2. 儀式
ソロモンは一人用テントを背負って、人目を避け、アゴラのすそ野のジャングルに分け入った。
島について知っていることを頭の中で復習する。
人口約2000人。古いしきたりと独特の宗教観に固執し、外界と隔絶した村人が住んでいる。食料は豊富で、交易の必要もない。観光地化されていないゆえに自然も手付かず。公に確認されていない動植物も多い。特に、鳥類が豊富。
そしてソロモンの頭にはもう、自分でまとめた鳥類データのこの地域の1ページの画像が鮮やかに展開していた。
インディゴフライキャッチャー、サイチョウ、ベニジュケイ……
だが一番気になっていたのはやはり伝説の鳥だ。
姿は見えないが、その鳴き声は、一度聞けば一生、聞いたものの脳裏から離れぬという。
高音の、笛のような悲鳴のような、胡弓のようなテルミンのような、この世ならぬ波長で耳を震わせる。そして時には意識そのものを奪うという話だ。
よし、拾いに行こう。そして録音し、一生自分のものにしよう。
その決心がすべての始まりだった。
一羽の鳥、ひとつの冒険との出会いは彼の勲章であり、それ以外、彼を前に進める動力はその時点でないと言ってよかった。そんな日々を生きていた。
さっさと国に帰って稼業のホテル経営を継げ、としつこく言い立てて来る父親の顔がたまに頭の隅にひらめくものの、自分の生きるべき場所はあの日暮れ色をした国にはない、という確信だけはあったのだ。
熱帯の植物がしなだれかかるアゴラ山の山道は、猛々しい根っこや赤い岩に侵されてうねうねと波打っていた。
10分登るだけで、もう汗が噴き出る。
いや、異様な蒸気があたりに立ち込めているせいだ。
ふと見ると、木立に囲まれて小さな沼のようなものが見えた。黄色く濁って泡を吹いている。そこから卵の腐ったような硫黄臭があたり一面に漂っているのだ。
ソロモンは危険を感じ、別の道を選ぶことにした。
よく見ると分かれ道の入り口にはたいてい石の道標のようなものが立ち、気味の悪い鳥の顔のようなものが刻み付けられ、バツ印がついている。
立ち入るな、という印だろうか。
人家を避けてきたので人の顔はほとんど見ていないが、遠目に見る集落は、かやぶき屋根に竹を編んだ素朴な建物が、土を焼いたような乾いた塀に囲まれて立っているという風情だった。
本土と隔絶した環境にあって、なお人目を拒絶する作りだ。
頭の上に広がっていた夕暮れのグラデーションは、瞬く間に闇に沈みつつあった。ソロモンは足早に、今夜のテントを張る場所を探した。
いくつか洞窟もあったが、小さい蝙蝠がどこにでも群れていていささか気味が悪い。だがこいつらはフルーツコウモリといって、人畜無害だ。問題は匂いとフンだが、洞窟内にテントを張るなら問題はないだろう。
ずん、と小さく足元が揺れた。
島に入ってから火山性地震のような震動が続いている。
300年も眠り続けて飽きたのかもしれないが、せめて自分がいる間は堪忍袋の緒を切らないでくれ、アゴラの神よ……
ソロモンは、都合のいいまじない付きで十字を切った。そして、沢添いの山道のはたにぼかりと口を開ける、天井の高い洞窟内にテントを張り、その夜の寝床を定めた。
かすかな楽の音が、ぬるい風に乗って流れてきたのは、その夜半だった。
金属弦の琴と、竹笛だろうか? 哀切な旋律がからみあい、より合わせた絹糸のように強弱をつけて闇の中を舞う。
遠くにかすかに聞こえる沢の水音と相まって、まるで透明な鳥が飛んでいくようにひそやかに。
暗視ゴーグルつきの望遠鏡を携え、ソロモンはテントから顔を出した。
暗闇の中で、ばたばたと小さな蝙蝠たちが飛び回っている。
そろりそろりと進んで洞窟を出た。
