5. 手品
一息ついた少女の頬と瞳には、しっとりとした生気が満ちていた。
それを見て取ると、ソロモンは自分の胸をとんとんと指で叩いた。
「言ったよね、ぼくはソロモン。ソロモン・アドラー。
言ってみて。ソロモン」
少女はただ首を傾げて、こんな扱いを受けたことはないというような表情をしていた。何度も同じ問いかけを繰り返すと、やがて少女は赤い唇をゆっくり上下に開いて、発音した。
「ソ・ロ・モン」
小さな鐘を鳴らすような、愛らしい美しい声だった。
「そう、そう。それが、名前。で、」
ソロモンは少女を指さした。
「きみの名前は?」
少女は数秒とまどったあと、一度唇をちらりとなめるようにして小さく息を吸い込んだ。
その口から、りんりんと珠が響くような声が発せられた。
「フリア・ルルア・アユアラララララ……」
語尾は声でなくひとつの音となって空気を震わせ、坂を転がる鈴のようにやさしくあたりに響いた。もはや耳は音としてその波長を捕えていなかった。脳の中心を透明な天使が疾走してゆくようだ。未知の快感の中に意識がふんわりと吸い込まれてゆく。ソロモンは両手で耳を押さえて叫んだ。
「ノー!」
突然の大声に少女は驚いて唇を閉じた。ソロモンは両耳を覆っていた手をそのままに、脳味噌をクールダウンさせようとしばらく深呼吸を繰り返した。
そっと耳から手を離し、指を一本立てて自分の唇にあててみせる。
少女は美しいアーモンド形の目を見開いたまま、自分の唇に同じように指を立ててみせた。愛らしいしぐさに、ソロモンは思わず微笑んだ。
「幻の鳥よ、きみの声は一種の武器だ。ひとの魂を丸ごと持ち去ってしまう。ここで気絶するわけにはいかないから、頼む、大きな声を出さないで。きみの名前は、そうだな……」
ソロモンは首を傾けるようにして少女に顔を近づけると、用心深く言った。
「フリア・ルルア・アユアララララ……
ぼくにはそう聞こえた。待って、繰り返さなくていいから。
だから、きみのことはフリアと呼ぶ。いい?」
少女は嬉しそうににっこりほほ笑んだ。
驚いたことに、意思の疎通ができているようだ。
ソロモンは胸のときめきを抑えながら、できるだけ何気ない風を装ってリュックを開け、手品の道具が入っている黒い天鵞絨の袋を取り出した。
少女は花を散らした台に腰かけたまま、興味深そうに手元を覗きこんでいる。
最初に取り出したのはカラーボールだった。ピンポン玉大の白いボールを掌に握りこみ、ぱっと開いてみせる。
掌には何もない。
少女の黒い瞳が大きく見開かれる。
掌を下に向け、握り拳を作る。握りこんだ人差し指と親指の間からくるりと青いボールが現れる。続いて出てきた赤いボールとともに、青年の指の間をくぐるようにひらひらと移動してゆく。
風が吹く。松明の炎が揺らめき、少女の腰の周りで南国の花々が音もなく揺れ、青い蝶々が少女のほつれ毛にとまろうと羽をはばたかせる。
これは現世の出来事だろうかと、手元を覗く少女の長い睫の影を上から見ながらソロモンは思う。そら、あそこの檳榔樹の陰には二人の男が死んでいるのだ。そして周囲の森では声をひそめるようにして鳥たちがこの一幕を見ている。もう島の守り神のところにこの異変が情報としてもたらされているかもしれない。だが、眼前の少女が生きて手品を見ている、この瞬間の輝きは何物にも勝るのだ。
ソロモンは今や、手品の仕掛けを忘れていた。なのに、手元からはとめどなくボールが出てきた。ピンク、紫、オレンジ、緑。これはどこから湧いて出ているんだ?
