リンドンヴェールの夜
新連載始めてみました。
基本一話読みきりで、時系列バラバラな感じです。
話によっては長かったり短かったり…
お付き合いいただければ幸いです。
不死者の王には72人の子供たち。
66人の王子と6人の王女。
次の冥王になれるのは一人だけ。
王子たちは互いに互いを殺しあうー・・あっという間に半分の王子が死んでしまいました。
6人の王女の中から妃を選んで王に截てるのはたった一人、一人だけ。
さて、誰が生き残る?
-・・神話集第3章より抜粋
*
リンドンヴェールの夜の森
良い子はきちゃ駄目 攫われる
黄泉の国から蔓が延びて
絡めとられて 食べられちゃう
リンドンヴェールの夜の森
悪い子はいれるぞ 放り込むぞ
黄泉の国から迎えが来て
悪い子 首を撥ねてしまえ
リンドンヴェールの夜の森
くらいくらい夜の森
-・・リンドンヴェール童謡集第ニ楽三節より抜粋
*
一人の男が暗闇の森の中を走り抜けている。
ぜー・・はー・・ぜー・・はー・・
自分の喉から出る音だけがいやに森に響いていた。
山へと続く麓の森だ、奥に進むにつれ傾斜がつき、冬の寒さと共に体力を奪っていく。
木々の隙間から見えるのは、嫌になるぐらいの満天の星空と満月の明かり。
そして森の奥、小高い丘にの上に見えるのは月明かりにうっすらとその姿を見せる古びた屋敷の青い屋根。
リンドンヴェールの町外れ、森を抜けた小高い丘の上に昔からある大きな屋敷。
かつては貴族の所有する別荘だったとか聞くが、定かではない。
いつ、誰が建てたのかなんてこの町の住人にとってはどうでもいいことだ。
今はもう人が住んでいる気配など微塵も感じさせないこの屋敷がただそこにひっそりと立っている、ただそれだけ。
男はその屋敷を目指すように足を進める。
普段人など通らない道なのか、すでに獣道と化している中を掻き分け苦労して進めば漸く丘の上、崩れた屋敷の外壁へとたどり着くことが出来た。
そこから中へ入り込むー・・町では"お化け屋敷"などと言われているこの屋敷にはどうせ誰も住んじゃいないんだ、構うものかと壁を越え屋敷の中へどうにか入れないか庭をぐるりとまわることにした。
にゃー・・
どこかで野良猫が鳴いている。
自分と同じようにこの屋敷に入り込んで巣でもつくっているのか。
庭を突きぬけ屋敷の正面へ回りこむ。
だがそこで男は目を見開くことになる。残念なことに最初の予想は外れたようだ。
-・・灯りだ。
誰もいない空き家なのに目に飛び込んできたのは蝋燭の明かりだった。
それも一つではない、一階のある一室が無数の灯りでともされている。
はて、おかしい。確かにここには誰も住んではいないはずなのに…ごくりと唾を飲みこんだ。
怖いもの見たさー・・好奇心という誘惑に駆られた男はよせば良いものを、そっとその明かりの漏れる部屋に近づき窓から中を覗き込んだ。
どうやらそこは屋敷の応接間のようだ。
壁の燭台に付いた蝋燭の明かりと、壁際に作られた大きな暖炉に轟々と火が灯っている。
そして、その前には揺り椅子に身を預け重圧な本を読みふけっている人影ー・・女だ。
まだ少女と言っても良いかもしれない。
暖炉の火の影になってその顔色まではわからないが、さらりとこぼれる雪のように白い髪が目を引いた。
ふと、それまで本に没頭しているようだった少女の首が動きー・・こちらを振り返った。
「!?」
目があった。たまらず窓から身を離すー・・が。
「どちら様でしょうか?」
「ひっ!?」
背中が何かにぶつかりそれ以上下がることはできなかった。
恐々として後ろを振り返れば青い髪の青年がこちらを冷たく見下ろしているではないか。
「本日の来客予定はなかったはずですが…我が屋敷に何用で?」
「おっ…俺は…」
「タオ」
目の前の青年とは違う別の声にはっとしてそちらに視線をやれば、先ほどの少女が窓を開けてこちらを見下ろしていた。
「滅多にこないお客様なのだから、そう虐めるものではないですよ」
