6. ソロモンの指輪
一晩を狂恋の中にすごし、すっかり声も発さなくなった少女の髪を撫でてあと半日を過ごすと、夕暮れ、ソロモンは荷を小さくまとめて少女の手を取り洞窟を出た。
あの危険な声を不意に発さぬよう、その口元には、布をきつく巻いたままだった。
贄の期間はここら一帯が禁断のエリアとなっているのか、ひとが訪れることはないようだけれど、いつ踏み込まれるかもわからない。より目立たない洞穴でも探して移動したほうがいい。そう考えてのことだった。
少女は、ソロモンが鳩を出した、あの蓮柄の布を頭からかぶり、俯いて手を握られるままに歩いた。
人目につかぬよう沢に下り、羊歯やヒカゲヘゴの影を歩きながら、ソロモンは考えていた。
自分と同じ名を持つ、イスラエルの王のことを。
その昔、エルサレムに神殿を建設中のソロモン王は、神であるヤハウェに祈っていた。
神殿の建築が思うに任せない。どうか山積している問題を自分の前から取り去ってください。
すると大天使ミカエルが現れ、ソロモン王に黄金に輝く指輪を与えた。
指輪は真鍮と鉄でできていて、真鍮部分を用いて天使を従わせ、鉄の部分を使いて悪魔を従わせることができた。
そして、動植物の言葉をも聞きわけることができたという。
かくて神殿は完成された……
過去生贄となった少女たちが、どのように何者に連れて行かれたかは自分は知らない。ひそかに人買いに買われたか、あるいはけものの餌になったか、この島のどこかにほんとうに棲む魔物にさらわれたのかもしれない。
だが、これが宿命なら、このように外の世界からやってきて少女の現実と夢の領域を揺るがし、その身も心も受け取って連れ去る自分は、予定された神と同等と言っていいのではないか。少なくとも、少女にとってはそうなのではないか?
ソロモンは自分の中につみあがってゆく狂気じみた燃料に、自ら振り上げた手で松明の火を移そうとしていた。
言葉の通じない少女と、自分は意思を通じ合っていた。いつの間にか自分のこの指には自分の名と同じ、ソロモンの指輪が与えられていたのかもしれないではないか。
ならば自分には、少女にとっての神となる資格が与えられていたということかもしれない。そうだ、そうに違いない。
ずんずん、と続けて山が揺れた。アゴラ山の山頂を見上げながら、ソロモンは思った。
神とやらよ、どうしていつまでも現れない。お前が望んでいた生贄は、もうお前の望む姿ではない。遅きに失したのだ。彼女はもう、自分のものだ。そうやって、身を震わせているがいい。
陽が落ちてからも、身を隠せるような洞穴は見つけられなかった。
ソロモンは谷を深くえぐる川の川岸に平たい大きな岩を見つけ、一晩そこで過ごすことにした。
澄んだ谷川は浅く、流れも緩やかだった。
水を汲み、ぶら下がっていたパンの実をコッヘルで蒸し焼きにして、クラッカーを皿に置く。
口元の布を外しても、フリアは何も食べようとしなかった。視線はただ中空に投げ出されていた。
悲しみも憎しみもそこにはうかがわれず、帰路を見失った渡り鳥のような困惑が瞳の中をさまよっているように見えた。
フリアは蓮の布をそっと頭から外すと岩の上に置き、ふらりと黒髪を振った。そして、胸に巻いた白い木綿と腰から下を被う橙色の巻き布を身に着けたまま、つと立って、静かに沢の水の中に入って行った。
……沐浴をするつもりなのか。
ソロモンはなにか古い絵の中の風景を眺めるような、言葉にできない心もちで、暗い緑の中にちらちら見え隠れする少女を見ていた。
黒髪を水面に広げて、少女は川にあおむけに浮いた。かと思うとうつぶせになり、つぶりと潜ると少し離れたところに頭を出す。やがて岸近くの別の岩に這い上がると、足を投げ出して夕暮れの空を見上げた。そして、そのままあおむけに倒れた。泣いているのかもしれない、なんとなくそう思った。
ソロモンは昨夜の自分の所業を思い出していた。
いったい自分は彼女にとってどんな存在になってしまったことだろう。ひととしての情けを、一体どこに捨ててしまったのか。何の信頼も愛も、もう取り戻せはしないのだろう。今さら後悔してもしかたない、時間を戻しても多分自分は同じことをするのだ。
が、縛めたその口の中で炸裂したであろう彼女の様々な思いを思うと、封じていたその声を聞きたいとなぜか痛烈に思った。それがたとえ、自分の身にどんな影響を及ぼそうとも。
ソロモンは少女の横たわる岩に近づくと、側らに座り、仰向けの顔を見つめた。
ぽかりと開けた瞳は、夕暮れの空に向けられている。
「何か言ってごらん」
少女は反応しなかった。おそらくもう二度と、あの声を発することはないだろうという予感がした。
「声を出していいんだよ」
何と自分はひどいことを言っているのだろう。神の鳥から声を奪ったのは、自分なのに。天があるならばどれだけの天罰が下ることだろう。天があるならば。
ソロモンは無言のまま、少女に口づけた。そして大きな両の手で、しっとりと濡れた頬を包み込んだ。
「……愛してる」
フリアはゆっくり、濃い睫を閉じた。
そのとき。
どこからともなく、かすかに、楽の音が聞こえてきた。
金属弦の琴と、竹笛。
哀切な旋律がからみあい、より合わせた絹糸のように強弱をつけて闇の中を舞う……
