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7. フリア・ルルア

 ソロモンはゆっくりかがみこむと、少女の髪をかき分け、ほんのり目を見開いたままのおさない顔を見た。

 体も髪も、泳いだばかりの川の水でしっとりと濡れている。額の血はもうゼリー状になっていた。か細い腕も首も、無我夢中で藪の中をよじ登ったときにできたのであろう、無数のかき傷に覆われている。

 しんと静かな空間が、すでにその身の回りにはできていた。何物も犯すことのできない、深い深い、透明な静謐だ。

 ソロモンは膝の上に少女の頭を乗せ、そっとその体を仰向けにした。そうして泥を払い、葉っぱや小さな枝をつまみ捨て、額の血をハンカチでぬぐった。

 そして、両手で娘の体をかき抱いた。


 冷たかった。


 寒風に吹かれたときのように己のからだが小刻みに痙攣しはじめ、不規則な呼吸が喉をひくつかせる。やがて体の奥から嵐のような昂まりが押し寄せ、獣じみた呻きが歯の間から漏れ始めた。

「う――っ………」

 一度声を上げるととめどもなかった。呻きはうねりを伴ってあとからあとから自分の口から流れ続け、魂の痛みに身がソロの木のようによじれてゆく。

 抱きしめる少女の頬に雨のように涙を落として、ソロモンは慟哭した。

 自分が殺した。思い上がったこの自分が、天の鳥をぼろぼろにして、殺した。喉から絞り出す声は咆哮となり、地鳴りとともにあたりにおうおうと満ちた。

 やめろ、今さら何になる。泣くな、外道。この人でなし。ああ、この汚い、醜い声を、死にかけのハイエナのような泣き声を、誰か止めろ。止めてくれ!

 次の瞬間、足首に鋭い痛みが走った。太い針で瞬時に深く差すような痛みだ。

 目を開けて痛みの方向に目をやると、白いヘビがするすると闇の中を逃げてゆくのが見えた。


 ……なるほど、天にも聞く耳があったとは。


 一時の激痛が引くと、体の内も外も冷え冷えと鎮まっていった。


 もう未練も恐れもない。

 未来もない。

 だが、するべきことだけはある。そうだな?


 ソロモンは再度少女を抱き上げ、そっとその頬にキスをすると、道の脇の柔らかな草の上に横たえた。

 そして自分のジャケットを脱いで半裸の上半身にかぶせ、薄く開いていた瞼に指を添えてそっと閉じさせた。

 顔を上げ、頬の涙を腕で乱暴に拭き、真っ暗な夜道の先を見据える。

 トントンと両足を踏みしめ、熱く痛む足首がまだ動くことを確かめると、ソロモンはおうっ、とひとつ大きな声を上げた。そしてまだフリアの香りのする蓮の布をズボンの上から腰の周りに巻き、体を大きく傾けながら、夜道を走り出した。

 一歩ごとに激痛が走る。熱塊が足首から這い上り、心臓めがけてどす黒い何かを送り込んでくるようだ。息が荒くなり、全身がしびれてゆく。

 ソロモン・アドラーは今や全身を意志のみの力で支配しながら、自分の四肢に懸命に叫び続けた。


 止まるものか。何があっても止まらないぞ。目的を果たすまでは、たとえ心臓が沈黙し、魂が体を離れようとも、この体を動かし続けるんだ!


 がんっ、がんっ、と鋭角的な衝撃が何度も地面を下から突き上げ、そのたびに山がごうごうどどどどと鳴った。道はばきばきとひび割れ、崖の上から岩や土くれが転がり落ちて来る。森の木々の間から、生暖かい濃い霧のようなものが湧き出し、視界を遮る。