「申し訳ございません、お嬢様」
口調は柔らかいが戒めるような少女の言葉に、青年は深々と頭を下げた。
「…怪我を?」
少女の視線が自分の足元へと落ちる。
その言葉と共に、先ほどまで薄れていた足の痛みがぶりかえしてずきずきと痛み始めた。
「どうぞおあがりなさい。傷の手当てと…暖かい紅茶はいかが?」
その蠱惑的ともいえる少女の声に誘われるように男は館の中へと足を踏み入れることとなった。
*
されるがままに傷の手当てを受け、"タオ"と呼ばれた青年が淹れた紅茶を口に含む。
テーブルを挟んだ向かいのソファには少女が座り、自分と同じように紅茶を飲んでいる。
…いや、同じように、というのは語弊があるかもしれない。
カップ一つ手に持つ仕草でさえ、自分と比べるなどおこがましいほど洗練された動きを見せているのだ。
部屋の中には暖炉の火が爆ぜる音と、茶器がこすれる音しかしない。
ついに沈黙に耐えかねた男がやっとの思いで声を絞り出したのは、すっかり紅茶が冷めてしまった頃だ。
「た…助けて頂き何とお礼をすればいいのか…」
「礼には及びません、当然のことです」
さらりと小首をかしげて微笑む少女は美しかったー・・そう、少女はとても美しかったのだ。
暖炉の火に照らされてはっきりと見えるその肌は髪と同じように、ぬけるように白く輝いている。
紫色の瞳は長い睫毛で覆われてえもいえぬ妖艶さが漂っていた。
少女といって間違いない年頃だというのに、時折見せる仕草の中に"女"を感じさせるのだ。
あと2.3年もすれば求婚者が途切れることのない絶世の美女となるのだろう。
少女に見惚れていた男は、後ろに控える青年の視線にはっと、我に返った。
「おれ…いえ、私はリンドンヴェールの町で大工をしております、アイザックと申します」
「私はヴィルフォント・レティシア。これは私の従僕の"道"」
「…失礼ですが、お二人はいつからこちらのお屋敷に?ついこないだまで空き家だったはずですが…」
この質問に答えたのは青年のほうだった。
「二日ほど前からとなります。お嬢様の遠い親類の持ち家だったのを借り受けたのです、暫くこの国に滞在する予定でしたので」
「それでは外国から?」
「えぇ、北のはずれの…」
成る程、それならば彼女たちの珍しい毛色にも納得がいく。
北には美人が多いと聞くし、タオと呼ばれた青年は顔こそ整っているものの、内陸では見かけない人種だ。
おそらくは海の向こうから渡ってきたのだろう、北は他大陸との貿易が盛んらしいから。
「長年、空き家だったためか未だ掃除が行き届いていなくて…不便なものです」
苦笑する少女に男も笑みをこぼした。
「持ち主がいらっしゃったとは思いもしませんでした。私が生まれる前から空き家だったようで、皆は"幽霊屋敷"と呼んでいる位ですからね」
「…アイザック氏、一つ宜しいですか?」
ふと、青年が口を挟んできた。
「何故、そのような幽霊屋敷にこんな夜更けにこられましたか?それも怪我までされて。差支えがなければお教えいただきたいのですが」
青年が疑念を抱くのもいたし方があるまい。
自分だってこんな夜更けに怪我をした人間が庭先に転がりこんできたら同じように警戒するだろう。
「道ー・・」
少女が咎めるように口を挟むが、男はそれに首を振る。
「お気になさらないでください、怪しいのは当然です。実は…、友人と酒を飲んで家に帰る途中で強盗に襲われまして…」
「まぁ」
恐ろしい、とレティシアは目を見開く。
「無我夢中で逃げていたらいつの間にかこの森に。夜が明けるまでは森を出るのも恐ろしくて…空き家だったこの屋敷に逃げ込もうとしたのです」
「静かなところだと聞いていたのに、物騒なこと」
「最近はどこも不況続きで、そういう輩が増える一方なんですよ」
「困ったものですね、いくら不況とはいえ他の人を襲うなどとは…道、戸締りをしっかりお願いね」
「はい、お嬢様」
怯えた様子で従僕を見上げる少女の何と可憐なことか…!
