1. 幻の鳥
友人に女のようだとよく言われる細い指。
ぴんと揃えて掌の表裏を見せる。
誰に? いまは、自分に。
そうして軽く拳を握り、握った手の親指側を上に向ける。
拳の内側からピンポン玉大の白いボールがくるりとあらわれる。
手の甲の上にそれを乗せ、琴を弾くように指を動かしながら、親指側から小指側に転がす。
掌の内側に消えたと見えたボールが、青に色を変えて指と指の間から現れる。
ひとつ、ふたつ、みっつ。
テントの中のランタンの灯りのなかで、色とりどりのボールが白昼夢のように指の間から現れては消える。
自分の操るボールを見ながら、今年25歳のソロモン・アドラーは自分自身に問いかけていた。
今夜、ぼくは人生の岐路に立っている。
1人の無力な少女の命と、
2000人の住民を乗せたこの南の果ての小さな島の宿命をも、変えることになるかもしれないのだ。
いいのか、これで。こんな風に静かに、そんなに大きなことが訪れてもいいものだろうか。ソロモン・アドラー、覚悟はできているか?
その瞬間、ずしんと尻の下から鈍い振動が響いた。地面の下から大男に蹴り上げられたような嫌な振動だ。
湯気を上げるコッヘルの中のコーヒーの表面に同心円の輪が広がる。
ソロモンは苦笑した。宿命の神の催促か?
そうして、もしかしてこの世で最後に飲むことになるかもしれない熱いコーヒーをステンレスのカップに受け、唇をつけて静かにすすった。
……オーケー、受けてやるよ。
多分、この夜のために、
このためだけに、ぼくはこの地に立たされたのだろう。宿命の女神の手によって。
さあ、準備だ。
ソロモンはカップを置くと、ボールを集め、黒い天鵞絨の布袋にしまった。そうして、側らのリュックを開け、中を覗き込んだ。
トルコで買ったトランプ。
白い手袋。ガラスのコップと、サイコロ。
そして、リュックの一番奥には、小さな籠の中で喉を鳴らしている、二羽の夢うつつの白い鳩がいた。
その丸い背中を薄明かりの中で見て、青年は祈るように口元で両手を合わせ、呟いた。
万端だソロモン。
さあ行こう。
◇
東南アジアのいち小国に属する、インド洋に面した離島、ブルン島にソロモン・アドラーが到着したのは10日前のことだった。
本土から島までは船で1時間、しかし閉塞的な島で定期航路はない。個人で漁船をチャーターするしかないが、本土の人間は誰もが首を横に振った。
得体のしれない宗教、独自の文化と風習。旅行者が過去に何人か行方不明になっている。
行ってはいけない。特に今月は絶対にいけない。島全体が揺れ動いている、不吉だ。そんな返事しか返ってこない。
船を出してくれる物好きを求めてあちこち歩き回り、疲れて座り込んだ漁村のはずれだった。10月に入り、熱さで膨らんだモンスーンが海から吹き付けて来る。
ふと見ればバニヤンツリーの木陰で男が網を繕っている。
痩せて色黒で、ターバンのように汚れたタオルを頭に巻いている。浜に打ち上げられた流木のような風情の、枯れた貧相な男だ。彼が金に困っていることに賭けて、ソロモンは歩み寄り、ひとつ咳をして話しかけてみた。
「スラマッソレ(こんにちは)」
男は、檳榔樹の赤い実を噛みながら目を上げた。
無数の刀でなで切りされたような深い皺が顔中に刻まれている。加齢のせいか海風と太陽にあぶられたせいかはよくわからない。35歳と言えば35に、65歳といえば65に見える風貌だ。タオルを巻いた頭からも全身からも、すえた汗で煮しめたような匂いが漂っている。
ソロモンは、片手で酒瓶を掲げると、ゆっくりした英語で言った。
「ヤシ酒、飲みませんか。一緒に」
男は怪訝な顔をしたが、自分の口元を指さし、顔を左右に振った。どうやら檳榔樹のほうがいいらしい。
「島、いきたいんです。あの島。プラウ・ブルン」
ソロモンはところどころに白波が立つ海の向こうの島影を指さした。
「通常の倍、払います。これでどうですか」
男はその手の中の札束を見るには見たが、そのまま手元に視線を落とし、次に海辺に目をやった。
浜辺には3艘、似たような船が並んでいた。
どれも突き出した船の先頭には鮮やかな色で塗られた鳥の顔がついていて、大きな横木―アウトリガーが突き出している。後部には小さなエンジンがついているが、大型のカヌー程度の大きさだ。
「できれば今、行きたいんだけど。だめかな。じき日が暮れるし」
男は網を繕う手を止めない。
ソロモン・アドラーはその傍らによいしょとしゃがみこんで、構わずに話しかけた。どうせこの男に断られるなら、もう今日、することはほかにないのだ。
「じゃ、勝手に自己紹介します。
4年前まで、ロンドンの大学生でした。そこで鳥の研究にはまって、珍しい鳥を求めて世界各地の放浪を始めました。南アフリカ、南米、中国、いろいろ行った。でも金がないので思うに任せない。
