狂気の王子-1
久方ぶりに一人で静かな夕食をとった気がする。
アンジェラは久方ぶりに冥界に用があって出掛けているし、マリアンヌ姉様は珍しく自室のある離れに篭もっている。
アンジェラの魂鬼のウェイツを信用していないわけではないが、あれはまだ経験が浅い…そのため日々激化している冥府での争いに巻き込まれてはいけないとアンジェラの護衛として道を同行させたので給仕はメルにお願いした。
食後の紅茶もゆっくりと味わうことができた、後は部屋で本でも読んでいようかと足取り軽く自室へ戻る。
本館の二階にある自室へと入ればひやりとした冷気が出迎えた。
冷気の元をたどれば視界の端でゆらりと風に吹かれたカーテンが膨らんでいる。
「閉め忘れていたか?」
夕食へ向う間には閉めていったと思ったが…自分にしては無用心極まりないことだ。
いくら姉妹がともに暮らしているからといって安心しきっていいものではない。
ここへ移り住んで数年…その間特に何事も無く過ごしてはいたが、いつどこで彼らの争いに巻き込まれるかもわからないのだから。
わずかに開いたテラスへと続くガラス扉に手を伸ばしそれを閉めようとして-・・動きが止まった。
ガラスの向こう側。薄闇に見えるその気味の悪い、笑んだ、瞳。
「っ!?」
急いで閉めて無駄だとわかってはいたが鍵をかけた。
「白っ!!」
「ここに」
足元の影の中から姿を現す忠実な私の魂鬼。だが、
『遅い遅い』
それを嘲笑うしゃがれた声が部屋のどこからか響く。
「何者だ!」
『どぉこに目ん玉つけてんだよ~仔猫ちゃんが』
私を守るように立ちはだかっていた白の体が横から飛んできた何かに叩きつけられ、その巨体を床に転がした。次いで見えない何かが上から降ってきたかと思えばその体をそこに縫いとめた。
「白っ!?」
「姫…逃げ」
『少し黙れよ』
「-・・っ!!」
白の顔を踏みつけ口を無理やり閉ざさせたのは鳥と猿をごっちゃにしたような獣-・・魂鬼だ。
濁った黄色い瞳がニタニタと細められ、ケタケタと耳障りな笑い声をあげる。
「……」
それと睨み合いながら反対の壁際まで下がった私は、壁に飾ってあった剣を手に取った。
『ひゃはっ!それで闘うってか王女様!お~怖い怖い』
「黙れ。どの兄弟の魂鬼か知らぬが私に牙を向いたこと後悔させてくれる」
そういって切っ先を相手にむけるが、内心舌打をしたい気持ちでいっぱいだ。
この魂鬼、ふざけた外見や言動と違って中々に手強い。白がああも容易く死角を取られるとは-・・道をアンに同行させたのは痛手だった。
『おいおい、どうした王女様。ぶるって声も出ないか?口先だけなんて言うなよ~?』
「黙れと言った筈だ。耳障りだ、その舌から切り捨ててくれる」
タン-・・と床を蹴り前に踏み込む。
剣先が宙を切る。
『ひゃっ!ひゃひゃっ!あたんねぇぜ王女様!おぉっと、けけっ今のは惜しかったなぁ』
腹立たしいことにひらりひらりと身をかわされてしまう…だが、それでいい。
「桜!玉!」
『ぎゃっ!?』
影の中から魚の姿をした魂鬼が二匹飛び出し馬鹿笑いを続けていたそいつの顔面に体当たりした。
視界を塞ぎ僅かにそいつが体勢を崩したその瞬間を見計らって、私は扉へと走った。
ここは闘うには狭すぎる。
もっと広いところ、外か、あるいは大広間。そのどちらかにさえ場所を移せばまだ何とでもしようがある。それに道を呼び戻すために使い魔だって飛ばさなければ。
少々癪だが離れのマリアンヌ姉様に助力をいただくのも-・・と思考がそこで中断させられる。
扉に手をかけた瞬間、私の腹部に、激痛。
浮遊感を感じたのは一瞬のことで、すぐに背中に走った痛みに投げ飛ばされ壁に叩きつけられたのだと理解した。
「かっ…-・・は…っ?」
全身に痛み、痛い、くそ、何だこれは。
容赦もない殺気が圧力となって私の心臓を押しつぶさんばかりに重くのしかかってくる。
「姫様っ!!」
動けぬ白の悲鳴にも近い声がする。
応えようにも口から漏れるのはひゅー、ひゅーという肺からの息だけ。苦しい、息が、呼吸ができ…
クラクラする視界。その中で、ジャリとそこいらに散らばった破片を踏みつける足音がする。
「いけない子だ、レティ。折角会いにきたのに」
聞こえてきたその声に一気に意識が覚醒した。ありがたくないことにいやな予感ほどあたる、とはよく言ったものだ。やはり先ほどのあの影は…
「逃げようとするなんて酷いじゃないか、なぁレティ?」
壁に半ば埋もれるように崩れ落ちた私を覗き込むように傍らに跪いたのは一人の男。
私はそれを睨み付けた。動かぬ体が厭わしい、視線だけで殺せるならば今すぐに殺してやりたい。
「ディムロス…っ」
「おや、レティ。"お兄様"とは呼んでくれないの?寂しいな…ミリアンのことはそう呼ぶのに」
笑った顔のままディムロスは私の頬を打った。
「っ」
「ごめんねレティ、痛かっただろ?」
慈しむ様に私の両頬にその手を添えて優しく撫ぜてくる。ぞわりと嫌悪で全身が粟立った。
「でもお前が悪いんだよ?俺に冷たい態度をとるから…まぁお前のそういうとこも好きだけど」
段々とその顔が近づいてくる。背けようにも両頬を挟む手はそっと添えられているように見える見た目に反して強固で微動だにすることさえ許さない。
鼻先が触れ合う。
「レティ、俺のレティ」
「…あなたのものになった覚えはない」
「いいや、そうさ」
するりと頬に添えられていた両の手がゆっくりと下降していく。顔の線を撫でその手に平が首元へと滑り落ち-・・白く細い首をきゅっ、と締め上げた。
「っぁ-・・!?」
「お前は俺のもの。俺の伴侶となるんだよレティ、あぁいい顔だ。気高いお前の美しい顔が苦しみよがるその顔が大好きなんだ。うん、いい、すごくそそる」
うっとりと語るディムロスに嫌悪感以上のものを覚える。
「こ…のっ…変…たっ……ぐぅっ」
「はは、レティは口が悪いなぁ」
更に力を込められ、ついに私は意識を手放してしまった。
気絶したレティシアの首から手を離すと、支えを失った華奢な体はディムロスの胸へと倒れこんだ。
その体を抱きかかえると彼は至極満足そうに笑う。
「さぁ、いこうか。俺のレティ」
長くなりそうなので分割します。