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8. 乾杯

 インド洋に浮かぶ小島、ブルン島のアゴラ山が300年ぶりに大爆発したというニュースは、その規模の大きさから世界中に報道された。

 噴煙柱は最高時で高さ20キロ。大規模な火砕流が発生し、海沿いの集落を焼き尽くした。

 噴火と火砕流はその後も続き、島の各地に散らばる小規模な村を次々に飲み込んでいった。そして島民は誰も、船を出そうとも避難しようともしなかった。

 2週間たち、火山活動がようやく収まったころ、島の木々の半分は焼き尽くされ、残りはコンクリートのように重い湿った灰に覆われ、死に絶えていた。

 死亡・不明、合わせて約2000人。

 それはほぼ全島民の数だった。




                    ◇




 波に押されて小船がどんと岸に乗り上げる。

 その音を合図に、岩の陰から、背の高い青年が立ち現れた。

 明るい金髪の、透けるような青い瞳の、背の高い白人青年だ。あの日と同じ、濃紺のタンクトップは薄汚れてはいるが、元気そうだ。にこにこと笑いながら、こちらに向けて手を振っている。

 そうしてその背中から、黒髪の可憐な少女の顔が現れた。

 恥ずかしそうにこちらを見て、驚いたように目を大きく開ける。

 その顔だ。愛らしい、人形のような顔。アーモンド形の目。忘れたことがあるものか。

 名前を呼ぼうとしたとき、逆に自分の名を、青年が呼んだ。

「イダ。イダ・バグース・マデ・ウィディアナ……」


 重い瞼を開けると、サファリハットをかぶった白人の、中年男性が顔をのぞき込んでいた。


「おやすみのところ、失礼。ウィディアナさんですか? ブルン島の出身とお聞きしたんですが」


 流暢な現地語だった。

 バニヤンツリーの幹に寄りかかりながら、イダ・バグース・マデ・ウィディアナは充血した目だけを上に向けた。 しだれる枝えだを通して、真昼の陽光が顔を刺す。

「……誰だ」

 皺のよった瞼を枯れ木のような指でこする。

「失礼。わたしはイギリスのS紙の記者です。島の出身者を探して本土を尋ね歩いているところでして。島の僧侶の家系の方が、この高台の避難所にいるとお聞きして」

「島とは縁を切った。今は失業中の漁師だ」汚れた酒瓶に手を伸ばして、男はヤシ酒をあおった。

「降灰でお住まいを奪われたのですね。海岸からここまで、ずいぶんと探しました」

「何の用だ」

「この人をご存知ですか」

 そう言って記者は、手にした一枚の写真を目の前にさらした。

 いまさっき見たばかりの、癖のある金髪を風になぶらせた、透き通る碧眼の若い男が、明るい陽光の下でこちらを見て笑っている。


「……」


 思わず漏らした小さな呟きを聞いて、記者はかがみこみ、声を抑えて尋ねてきた。


「そう、ソロモン。ソロモン・アドラー。やはりご存知でしたか。

 イギリスのホテル王の息子ですよ。

 家を出て各国を放浪しているという話なのですが、最後に立ち寄った国がここなのです。ご家族が捜していらっしゃいます。彼にお会いになりましたか」


 男は黙り込んだままだった。記者は続けた。

「あなたが彼を船に乗せたのを見た人がいるのです」

「……では、船で島に渡した」

 ぼそりと男は言った。

「いつですか」記者は勢いこんだ。

「さあ、噴火の3、4日前だ」

「一人でしたか。何か話をしましたか」

「一人だった。鳥を探しにきたと言っていた」

「そのほかは」

「英語しかしゃべらなかったのでよくはわからない。2週間したら迎えに来てくれと頼まれた。洞窟を抜けたところの浜で降ろした」

「彼とはそれきりですか」

「それきりだ」

 記者はかすかにため息をついた。

 避難テントの立ち並ぶ高台からは、青い海原と、ブルン島が遠目に見わたせた。

 島は今や、無人の巨大な廃墟と化していた。山頂を吹き飛ばして背を縮めたアゴラ山は、かすかな噴煙を上げながら身を傾げて黙り込んでいる。

 記者は島影に目をやると、胸ポケットに手を入れて、別の写真とメモを取り出した。

「実は噴火のあったその夜、彼からイギリスのお父上にあてて画像つきのメールが届いているんです」

 男は充血した目を大きく開けて、虚を突かれたような表情で記者を見た。

「あの状況でロンドンまで届いたんです。衛星携帯だったのが幸いしました。しかし、ありえない場所から撮られています。

 火山マニアでもない彼が、なぜこの瞬間にこんな場所にいたのでしょう。それと、添えられた文面の意味が分かりますか」

 渡された紙と写真をしばらく眺めた後、男はかすれた声でつぶやいた。