「アイザックさん」
「-・・は、はい!」
「今日はこのままお泊りになってくださいな。外はまだ危険でしょう?道、部屋の用意をー・・」
「申し訳ございません、お嬢様。生憎と客間はまだ清掃が行き届いておりません。使用人の部屋でしたら一つ空いているのですが」
「そう…困ったわね、お客様を使用人の部屋に泊めるわけにも…」
少女の言葉に男は焦ったように口を挟んだ。
「お構いなく!一晩泊めていただけるなら納屋でも構いやしませんから!」
「納屋にだなんて、そんな失礼なこと出来ませんわー・・では、アイザックさん、申し訳ないのだけれど使用人の部屋で我慢していただけるかしら?」
「そんな滅相もない!ありがとうございます!」
何と親切な少女だろう、こんな見ず知らずの他人に一宿を与えてくれるなんて。
元々ここにきたのだって一晩夜風をしのいで寝隠れできるところを求めてのことだったわけだし、願ったりもしない申し出だ。
感謝の言葉が尽きぬまま、その後すぐに男は青年の案内で部屋へと通された。
使用人用の部屋だとはいうが、男の住んでいる家よりも広い。
「…何もかもお世話になっちまいまして、本当にありがとうございます」
「いえ、全てはお嬢様のお心あってのことですから。それではアイザック氏、良い夢を」
そういって青年は部屋を後にする。
ふらふらと窓際におかれたベッドに横たわれば充分にバネの効いたマットの弾力と、真新しい布団の柔らかさが疲れた身を優しく包んでくれた。自宅の固く潰れたマットとカビ臭い布団とは比べ物にならない。
これはいい夢が見られそうだぞー・・と、男は目をつぶった。
*
-・・リンドンヴェールの夜の森 良い子はきちゃ駄目 攫われる
満月がすっかり中天に昇りきった頃。
燭台を手に持った従僕の青年が廊下の灯りを落としていく。
それと同時に窓の戸締りがしっかりなされているか一つずつ丁寧に確認していくのだ。
すー・・っと雲がかかり空の満月が隠された。
薄闇の中、手に持つ燭台の灯りだけが青年の手先を照らしている。
ゆらり、とその火が揺れ
「?」
…………………………
鈍い音が廊下に響く。
*
少し甲高い、木の軋む音を立てながら扉が開かれた。
広い部屋。内装自体はシンプルだが一つ一つの調度品がさぞ名のある職人が手がけた一級品のものを使っていると一目でわかる。
奥へと進めば寝室へと繋がるもう一つの内扉。
薔薇が彫られたその扉を静かに開ければ微かに香る甘い芳香。
濃紺の寝台の上、月明かりに照らされて見えるのはあどけないながらも、男の欲をかりたてるには充分な肢体を横たわらせる少女の姿。
紫の瞳はすっかり閉じられ、長い睫毛がより一層協調されている。
その吸い付きたくなるような玉肌に魅せられ手をのばすー・・が
それは閉じていたはずの少女の眼によって妨げられた。
「…そこで、何をしているのですか、アイザックさん?」
明らかに警戒している少女の瞳に映る自分の姿が見える。
「いえ、ただお嬢さんのことが心配でね」
そこに映る自分の顔はとてもとてもー・・下卑た笑みを浮かべている。
「だから少し様子を見に」
「私に触らないで」
伸ばした手がぱしりと撥ねられた。
少女は身を起こすとその瞳を忙しなく動かす。
「道、道は何処です?」
「へへ」
従僕の名を呼び続ける少女の声に思わず笑いが零れてしまう。
「あの男だったら来やしませんぜ、お嬢さん」
「そんな筈はありません」
絶望、あぁ儚げなその顔がたまらなくぐっとくる。
「"リンドンヴェールの夜の森 良い子はきちゃ駄目 攫われる"~」
突然の、調子っぱずれの歌声に少女が小首をかしげた。
「知らないかい?お嬢さん。この森はな、あの世と繋がってるんだぜ、あんたみたいな女は真っ先にとって喰われちまうんだ」
「道!」
男の様子に恐怖を覚えた少女が後ずさる。
何度も何度も従僕の名を呼び続ける様に男の中の嗜虐心は高まる一方だ。
「だから呼んでも無駄だっていってるだろ?もうここには俺とあんたしかいないんだ、二人で仲良くしようぜ、な?」
男の手が怯える少女の肩に触れる。そのまま無理矢理押し倒してー・・
「……私に触れるな、といわなかったか?」
「!?」
少女の怯えていた瞳が、声が、怜悧で鋭いものへと変わった。
その急激な変化に驚いて思わずその身を離してしまう。
ぐん、と周りの気温が一気に下がった気がした。いや、気のせいかもしれない。
「道、何をしている」
「だっ、だから何度も言ってるだろう!あいつはこねぇよ!!」
ついさっきまで主導権は自分にあったはずなのに、今、この場を支配しているのは目の前の少女。
叫ぶ声が震えるー・・そんな自分を見て少女はふっと笑った。
見下した笑み、下を蔑む笑い方だ。
「何が可笑しい!」
笑うな、俺を笑うんじゃない。お前ら金持ちに俺らの、俺の何が分かるって言うんだー・・!!
