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3. 逃げないでくれ

 目を開けたとき、深い皺に覆われた顔が目の前にあった。

 渋紙色の肌に、ナイフで刻んだような深い皺。やや濁った大きな瞳で、こちらを見ている。


 ……イダ。


 帰ったんじゃなかったのか。あれ、それとも、ぼくはまだ船に乗っていないのか?どっちだ?

 ソロモンは声もたてず、ただ男の顔を見返した。 

 ひび割れた唇がゆっくりと上下に開いて、語り掛けてきた。 


「おれはいくつに見える」


 答えようとしても声が出てこない。視界がぼんやりして、自分がどこにいるのか見定められない。あたりは薄暗く、蝙蝠の糞の匂いがする。


「おれはこの島で生まれ、育った。そして、あの儀式を知ったのは40年前、15の時だった。この島での成人にあたる」


 こぽりと音を立てて彼は陶器の瓶からヤシ酒を飲んだ。


「犬歯を刀で削られて、動物から人間になる儀式も終えた。

 化粧されて着飾って、島の歴史を語る影絵芝居を見て、初めての酒も飲んだ。

 満月の日だった。

 男たちが正装して集まり、その最後尾に加わった。島の神を鎮めるための日と聞かされていた。

 年にいちどの、この島で一番大事な日だと。

 島の神を鎮めるために、母なる山、アゴラの神に捧げものをしなければならない。

 そのときだけのために選ばれ、閉ざされた場所で育てられた少女を引き出して、聖なる山で神に捧げる。

 彼女たちの命があって、今の島の平和があるのだと、おれはそう聞かされていたんだ」


 ああ、ぼくは夢の中にいるんだ、きっとそうだ。ソロモン・アドラーは何かに取りつかれたような男の瞳を見ながら静かな心でそう思った。

 これは英語じゃない。そうしてこんなに長い入り組んだ早口の話を理解できるほど、ぼくは現地語に耳が慣れていない。なのに理解している。これは、夢だ。

 問わず語りに、男は続けた。


「美しく着飾った少女が、輿に乗せられて連れてこられた。

 その顔を見て驚いた。おれは彼女を知っていたんだ。

 山の中で豪雨に逢い、道に迷ったとき、助けてくれた少女だった」


 イダの淀んだ目がヤシ酒に揺れた。


「一言も言葉を発しなかったが、雨の中でおれの手を取り、開けた場所まで連れて行ってくれた。白い綺麗な手だった、お前のように。

 だが、会ってはならない相手だったんだ」


 イダはまた瓶に口をつけた。


「生贄の広場で、彼女は泣きも喚きもしなかった。

 死を恐ろしいものと知りもしないから、悲しみも恐れもない。

 彼女は祭壇の上で、両手両足を(いまし)められたまま、じっとおれを見ていた。

 おれも彼女を見ていた。

 それから彼女は、酒と薬草の煙の助けで静かに現実から離陸した。

 そうして空に向かって、聞いたことのない声を上げた。

 鳥の声のようだった。悲しく美しく、胸をえぐり脳を串刺すような声だ。

 おれはそれを聞いて気絶し、

 気づいたときは家にいた。


 ……それから、泣いた。


 おれの顔を覗き込んで、父親は言った。

 おまえはこれでようやく、この島の男になったのだ」


 ソロモンは、暗闇の中に浮かび上がるイダの横顔をただ見続けた。その姿は今や、教会のイコンのようにも、廃墟に打ち捨てられた彫像のようにも見えた。

 イダは下を向くと、いつの間にか膝にのせていたソロモンのリュックの口を開いた。

 その固い枝のような手に、まずはボールが、造花の花束がリボンが、……飯の種になることもあるので常に携行している手品の一式が次々と現れてはまたリュックの中に消えた。

 イダは最後にエキゾチックな柄のトランプを取り出した。


「生贄の少女たちは幼いころ選ばれ、生育役からそれまでの言葉を忘れさせられる。知恵も恐れもいらないからだ。ごく限られた単語で成り立つ、原始的な、音楽のような言葉を与えられる。

 そのうち、神の世界に届く不思議な声を発するようになる。天に選ばれた娘である証だ。

 そしてまた、少女たちは毎日あるものを見せられて育つ。

 それは、手品だ」


 茶色い掌でカードを一枚一枚めくりながら、イダは続けた。


「この世には何でもありだということを教えるためだ。確かなものなど何もない。あったものが消え、ないはずのものが出て来る。ものも、いのちも、ときも、未来も、なにひとつさだかでない。

