4. 夜の祭壇
その夜、冷えたコーヒーを飲み干して洞窟から出ると、しだれる南国の木々をとよもして夜風があたりに渦巻いていた。
ソロモンはリュックの口を締め上げ蓋をかぶせ、暗視ゴーグルを胸から下げると、厚底の靴でがしゃりと山道を踏んだ。
重なる枝えだの間から見える空には、猛々しさすら感じさせる星くずが犇めいている。夜空は漆黒というより底が抜けたような透明な群青だ。
夜の空の青さは、奥行きの色なのだ。その果ては宇宙だから、果てしなく透明なのだ。
胸から湧き出す独り言と向き合ううち、ふとソロモンは、10歳のときに事故で失った妹、サンドラの面影を思い出していた。
甘えん坊で寂しがりだった2歳下の妹は、空に帰ったと両親に教えられた。
父親は言った。
ソロモン、泣くな。いずれはお前もわたしたちもあそこに行く。そこは永遠の世界だ。別れなど、わずかな、瞬きほどの間なのだ。……
イダの言ったことを信じるなら、少女が空に召されるまで猶予は3日。もう1日潰したから、あとふた晩のうちに連れ出さなくてはならない。
だがこれが夢なら、自分は幻影に導かれて戻ることのない旅に出ることになるかもしれないのだ。
自分が無意識の闇に落ちる前、イダがつぶやくようにいっていた言葉が不意に脳裏に蘇った。
……見張りは眠らせておく。だがその眠りもいつまでか。酒が覚める前に、お前は彼女のところに到達しなくてはならない。
考え考え、昨夜の記憶に従い、谷川に下りる。そして反対側の崖を這い上がる。
たどりついた山道は一筋、硫黄臭い森の中を、緩やかな勾配で山頂へと続いていた。
このまままっすぐ行けばあの窪地なのか、それともどこかで分かれ道があったか、どうも定かではない。だが足は何かの羅針盤に導かれるように、静かにゆっくりと、先へ先へと進むのだった。まるで足の裏が、見えないイエロー・ブリック・ロードでも踏んでいるかのように。
頭上を見る。鳥の列が、満天の星の下を同じ方向に飛んでゆく。ある地点でその群れは急降下し、次々に緑の中に消えていく。
ああ、あそこだ。根拠もなしに、ソロモンはそう確信した。そうして、指の先で、ボールのマジックを繰り返してみた。
鳩を乗せるときの手の動き。
袋をひっくり返す時の指の滑り。
リュックの中で、ギンバトがくく、と鳴いた。
やがて闇の向こうに、ちらちらと灯りが見え始めた。
一本道のどん詰まり、窪地のまだ手前だ。見張りがいる地点なのだろう。
松明の炎がちらちらと見えるものの、その周囲に人の姿はない。
眠らせておく……
イダの言葉を支えに、ソロモンは懐中電灯をつけず、腰のタガーナイフに手をやりながら足音を忍ばせて進んだ。
これがなにかの罠なら、この身も生贄のお伴になるのかもしれない。そんな昏い予感をも宿命とまるごと飲み込みながら。
竹を組み合わせた松明の高さは1.5メートル余りだった。
その土台から5メートルほど離れたところ、檳榔樹の木の根元に、男がふたり、うつ伏せに倒れ伏している。
ソロモンは覗いていたゴーグルを目から外し、そろりそろりと近寄って、折り重なるからだのそばにかがみこんだ。
トンボ玉のたくさんついた首飾りを裸の上半身に着け、鮮やかな布を腰から下に巻いている。
そして、口元に大量の血をこびりつかせ、うっすらと目を開いている。
草生した地面の上に投げ出したふたりの手の指は猛禽類のように曲がり、あたりをかきむしったのか指先には血がにじんでいた。
ソロモンは立ち上がり、途切れた木々の向こうの窪地を凝視した。
ぽかりと開けた空間に、4本の松明が赤々と燃えている。
その中心に脚付きの台が置かれている。おおよそ、大人二人が横たわれる大きさだ。
東洋の能役者のような足取りで、ソロモンは音を立てずに、その華やかな祭壇に近づいていった。
近づくほどに、魂をくすぐるような甘い香りが強くなる。
緋色の鮮やかな布の上には南国の花々や果実が一面にばらまかれていた。
プルメリア、ブーゲンビリア、チュンパカ、ランブータン、マンゴスチン、ドラゴンフルーツ……
……その花々に埋もれるようにして、長い黒髪の美しい少女が、人形のように仰向けに横たわっている。
大の字に広げた四肢を、祭壇の四隅に立てられた杭につながれている。
昨日行列を見たときと同じ、肩から上は肌脱ぎで、胸から下は細い体ぴったりにあつらえられた、花嫁衣装のようなきらびやかな織物をまとっていた。
少女の周囲には、薄羽根の青い蝶々がひらりひらりと舞い踊っている。焔のすれすれをちらちらと舞うものもあり、少女の長い髪に唇に触れては離れるものもあり、そのすべてがその場を静かに護っているかにみえた。
ソロモンは思わず知らず右手で口元を押さえ、身をかがめて少女を覗き込んだ。