次々に出て来るボールに胸がいっぱいになり、ソロモンは思わず夜空に一つずつ放り上げていた。ゆっくりと落ちてきたボールは半数で、元の青、白、赤に変わっていた。
次にトルコで買ったトランプを出すと、手元でシャッフルし、裏返したまま扇のように広げて少女の前に突き出す。
「好きなのを一枚とって」
通じるはずのない言葉に少女は応じ、可憐な指をのべて中央の一枚を抜き取った。
「見て」
少女はトランプを覗きこんだ。
「それがきみだ」
少女はさらに瞳を広げて見入った。
「こちらに向けて」
アラビアのクイーン。シェラザード姫を思わせる可憐な姫の絵柄が、松明の灯りの中に現れる。ソロモンはすっと息を吸い込むと、声を改めて言った。
「ぼくはきみをここから連れ出す。きみを生かすために」
少女は不思議そうに首を傾げた。
地面がまたどんと突き上げられ、ゆらゆらと視界を揺らす。
ソロモンは構わず、次に、少女の前で蓮の花の描かれた大きな布を広げた。
「きみにあげよう。それを頭からかぶれば、カードの姫君そっくりだ。でも、その前に」
ふわりと布を空中に投げあげるようにし、両手で受け止める。膨らんだ布の中央がむくむくと動き、やがて中から羽ばたく白い羽根が現れ、小ぶりな鳩が一羽、くるりとその全身を現した。
少女は両手で口を覆い、それから手を伸ばしてきた。
「ほしい?」
ソロモンは優しい口調で言った。そして足を捕まえたまま、少女の前にそっと鳩を差し出した。少女は鳩に手を添えた。
「でも、鳥の幸せはぼくらの手元にはないよね。だから」
ソロモンは鳩を掴んだ両手を夜空に向かってぽんと上げた。鳩は夜目にも白くはたはたとはためき、火の上を旋回するようにすると、そのまま闇に吸い込まれていった。
「自由にしてあげよう」
少女は黙って空を見上げていた。そして、そのまま動こうとはしなかった。
その瞳には、たぶん、白々とした残像が延々とはためき続けていることだろう。だが、その心の中の残像を推し量ることはできない。
少女の横顔を見ながら、心のひだを覗かれないように気をつけつつ、ソロモンは言った。
「鳩が好きなんだね。なら、ぼくのねぐらにもう一羽、かくれている。真っ白い、雪のような鳩だ。見たいなら、一緒においで。また、手品で出してあげる」
少女は青ずんでさえ見える白目の中の黒目をすうっと動かしてソロモンを見た。
「じゃあ、いこうか」
人と初めて視線を交わしたわけでもないのに、見つめあうという行為の甘やかさがきりきりとソロモンの魂の奥を刺した。
少女に向けて手を差し伸べると、少女は細い手を同じように差し出してきた。
ふたりは幼馴染のように手を握り合い、静かに歩み、二つの骸をまたいだ。
掌にうっすらと汗がにじむ。
そのとき、ひときわ大きな振動が、天と地を同時に震わせた。
どん!
その波長は巨大な大砲のように夜空全体を揺るがし、空間にこだました。 周囲から一斉に鳥が飛び立ち、甲高い叫びをあげながら旋回する。仰ぎ見るアゴラ山の山頂付近に、一瞬灯りがともったように見えた。が、木々を震わせていた振動がおさまると、あたりにはまた静寂が満ちた。
だが、それまでとは違う何かの緊張のみなぎる静寂だ。少なくともソロモンにはそう感じられた。
「……急ごう」
ソロモンは少女の手を握る手に力を込めると、足を速めた。
少女の足もまた飛ぶように早く、何の体重も乗っていないかに思われた。
洞窟に戻っても、地鳴りのような遠雷のような音が遠方からたびたび聞こえた。
ここにいるのも危ない、出て行くのも危ない。異変を感じて男たちが窪地に様子を見に行っているかもしれない。再び見つかって連れ戻されれば、自分は神への聖なる供物を横取りした罪と殺人の罪で死罪、少女は再び贄として捧げられすぐにでも命を絶たれるだろう。
それでも、何の策もなく、やみくもに動くわけにはいかないのだ。
少女は遮光テントの中にぺたりと座り、光を最小限に絞ったランタンの元、ソロモンの持ち出したトマト煮の豆の缶詰を興味深そうに見つめている。
蓋をさっさと切り取ると、プラスチックのスプーンを添えて、常温保存ミルクとともにフリアの前に差し出す。
「じきに移動しなけりゃいけないかもしれない。食べて体力をつけよう」
そうして自分もスプーンで一口食べて見せた。
「食べて」
フリアはまず牛乳を一口飲み、それからスプーンを手に取ると豆をすくって、こぼした。またすくって、こぼす。すくってこぼす。
「食べて、フリア」
少女はきょろきょろあたりを見まわすと、小さく喉を鳴らした。
「クック―」
ソロモンははっと気づいた。
「鳩が見たい?」
「クック―」
「見たいんだね」
ソロモンはもうひと口、豆を食べて見せてから、言った。
「わかった。おとなしく全部食べたなら、また手品を見せてあげるよ。鳩も出してあげるよ」
だが少女は聞き入れなかった。ソロモンのリュックを引っ張り、手品の続きをせがむように、ハンカチやコップを引っ張り出そうとする。ソロモンはその手を押さえて言った。
「暗い中で手品するには灯りがいるだろう? でも今強い灯りをつけるのは危険だ。一番大事なのは食べて体力をつけることだよ」
