確認をして頂けませんでしょうか?」
伏して願うジェームズ・バトラーのその姿を、人が良いと言われているマインツ・クレスケンス大司教は無下には出来ない。
いくら荒唐無稽である話であっても、一応は相手の期待に応えてあげよう。そういう優しさが彼にはあった。
「分かりました。そこまで言うのでしたら……ですが期待はしないで頂けますか?」
快諾の言葉を使者に対して掛けたその時、背後に控える聖騎士が言葉を投げかけた。
正式な場ではあまりにも無礼に値するが、それでも彼の言葉には大司教に対する尊敬が見られた。
「……突然の発言失礼致します。猊下、よろしいのですか?正直ジェームズ・バトラー様の話には何の根拠も座いません。改めて猊下の御体を検める必要性は無いのではないかと思いますが」
「騎士たちよ、我らの教えを忘れたのですか?隣人を愛しなさい、ですよ。愛する人を信じなくてどうするのですか?貴方の私への忠誠は有難いですがそれは主への忠誠に、それとその発言は使者殿に対する不敬になってしいます。ジェームズ・バトラー殿、我が騎士が申し訳ない」
そう言って今度は頭を垂れるマインツ・クレスケンス大司教。その対応に逆にジェームズ・バトラーは狼狽えてしまう。
多くの使徒を従えている一国の王にも等しい力を持つ人物が、一介の執務官に過ぎない自分に頭を下げているのだから。もしこれが使徒に見られでもしたら、夜道を安心して通ることが出来ないことになってしまうかもしれないくらいの事は十分にあり得る。
「大司教様!そんな、私目に頭などお下げにならないでください!ささっ、兎に角お顔をお上げして下さい!」
「……御許し下さるので?」
「もちろんですとも!それよりも早く御顔をお上げ下さい!貴方の様な方に頭を下げさせるなど、恐れ多く恐縮しまいます」
「それほどのモノではないと思うのですが……分かりました、そこまで言われるのでしたらこのお話は流しましょう。では聖騎士の皆さん、確認致しましょう。寛大な使者様の願いを叶えて差し上げましょう。手伝ってください」
そういうや否や、彼は立ち上がるとすぐさま隣の部屋へと移動していく。
彼がこれから何をするのか、それは彼が口にした事そして使者である彼が願ったことからも察することが出来るだろう。
数分後戻ってきた彼らの顔、それは入室した瞬間に察することが出来るほど驚愕に満たされていた。
「使者殿、単刀直入に言わせて頂く―――」
席に座ることなく、扉を開けて一歩踏み出したそのままでマインツ・クレスケンス大司教その人は口を開いた。
背後には相も変わらず聖騎士を従えたまま、言いずらそうに重い口を開いた。
「――どうやら貴方のいう事は本当の事の様です。私には帰国のキャリック伯爵に連なる者の血が流れているようです。……私の背中に、ありましたよ。月を尊ぶ紋章が」
キャリック伯爵家の紋章。
それは夜を司り、昼よりも夜に絶大なる力を発揮する勇士の一族。時には領主として冷酷に、時には臣として影となり絶大なる忠誠を誇る王国の刃。
海に月。
日が昇る前の王国の黎明期を表す紋章を象る古から続く名門一家の紋章。