フリアははっと大きく瞳を開くと、ソロモンを押しのけて身を起こした。
そして、視線を谷川の上の山道に向けた。
ソロモンも同じ方向を見た。
そこにはなにがあったか。
濃い夕闇に包まれた山道を、松明を掲げた人々の列が進んでゆくではないか。
ソロモンは肌身離さず持っている双眼鏡を目に当てた。
先頭の輿には、あでやかに着飾った少女。
フリアと同じ年頃の、よく似た容姿の、髪型の服装の、金糸銀糸の布の、いや、いや、よくよく見ても、あのときのフリアと寸分たがわない……
「……ルルア!」
鋭く叫ぶとフリアは岩を滑り降りた。そして、人とは思えない身軽さで谷川の壁面を山道めがけてよじ登り始めた。木々の枝をつかみ、蔦にぶら下がり、まるで重力など関係ないかのようだ。
ソロモンはとっさに蓮の布を掴み、慌てて後を追ったが、勝負にならなかった。少女の姿はどんどん上方の闇の中に緑の中に小さくなってゆく。木々が、草が、蔓が枝えだが次々に障壁を作り、ソロモンのゆく手を遮る。
そのとき、どうんどうんと立て続けに山が鳴り、ごごごごと大地が揺れた。
今までに感じた中で一番大きな揺れだ。山肌をがらがらと音を立てて土くれや岩が転がり落ちてくる。
蔦にしがみついて揺れを耐え、どうにかこうにか崖を登り、山道に顔を出したそのとき、ソロモンの目に映ったのは、道の端にうつぶせに倒れている少女の姿だった。
「……フリア!」
這うようにして側らに寄る。
目を閉じ、顔を横に向けて倒れているフリアのその額からは、大量の血が流れていた。
側らには、握りこぶしほどの大きさの石がばらばらと散乱していた。
隊列は大慌てで先に進んだらしく、もう音楽も聞こえない。
「フリア。フリア…… フリア!」
かすれた声で名を呼び、体を揺すっても、その体からはもう何の反応もなかった。
額に手を当て、脈をみようとその首筋に左手を当てたその時、
ソロモンの目の奥に未知の衝撃が走り、突然ある映像が流れ込んできた。
目で見ているのではない、脳で感じているのとも違う。たとえるなら、魂に直接ダウンロードされている感じだ。
ああ、これは。これは……
混乱の中でソロモンは確信した。
これはフリアの記憶だ。フリアの脳内の映像が、あるいは現在見ている夢が、ぼくの脳内に直接流れ込んでいる……
ソロモンの体はいつしか石のように固まり、目を見開いたままその場に縛り付けられていた。
朱色、薄桃色、薔薇色。
花々が染め上げられた美しい布が、蚊帳のように、竹のベッドの周囲にひらめく。
薄暗い、竹造りの部屋の中、そのベッドの上で、フリアが……フリアそっくりの少女がこちらを見ている。
長いつややかな髪を背中に流し、蝉の羽のような薄い浅黄色の布を巻いて胸の下で縛っている。濃い睫に縁どられたアーモンド形の、漆黒の目。甘い切ない香の香りがしている。
音楽のように、少女の思念が流れ込んでくる。
音ではない。声でもない。思念だ。
――フリア、こわくない?
目のまえの少女が語り掛ける。
答える自分の姿は、自分には見えない。
こわくないわ、ルルア。もうじき行くところに行くだけ。
わたしはこわい。一人ぼっちになってしまうのがこわい。フリアが誰だかわからないおおきなものにもっていかれてしまうのがこわい。
ルルア。わたしたちは、いっしょにうまれて、いっしょにそだったのよ。
そしてわたしがえらばれた。
だからルルア、あなたはだいじょうぶ。わたしになにもなければ、あなたはそのまま、いきられる。ひとのせかいにかえれるかもしれない。
ひとのせかいなんて、もうわすれた。おかあさんもおとうさんも、かおもおぼえていない。
もとのことばもおぼえていない。わたしにはフリアだけ。いかないで、フリア。
わたしがかみさまのところにいったら、これでおわりにしてっておねがいする。
かみさまがどんなすがたか、しらないけれど。
やさしいといいね、フリア。かみさまって、どんななのかな。
きっとやさしいわ、ルルア。きっとねがいをきいてくれる。
なにもないところからなんでもだしてくれる、そんなことができるのが、きっとかみさま。わたしたちにずっとそれをみせてくれたばあばも、かみさまからならったって言ったもの。かみさまのところにいけば、もっとたくさんみせてくれるって。なんでもわかるようになるんだって。
せかいがどうしてできたかも。
わたしたちがどこへいくかも。
目の前の少女は瞳を涙に濡らし、口元で両手を合わせた。
フリア、きっとおねがいして。やさしいかみさまにおねがいして。わたしたち、またいっしょにいきられるように……
視界がぼやけて風に吹かれる湖面のように揺れる。映像が、途切れ途切れになる。
ルルア、やくそくするわ。
やさしいかみさまに、おねがいしてみる……
少女の姿が揺らめきの向こうで遠ざかってゆく。
すうっと視界が霧の中に霞んでいき、何もかもが霧の中へ消えた。
いつしか、ソロモンの視界には薄暗い陰鬱な森が戻っていた。
体がひどく冷えている。
もう音楽も聞こえない。
ソロモンは座り込んでいたその姿勢のまま、視線を地面に落とした。
足元には、黒髪に顔を覆われた少女が、うごかないひとつの物体となったフリアが、静かに横たわっていた。