外は満月だった。洞窟からお伴のように飛び出した蝙蝠たちがぱたぱたと、月の面をかすめて飛んでゆく。
そうして、青白い月明かりの下、谷川を挟んで向こう側。
下からでは存在さえわからなかった細い山道を行く、灯りの列がちらちらと見えたのだ。
光の数珠のように松明が揺れ、ゆっくりゆっくりと上方目指して進んでいく。
ソロモンはできるだけ視点を高くするために近くの岩によじのぼり、胸元の双眼鏡を目に当てた。
行列は総勢50人ぐらいだろうか。
先頭には、4人の男が肩に担ぐ輿のようなものが見えた。
男たちは、頭に鮮やかな布を巻き、半裸の上半身には何重にもトンボ玉のようなものでできた胸飾りを下げ、腰から下は、この地方特有の幾何学模様の織物でできた布を巻いている。
輿の四隅にはひときわ明るい松明が燃え、そして中央の台には、小さな人影が見える。
ソロモンは双眼鏡の倍率を上げた。
……鮮やかに着飾った少女が、輿の中央でふらふらと頭を揺らしている。
松明にぼんやりと照らし出されるその横顔は、まだほんの12,3歳だろうか。
花冠のようなものをかぶり、長い黒髪は波打ちながら背中の中ほどまで垂れ、金糸銀糸の刺しゅうを施された輝くような布を身にまとっている。
山頂付近から、ぴいいあぴいいあと鋭い叫び声をあげながら大ぶりな鳥たちが飛び立った。自分が探し求めていた幻の鳥かもしれぬと頭の隅でちらりと思ったが、ソロモンはもうその影を追うことはしなかった。
少女の手は真後ろに縛められている。ふらふらとした首の動きから、半分意識のない状態だということがわかった。
……生贄!
戦慄とともに浮かび上がったその呼称が、眼前の風景とぴたりと一致した。
そのとき、胸を突き上げた感情を、なんと呼べばいいのだろう。
まだ幼さの残るその少女が背負う過酷な運命と山の無気味な地鳴り、美しい旋律。それらが醸し出す空気に、ソロモンの胸は一瞬陶然となったのだ。
それはもちろん瞬間のことで、まっとうな畏れにすぐに立ち返った。だがそれでも、足音を忍ばせて行列を追い、双眼鏡をのぞき続けたのは、正義感のためだけだったか。
燃える松明の香りには、麻薬のような強烈な香りが混じっている。
立ち尽くす自分の視界から最後の灯りが消えると、ソロモンは岩伝いに谷川を渡り、羊歯や蔦や木の蔓にしがみつきながら山道に向けて湿った崖をよじ登り始めた。
その細道にたどり着いたとき、音楽の尻尾はまだ捕まえることができた。
ソロモンはかすかな音を追って、湿った細い山道を進んだ。
額に玉のように汗が盛り上がり、湿った肌を滑り落ちる。
やがて視界の利かなかった山林が急に開け、目の前に広い窪地が現れた。 その窪地の中央に松明が集まり、音楽はすでに止まっていた。
ソロモンはまた双眼鏡を目に当てた。
その中央に、松明に照らされた少女の表情がくっきりと浮かび上がったのだ。
つんと小高い鼻に、長い睫までが見て取れた。地に置かれた輿の中央で、目を開けて、天を見ている。
視線の先は、満月だった。
青白い月が煌煌と、太陽の兄弟のように照り輝き、あたりの星の姿を消している。
そのとき、松明の中に何か砕いた葉のようなものがくわえられ、ぱちぱちと火花が上がったと思うと、麻薬のような青臭い、つんとくる香りが一気に立上った。
その途端、かっと目を見開いた少女の喉から、空を切り裂くような、金属音のような叫びが響き渡った。
ぴ―――――――――いいいいいいいい
きゅい―――――――いいいいいいいい
くるる――――――――るるるるるるるるあ―――
高音の、笛のような悲鳴のような、胡弓のようなテルミンのような、この世ならぬ波長……
全身の血が一気に未知の歓喜に沸騰する。
頭の中心がはじけるような衝撃を覚え、
ソロモンの意識はそれきり途絶えた。