「……何のことやらわからん」


 記者は用心深くその表情を見つめながら聞いた。

「そこに書かれているのは、あなたのことですか」

「何のことやらわからんと言った」

 男は俯いて立て続けに咳き込んだ。地面に吐き出した唾は、檳榔樹(びんろうじゅ)を噛んでいるわけでもないのに真っ赤だった。

「……ご病気ですか」記者はわずかに後ずさるようにして聞いた。

「胸の病だ。医者にも見放されてる」

「それは……」

「……おれが船を出した責任はある。それは感じている。彼のことは忘れたくない。このメモと写真をくれないか」

 初めて見る切実な色を瞳に乗せて、男は頼んだ。

「そうですね、あと少し質問に答えていただけるなら」

 男は握りしめたせいで皺だらけになった写真を広げて眺めたまま、また黙り込んだ。記者は小さな録音機を取り出すと、スイッチを入れ、続けて問いかけた。

「島民のことなんですけどね。

 彼らは誰も逃げようとしなかった。海岸には船があったのに、誰ひとり乗ろうとした形跡もない。ここが謎なんです。元島民として、あなたはなぜだと思いますか」

 10秒ほどおいて、男は答えた。

「置いて逃げることができなかったんだろう」

「何を、ですか」

「自分たちが、長いこと、島に捧げてきたものをだ」

 記者はしばらく考えてから言った。

「信仰……ですか」

「……いい答えだ。それでいい」

 こちらに向けられた男の瞳は、深い影と意味の分からないかすかな笑みをたたえていた。たぶん自分は正解を外したのだろうと記者は思ったが、あえてその点を問い直すことはしなかった。

「島民全員が信仰していたその山の爆発によって、島民は全滅した。無情なものですね。僧侶の家系の人間として、問いかけたくはなりませんか? 神よ、わたしは一体何を信じてこれから生きていったらいいのですかと」

 何か遠くを見るような目で、あるいはひどく近くにあるものを覗き込むような目で、男はじっと記者を見た。記者が思わず視線をそらしかけたとき、男は静かに言った。


「おれは何も信じていない。

 この世界の何一つ、確かなものはない。

 そう悲観するものでもない。島も住人も、ソロモン・アドラーも、どこかの世界で、どこかの手品師の指先からくるりと生まれ直しているかもしれない。入口も出口も、案外そこらにぽかりとあいているのさ。

 それよりも、思い出の中の唯一無二の少女のほうが胸に残る。そんなものだ。おれも、彼も、そしてたぶん、神も」


「……神も?」


「そんなものだ」


 皺に覆われ、酒焼けした顔で繰り返す男の顔を見ると、記者は黙って帽子をかぶった。




 記者が去ると、男は再びざわめくバニヤンツリーの幹にもたれ、渡されたメモと写真を見た。

 爆発しているアゴラの山頂を火口の至近距離、ほぼ真下から撮った画像だった。

 真っ赤なマグマが野太く火口から立ち上がり、赤く燃える火山弾が無数に周囲に飛び散っている。その間を縫い、青白く枝を伸ばす猛々しい火山雷。この世の最後の花火のような凄絶な風景だった。


 添えられたメモの文章が、あの青年の声となって立ち上がった。



 ――パパ、ママ。親孝行ができなくてごめん。

 今ぼくは人生で一番美しい夜空を見ている。

 こんな罪深い俗世の人間が人生の最後にこれほど美しい風景を見ることができるとは。ぼくは果報者だ。

 ずうっと羽のあるものにあこがれ、追い続けてきた。いい人生だった。

 どうか悲しまないでほしい。

 サンドラに会えたらいい。彼女のところに行ける資格がもしまだぼくにあれば。そう祈っていてください。


 そして、やせた船乗りよ。

 ぼくは役目を果たした。アゴラの怒りがその証だ。

 この壮麗な噴火をきみに捧げる。

 やっと幻の鳥に出会うことができた。ほんとうに美しい鳥だった。

 そしてぼくはそれに値しない、薄汚れたチリ屑のような人間だった。

 自由な世界の果てに彼女を、彼女たちを隠した。

 もう小鳥たちの祭壇はいらない。

 どうかぼくの手品のために乾杯してくれ――



 紙を畳み、男はまた島を見た。

 島は薄白い噴煙を上げたまま、11月の空の元、見始めた長い夢に包まれてまどろんでいるようだった。

 男は最後の一口ぶんのみが残る瓶を持ち、灰色の島に向かって高く掲げた。

 そうして長い長い長い時間、そのままだった。


 ……やがてその腕が震えだし、最後の酒が頭上にこぼれ、目に入り、視界が安いヤシ酒と涙に虹色に輝きだすまで。


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