去年までは、大道芸をしてました。手品もできます。ボールや花束や鳩を出したり消したり。テーブルを回ってチップをもらいます。
モンゴルで羊を飼ったこともある。レストランの裏方をしたことも、アクセサリーを作って売ったこともある。
でもやっぱり一番得意で金になるのは、手品かな……」
最後は独り言のようになった。
ふと気づくと、男がこちらを見ている。
暗い色の深い大きな目に直視されて、ソロモンは瞬間、言葉を失った。
その顔に向かい、男は一言、
「酒」と言った。
そして、ソロモンが差し出した酒を大きく一口飲むと、顎で船のほうをしゃくり、手を出した。
瞬間ソロモンは意を察しかねてきょとんとしたが、すぐにしまいかけた札束を出し、男の茶色い枯れ木のような手に渡した。
男は受け取った金をズボンのポケットに無造作に突っ込むと、さっさと乗れ、という風に一番右の船を指さして見せた。
どうしていきなり気を変えたかはわからない。だが、このチャンスを逃せばあとはもうないだろう。ソロモンはおろしていた登山リュックを担ぎあげると、あわてて彼の後に続いた。
ドルルルルとエンジンが唸りをあげ、二人を乗せた船はうねる海原に滑り出した。
男の隙間だらけの歯は檳榔樹で朱色に染まり、あぶく交じりの唾が常に口角から垂れている。キンマの葉に包んでガムのように噛むと麻薬成分が脳をとろかしてくれる、老若男女の嗜好品だ。
海の色がある地点から線を引いたように変わった。明るいエメラルドグリーンから、群青へ。サンゴ礁をこえてくる外洋の荒波にもまれて、船は結構揺れた。怖くないと言えばうそになる。ソロモンはヤシ酒の酒瓶のふたを外すと、ぐいとあおった。そして男に向けて掲げ、どうだという風に振って見せた。男は今度は顔の前で手を横に振って断った。
「鳥を探してるんです」
酔いに乗せて、ソロモンは話しかけた。
「一度聞いたら誰もが忘れない素晴らしい声で鳴く鳥がいると聞いたんです。ご存じないですか」
「知らない。あの島には毒の動物が多い」
男ははじめてまともにしゃべった。片言の英語だ。
「毒、ですか」
「ポイズン。毒虫、毒蛇。余所者が踏み込むとたいていやられる。山は危険だ」
ゆっくりしゃべってくれるので、わかりやすかった。
「ありがとう。気をつけなくては」ソロモンは笑顔で言った。そして続けた。
「あなたの名前は」
「イダ」短く、船頭は答えた。
「ぼくはソロモンです。ソロモン・アドラー」
そして視線を島の山肌に向けながら、尋ねる。
「アゴラ山と言えば、300年前に大爆発がありましたよね。最近この一帯でまた地震が頻発していると聞きますが、島はどんな様子ですか」
「島はいつでも無事だ」
「そうですか」
「祈りがある」
「え?」
「祈りだ。アゴラの神に。それですべての災いが抑えられる」
目を細めてつぶやくように言うイダの声には、ソロモンの知らない何かの感情が冷ややかに張り付いていた。
島が近づいてきた。火山特有の円錐形をしたアゴラ山を中央にいただき、全体が深い緑に覆われている。暮れてゆく空の下で、山肌と断崖を夕日に光らせ、裾の緑は不機嫌に黒々と黙り込んでいる。
ふとソロモンは、アルノルト・ベックリーンの「死の島」という絵を思い出していた。あれは、死者が送られる島という設定だったか。
水深が浅くなり、澄んだ海底が見えるようになった。シマアジやチョウチョウウオが群れているのが見える。夕日で、海全体が茜色に染まっている。
人家の集まる桟橋周辺にはつけず、イダは荒波の打ち寄せる岩場に入り、目の前に口を開ける大きな洞窟に船を入れた。中に入れば波は静かだった。そうして長い暗いトンネルを抜けると、ヤシに囲まれた薄明るい狭い砂地が眼前に開けた。
島の反対側の夕陽を受けて、砂地が暗いピンクに光っている。何か、現世からあの世へのトンネルを抜けたようだ。イダはそこに、乗り上げるように器用に船をつけた。ソロモンはふくらはぎまで荒波に打たれながら、浅瀬に下りた。
そして船の上に突っ立ったままのイダを見上げると、夕焼けに染まった顔で聞いた。
「2週間後、ここにぼくを拾いに来てくれるかな。毒虫、毒蛇には気を付ける。で、あなたの忠告のおかげでもしちゃんと生きていたら」
イダは肩をすくめると、檳榔樹を吐き捨てた。そしてぽつりと言った。
「あんたが生きる努力をするなら、来る」
「ありがとう。じゃあ、約束の握手を」
ソロモンは白い歯を見せて、長い指を差し出した。イダはいささか躊躇しながらその手をおずおずと握った。固い、枝のような指と、蛸だらけの乾いた掌だった。ソロモンは癖のある金髪を風になぶらせながら、笑って言った。
「幻の鳥を見つけられるように、祈っていてください」
イダはなにか憐むような惜しむような、何とも言えない表情でソロモンを見ると、こちらに背を向け、勢いよく船のエンジンをかけた。