かすかに横を向いた少女の瞼はうっすらと閉じられ、耳元に花飾りのついた長い髪は花々の中に投げ出されている。長い睫が蝶々の羽ばたきに震え、紅を塗られた唇の先の花弁のかすかな揺らぎは、少女がかろうじて息をしていることを示していた。
側らに立ち尽くしてしみじみと見入るその光景は、二重三重の夢の底で、幻影の炎に照らし出される一幅の絵のようだった。
クー、という鳴き声にふと空を見れば、周囲の枝えだに大ぶりな鳥たちの黒々としたシルエットがいくつも見える。窪地の円形劇場の、真夜中の観客たちだ。
静かな心もちでソロモンはつぶやいた。
おまえたちは知っている。ぼくの到来のために、見張りは殺された。誰か来れば自分は手を下したものとして殺されるのだろう。
夢と現実が繋がった。
イダ。きみは幻でも夢でもなかったのだな。
そしてもう自分は、引き返すことはできない。
ソロモンは少女の傍らに跪いた。
気を失っているかに見えた少女は、うっすらと開かれた瞼の下から空を見ていた。
いや、見えているのかどうかはわからない。
麻薬で夢の世界を揺蕩っているのかもしれない。
ひとつ深呼吸すると、ソロモンは顔を少女の耳に近づけ、ささやきかけた。
「やあ、レディ。自己紹介するよ。
ぼくの名前は、ソロモン。ソロモン・アドラー」
英語だった。どうせ人の言葉がわからないというのなら、なに語でも同じだ。
「イダを知っている?」
反応はない。構わずにソロモンはしゃべり続けた。
「彼にとって、きみは昔の恩人で、救うべき相手。たぶん、彼だけの恋人だ。
そしてぼくにとっては、きみは、世界の果てでやっと見つけた、幻の鳥だ」
少女のほほに止まっていた蝶々が、急に、ぱたぱたぱたぱたとせわしなく羽ばたいた。
ほの青い鱗粉があたりに薄く散り、炎が揺らめく。
少女の瞼は徐々に開いていった。そして黒曜石のような瞳がゆっくりと動き、ソロモンの青い双眸を捕えた。
ソロモンも少女の黒い瞳を見返し、そこに宿る光が正気であることを確かめた。
遠目に見たときは年齢を12歳か13歳ぐらいと思ったが、濃い化粧を施された幼い顔立ちは近くで見るとなおさら年齢が推し量り難かった。真紅の紅を塗った唇と目じりを強調した濃いアイシャドウは、まるで罠のように、少女をひどくあどけなくも妖艶にも見せている。
アーモンド形の目がこちらを捕えたままゆっくりと瞬きを二度するのを見ると、ソロモンは鈍く光るタガーナイフを取り出し、できる限り優しい声音で言った。
「大丈夫、これはきみの手と足のロープを切るためのものだ。普段は護身用に持ち歩いてるんだけどね」
そして少女の手首をつかむと、ぐいとロープに刃を立てて、手前に引き、ぶつりと切断した。四肢を戒めていたすべての軛を切り終えるまで、少女は抵抗することもなく、ただとろりと瞳を開いてソロモンを見ていた。
ソロモンはリュックのふた部分に横にしたまま固定していたアルカリイオン水のボトルを取り出すと、蓋を取り、少女の目の前にもっていった。
「甘いおいしい水だよ」
以前大学で一番尊敬を寄せていた動物学者の教授が言った言葉が、常にソロモンの頭にあった。
……人の言葉を解さない動物であっても、こちらが心と愛情を込めてはなしかけるならば、少なくとも伝えたい内容のおおかたは把握するものだ。
少女は濃い睫に縁どられた瞳で、自由になった自分の手と足を信じられないという風に眺めた。
「のど、乾いたでしょう。飲んで」
けれど少女は、怯えた動物のように瞬きもせずこちらを見るだけで、ボトルに手を伸ばしもしない。多分、特殊な環境で死を受け入れる訓練だけさせられ続けてきたこの子は、この期に及んで生きるための試みをしろという突然の指示を理解できないのだろう。無理もないことだ。
ソロモンは少女の背に手を回し、上半身を少しずつ起こしていった。そしてそっと後ろ髪を引っ張って上を向かせた。赤い唇が自然に開く。蓋を取ったボトルを傾け、少女の口に当てた。
かすかに白濁した甘い液体が、その小さな唇の中に流れ落ちていく。
少女は驚いて手でボトルを押し戻そうとしたが、喉に広がる潤いにすぐに陶然となり、今度は両手をボトルに添えて喉を鳴らして液体を飲みくだしはじめた。
こぼれた液体が幼い胸元を濡らし、金銀の刺しゅうを施された豪奢な布に甘い染みを作ってゆく。
ボトルが空になると、ソロモンは祭壇に散らばっていたランブータンの皮をむき、少女の手に握らせた。少女は今度はものも言わず、夢中で熟れた白い果肉にかぶりついた。
赤子のように甘露をむさぼる様子に、ソロモンの胸はわななき、溶岩のようなあつい感情がせりあがって、瞳のふちに涙の球を作った。
……イダ。
ぼくは、間に合った。
この手の中の少女は今、あたたかく、やわらかい。
生きている。