 坂の勾配が緩くなり、木々がまばらになってきた。

 そら、窪地だ。最終地点だ。

 やがて開けた夜空の下に現れた空間には、倒れた4本の松明が荒れた土くれの上でめらめらと燃えているのみだ。

 異変に逃げ去ったのか、見張りすらいない。

 アゴラの中腹にある窪地から見上げる山頂からは、噴煙とも水蒸気ともつかない灰色の煙が間断なく吹き上がっていた。

 ソロモンはずきずきする足を引きずって、倒れた松明が照らし出す祭壇に向かい、歩み寄った。


 あのときと同じ、鮮やかな布の上に花が散らされ……

 ああ、その中心には、フリアと寸分たがわぬ顔立ちの少女が仰臥している。周囲には、あの青い蝶々が飛び回っている。

 あと20メートルあまり、あとほんのちょっとで少女……ルルアの元にたどり着く、そう思った瞬間、

 地面がまるで、嵐の中の船のようにゆさゆさと横に揺さぶられ始めた。

 足元をすくわれて、ソロモンはその場に転がった。

 ばきばきと音を立てながら、周囲の岩場が割れてゆく。その間から硫黄臭い蒸気が噴出する。

 ソロモンは顔を上げて、祭壇の上の少女の姿を見た。

 四肢は縛められてすらいなかったが、フリアの時と同じ、何かの薬でもかがされたのか、意識を失ったまま、少女は祭壇の上でただ右に左に揺すられている。


「ルルア、ルルア!」


 ソロモンの叫び声は、地鳴りと山鳴りの轟音にかき消された。

 と、祭壇の上空に押し寄せていた濃い霧が、ぐるぐると輪を描き始めた。

 天のスプーンで裏側から撹拌するように、絵にかいたようなはっきりとした渦巻が空に出現してゆく。

 そして渦巻の周囲では、青く細い稲妻が、木の根のような手足を伸ばして閃き始めた。

 ゆさゆさと左右に揺られる大地の上を、ソロモンは歩いては倒れ、這うようにして進み、腰に巻いていた布をほどいて手に持ち替えた。

 ばりばりばりっと雷が中空で放電する。頭を上げれば打ち砕くぞとでも言わんばかりだ。

 それでも祭壇まであと10メートル余りの距離に来た時、ソロモンの目の前で、ルルアの体がふわりと浮き上がった。

 四肢を投げ出し、仰臥したままの姿で。

 その真上には、すでに二倍ほどに直径を広げた巨大な渦巻がゆっくりと回転している。

 と、渦の中心から一筋の光が梯子のように降りてきて、ルルアの全身を照らした。

 スポットライトに照らされるようにして、ルルアの体もゆっくりと回転する。

 ソロモンの脳裏に浮かんだのは、愚かにも、舞台のイリュージョンだった。職業病なのか、こんなときなのに、目の前の異様な状況が観客のためのショーにしか見えない。

 いや、それならそれで、自分にできることをするだけだ。

 ソロモンは最後の力を振り絞り、がっと立ち上がると、蓮の布を手に一気にルルアのもとに走り寄った。高さはちょうど、ソロモンの目ぐらいだ。

 フリアと全く同じ愛らしい顔立ちで、目を閉じたまま吸い上げられてゆく少女を一瞬眼前に見たのち、ソロモンは広げた布をばさりと頭から全身にかけた。

 布は少女の形のままゆっくりと上昇してゆく。

 このさきどうすればよいか、自分は知らない。こんな大がかりなイリュージョンはしたことがない。やるとしたら、あれしかない。命がけでやるんだ。ソロモン・アドラー、一世一代の舞台だ。金髪の青年は目を閉じて、おのれの魂に呼びかけた。


『こうしたい、こうなるであろうという未来を現実より強く思い描くのだ。それさえできればすべては可能になる。自分がしているのは、それだけだ。やってごらん。現実のすべてを、心のすべてで否定してみるんだ。そして自分の、本当の望みを突き詰め、見つめ抜くんだ』


 見えた。そう思った。まるで一本の鉄の柱に頭から貫かれるように。

 ソロモンはきつく閉じていた目を開くと、もはや自分の頭の高さまで上昇しているその人型の布の端を持ち、荒れ狂う天に向かって体を絞るようにして叫んだ。


「ワン、ツー、スリー。消えろ!」


 渾身の力で布を引き、するりと蓮の花柄が宙を滑ったそのあとには、

 ああ、なにもない空間がぽかりと広がっていた。


「やったぞ!」


 ど―――――んんんんんん。

 ソロモンの叫びを合図のように、地面のはるか下から湧き上がったマグマの塊が天空をついてアゴラの頂上から吹き上げた。

 赤く染まった噴煙が夜空を焦がして湧きあがってゆく。

 ソロモンは落ちていた蓮の布を高く掲げると、荒れ狂う天空に力いっぱい投げあげた。

 風に吹き上げられた布はゆっくりと回転し、その中から、二羽の純白の鳩が立て続けに飛び出した。

 いや、純白ではない。その姿は透き通り、背後の風景をすかしてなお輝いていた。襲いかかる火山弾の燃える礫を透過しながら、寄り添って上昇してゆく。

 あの夜、自分の手からこぼれ出たカラーボールを見たときの浮き立つような衝撃を、さらに何百倍にもしたような歓喜の大波が、ソロモンの全身を絞り上げた。その喉から、自分とは思えない声が吹き上げてきた。全身を震わせて、ソロモンは叫んだ。


「フリア・ルルア・アユアララララララ……」


 可憐なふたつのまぼろしは、別れを惜しむようにソロモンの頭上を一度旋回し、やがて煙幕のかなたのきらめく夜空の中に溶け込んでいった。

 いまや彼の全身を凌駕するのはただ、笑いの発作だった。歓喜と狂気がからだをゆすぶり、自分の声をとどめることができない。

 両手で額を覆い、ソロモンは狂ったように笑い続けた。


「どうだ。やった、やった。イダ、ぼくはやったぞ!」


 真っ赤な柱が夜空を焦がして噴出し、その先が火花となってあたり一面に散る。火山弾が宙を舞い、火山雷が雲の中に稲妻を狂ったように走らせる。

 蛇の毒で腫れ上がった足首がぐにゃりとくだけた。ソロモンはそのまま地面に膝をつき、あおむけに地面に倒れた。

 漆黒の夜空へ向けて次から次へと吹き上げる溶岩の赤、飛び散る閃光、絶え間ない爆発。すべてが自分に向かって落ちて来る。

 知らないうちに溢れ出していた涙が、眼尻から頬を伝って流れてゆく。


 ソロモンはゆっくりと両手を伸ばし、天を掴もうとするように十本の指を広げた。

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