 世界も、自分自身も、失ったからといって嘆くほどのものでもない。また誰かの指先からくるりと出て来るのだ。だから恐怖も悲しみも、喜びも、意味がない。

 この世そのものが、誰かの掌の中の手品なのだ。

 それを教えるために」


 ソロモンは岩の上に……そう、自分は岩の上に寝ていた……並べられてゆくトランプを見ていた。


「あれから何度も、列に並び、輿を担いだ。

 窪地に運ばれる少女たちは、3日すれば全員が消えた。どこにいったのかわからない。みな神に召されたのだという。

 だが、おれにとっては、捧げられる少女たちはみな、おなじだ。あの日の少女と同じなんだ。

 おれは長老に言われ、何度も彼女らを運び、何度も神に捧げた。自分たちの平和のために。

 10年前、島を出た。もう耐えられなかった。

 だが、時代の流れはあの島にも訪れた。島を出た翌年、儀式は途絶えたと聞いた。

 おれはどんなにうれしかったか。

 だがそれから数年もしないうちに、島が揺れ始めた。都会のものにはわからずとも住人にはわかる微細な揺れだ。生贄を伴わないいのりが何度か行われたが、事態は好転しない。

 聖なる少女は何かあったときのために選ばれ育てられ続けていたと聞く。

 そして、今年。

 10年ぶりに、あの儀式が復活することになった」


 イダは一枚の絵札を選び、こちらにかざした。


「お前を呼んでいるんだ」


 ベールをかぶった、アラビア風の可憐な姫君の姿が描かれている、クィーンの絵札だった。


「精一杯、お前を彼女は呼んだ。声なき声で、彼女たちは呼んだ。そしてお前は現れた。

 手品を知る白い指を持って。

 これは運命だ。お前はもう彼女を見た」


 深い皺の刻まれた顔の、その陰影がひときわ濃くなった。ソロモンは自分の視線が自分では動かせないことを知った。イダの思念が、瞳から瞳へ、矢のように刺さりこんでくる。


「おれは胸の病だ、もう治らない。そう医者に言われた。

 もう自分のことも島の住民も未来も、どうでもいい。

 ……彼女を助けてくれ。未来の彼女たちを助けてくれ。

 お前しかいない。

 逃げないでくれ。ソロモン・アドラー」


「どうやって……」


 はじめて、かすれた声が喉から出た。

 が、イダに届いたかどうかはわからない。自分の耳に届くのがやっとの声だった。

 イダは目を閉じて、同じ言葉を繰り返していた。


「……お前しかいない。お前しかいない。

 逃げないでくれ。ソロモン・アドラー」


 ソロモンも目を閉じた。


 ……ああ。

 無残で、理不尽で、残酷で、原初的なものがたりだ。

 こんな物語をひっくり返す権利を与えられているなら、ぼくの人生もまだ捨てたものではないのかもしれない。

 瞼の裏の闇の中にイダの迷宮のような深い瞳の残像が残った。

 頭の上でばさばさばさと蝙蝠の羽音がする。

 ソロモンは思った。

 次に目を開けたとき、このことをすべて覚えていたら、彼の言葉に従おう。

 少女を救いに行こう。

 神などくそくらえだ。

 忘れていたら、そこまでだ。

 傍にないはずの波音が聞こえ、体が左右にふわふわと揺れはじめた。


 船。

  輿。

   生贄。

    風。

     夢。

      アラビアのクィーン……



 そして次に目を覚ましたとき、まず遮光テントのオレンジ色の天井が見えた。

 洞窟の入り口が明るい。どうやら、朝だ。


 ソロモン・アドラーは、ゆるゆると起き上り、洞窟を出た。森中、山中が、朝の鳥と鳴きトカゲと、いきものたちの声で満ちていた。

 キュッキュッピイピイ、ジャッジャッジャッ、ツーツーツーカカカカカ……

 そよぐ朝風は、湿気と木々と南国の花々の香りでむせかえるようだ。

 ふと右を見ると、苔むした岩に、白い鳩が2羽、止まっている。

 手品に使う、ギンバトだ。

 この島の生き物ではない。

 ソロモンはそっと右手を差し伸べ、囁いた。


「これがぼくのなすべきことなのなら、逃げないでくれ。

 鳩よ、やさしい白い鳩よ。

 ぼくの宿命を教えておくれ」


 鳩たちは逃げずに、じっとソロモンを見ていた。

 それからゆっくりと羽根を繕い始めた。

 そっと手を伸ばし、後ろからふわりとその体を包み込むと、和毛に指がうずもれた。

 ギンバトはのどの奥でくるるるると鳴いた。


 それでソロモンは、すっかり決心したのだった。   


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