少女は何かせっぱつまった目をしてソロモンを見つめると、突然語り掛けてきた。
「エイ・アラウララ、ユーア、ララルア……」
ソロモンは慌てて少女の唇に指をあて、珠のように美しい声を封じて、首を横に振った。
「だめだ。言葉を発さないでくれ。どのみち、わからない。それに、きみの声は危険なんだ」
少女は悲しそうな目をして口を閉じた。
考えてみれば、こちらの考えは大方通じているようなのに、彼女の言葉はさっぱりわからない。役に立つアンテナが一本もたっていないらしい自分の頭を、ソロモンはひどく情けなく思った。
試しに、チョコレートを割って少女に差し出してみた。くんくんと匂いを嗅ぐと、少女は赤い舌先でペロリとなめ、次においしそうに噛み砕いた。甘いものならいいらしい。キャンディー、クッキー、チョコ、好きなだけフリアに食べさせると、しまいに酒を垂らしたミルクを飲ませた。そうしてようやくフリアは横になった。
小さな寝息を確かめると、ソロモンはテントを出た。月明かりの洩れる洞窟の入り口に人影がないのを確かめ、それから洞窟のさらに奥に進むと、横穴の中に隠しておいた小さな籠にかけていた布を外した。
中にはもう一羽の鳩が、うつらうつらと眠っている。
ソロモンは考え込んだ。
……この先、どうしようがあるのか。
彼女を連れて逃げようにも、2週間たたねばイダの船は来ない。
もし彼女の失踪を、神が娶ったものと島民が考えるならそれで終わりだ。 だがあの死体はどうなる。自分がするべきだったのは、彼女を連れて逃げることではなく、まずあのふたつのからだを隠すことではなかったか。
ソロモンはポケットから小さな酒瓶を出すと、ヤシ酒をあおりながら岩壁に寄り掛かった。
……いや、実はこの瞬間も、現実の中に自分はいないのかもしれない。
フリアの前で、自分の手の中からは、本来持っていない色とりどりのボールが出てきたではないか。
あれは手品ではない。あれは、……
昔、どう考えても種のわからないイリュージョンを軽々とこなすマジシャンが言ったのだ。
現実はこうあるもの、こういうことは起きるはずがないもの、という観念をゼロにすることだ。そうして、こうしたい、こうなるであろうという未来を現実より強く思い描くのだ。それさえできればすべては可能になる。自分がしているのは、それだけだ。やってごらん。現実のすべてを、心のすべてで否定してみるんだ。そして自分の、本当の望みを突き詰め、見つめ抜くんだ。
もしもあの少女に布をかけて、消えろ!と祈れば、瞬間に彼女はどこか安全な地へダイブするのか。そうであったらいいのに。そうであったらいいのに……
岩に寄りかかったままいつの間にか陥っていた眠りから、ソロモンを揺り起したのは、はたはたという羽音だった。
はっと目を覚まし、膝に抱いていたタガーナイフを無意識に掴んで洞窟の入り口を見た。
鳩の鳴き声が聞こえる。夜明け前の、明るみかけた群青の空の下、洞窟の外に、人影が見える。
彼女だ。
すり足で近寄ってみると、フリアが夜空を見つめていた。足元には、空の籠。視線の先、月の面を、自由になった白い鳩が飛び去っていく。フリアはそれを見送ると、呟いた。
「ルルア……」
一瞬耳を押さえかけた手を離し、ソロモンは少女に低い声で問いかけた。
「鳩を逃がしたのか」
フリアがこちらを見る。長い睫がゆっくりと瞬く。視線の先をたどり、ソロモンは自分が出てきた洞窟の中、テントの周辺を見やった。何かが散乱している。近づいてみると、周辺いちめんに、カード、ボール、コップ、布、花束、リボン、手品の道具がばらばらに散乱していた。手品のタネを仕込むための道具も、同様に投げ出されている。
呆然とあたりを見回すうち、ソロモンの胸に今までに経験したことのない、凶暴な感情が湧き上がっていた。
背後には音もなく歩み寄ってきたフリアがいた。
ソロモンは振り向きざま、振り上げた手で少女の頬を思い切り打った。少女はそのまま横ざまに岩の上に倒れた。
「何をしたかったんだ。何を見たかったんだ。何もかも終わりにしたいのか!」
長い黒髪をくくっていた花飾りもどこかに飛び、少女の顔をつややかな髪がざんばらに覆っていた。夜明けの薄明の下で目を見開く少女は、それまでで一番美しく見えた。
そのとき、ソロモンは見たと思った。自分が望んでいたこと。本当に望んでいたもの。自覚できぬほど短い時間に、雷に打たれるように。
「聖なる生贄としての資格を失えば、きみはもう誰にも奪われない。神のものになる資格もなくなる。そうしなきゃならないのか。それでいいんだな?」
倒れたまま、少女は頬を押さえて唖然としていたが、口を開けて何かを叫ぼうとした。その刹那、ソロモンは飛びかかってその口を手で押え、細い首に指を回し、いとも簡単に締め上げた。声を禁じられた鳥は大きく眼を開けた。
胸から下に巻いていた鮮やかな布が緩み、ほどけていく。
そのささやかな隆起に自分の胸板を乗せ体重をかけると、やがて手品の出番まで裏返しにして眠らせるときのギンバトのように、フリアは動きを止め、静かになった。
青年はのどから手を離し、おさない赤い唇に自分の熱い唇を重ねて、細い体を抱きすくめた。
……愛している。
ぼくだけの、幻の鳥よ。