カッと頭に血が上り、手を少女に向かって振り上げる。
「申し訳ございません、お嬢様」
耳朶に聞こえるその声に、一気に頭に上った血液が下がっていく。
「少々、時間がかかってしまいました」
「そんな、まさか…」
振り下ろされようとしていた自分の腕を掴む、第三者の手。
後ろに立つ男をおそるおそる振り返る。まさか、ありえない、だってこいつは俺が…
「思ったよりも抉れていたようで」
「ひぃぃぃっ!!」
すぐ目の前にあるその顔に目をやった男は喉のそこから引き攣れた声を上げる。
青年の顔の右半分には頭から流れ出た血が半分生乾きのままべったりとこびりつき、青い髪もその大半が赤く染まっている。
形の良かった頭の一部が不自然に陥没しており、その合間からはピンクいろと茶色の混ざったような色合いの肉片と白いものが見え隠れしている。
頭に次いで顔も殴りつけたはずだ。
なのにその傷はどこにも見当たらない。
「その上手足まで潰されるとは予想外で、動けるようになるまで時間がかかってしまいました」
「言い訳はいい、こちらへ来い、道」
「申し訳ございません」
あっさりと男の腕を離すと、青年は寝台を迂回して少女の元へと歩いていく。
あまりにも自然なー・・いや、違う。不自然な二人の主従のやり取りに男は顔を青褪めさせながら壁際まで後退した。
「なっななな何でだ!!何であんた生きてんだよ!お前ら一体何なんだ!」
既に男はパニック状態だ。
汗が噴出し、瞳は挙動不審に動いている。
だが、二人はそんな男の様子を気にかけることもない。
寝台に腰掛ける少女の目の前に青年が跪けば、少女は何のためらいもなくその頭部の傷口にー・・あろうことか接吻を落とした。
「ひっ」
その異様なまでの光景に男は喉を引きつらせる。
青年がすくり、と立ち上がる。
その顔や頭に血痕は未だに付着しているものの、既にその頭部に傷はない。
(何なんだこいつら…!!)
「こっ!この化け物!」
思わず口からついて出た言葉に、やっと目の前の主従がこちらを見た。
少女が笑う。
「化け物?いいや、違う。彼は私の魂鬼だ」
「こっ、こんき…?」
「そう、魂鬼。死した魂が主と契約を結べば魂鬼となる」
すっと、少女の白い細腕が男に向かって伸ばされた。
「このまま何事もなく夜を過ごせば静かに送ってやったというのに」
いや、と少女が首を振った。
「何事もないわけがない、か。お前がこの屋敷に来た時点でそれは、まず無い」
「何を言っているんだ!?」
訳のわからないことを並べ立てる少女に男は金切り声にも近い声を上げた。
そんな男に少女は困った奴だ、と肩を竦めた。
「まだ分からないか?お前は………いる」
「へ?」
少女の声が一部歪んで聞こえた。何といった…?
「レティシア様、まだ魂が自覚していないようです」
「そうか」
面倒だな、と少女がこぼした。
「今日、リンドンヴェールの町の外れで強盗に襲われた人間がいる」
少女は淡々と話し始めた。
「その強盗はどうしようもない人生をおくってきた男だ。幼い時から盗みや強姦、数え切れない罪を犯してきたのだから」
「何、を…」
口の中がカラカラに渇いていく。
「そして男は今日もまた罪を重ねた。金を奪うために町の男を二人、殺した」
だけどな、と更に少女は続ける。
「その男の命運も尽きたのだろう、襲い掛かった内の一人が事切れる前に反撃にあい傷を負った、足と腹に」
「腹…?」
ちがう。俺が怪我をしたのは左足だけだ。
あいつ、くたばったかと思ったのに懐を探ってたら俺のナイフを奪って俺の足にー・・
ズキリ、と手当てをした足が痛む。
畜生、と視線を下にやれば
「え?」
どろり、と溢れるドス黒い色。
右のわき腹から絶え間なく溢れるソレを目にした瞬間、冷や汗と共に、足の痛みなんて比べ物にならない痛みが襲ってきた。
「な…んだこれ…何だよ!これ!!」
恐慌状態に陥った男が少女に掴みかかろうとするが、痛みにその足がもつれ崩れ落ちた。
「痛ぇ、痛ぇよぉ…!一体何だよ…畜生!畜生っ」
「男はそのまま森へ逃げ込み、そして力尽きた」
痛みに涙が溢れてくる。
顔だけ少女たちのほうへむければ哀れむことも驚くこともしない、少女の冷たい瞳にぶつかる。
「だが魂は否定する、"自分はまだ生きている"と。そしてお前はここへ来た」
「嘘だ嘘だ嘘だ嘘だうそだ!」
今度ははっきりと少女の声が聞こえた。
「お前は死んだ」
「嘘をつけぇええええ!!」
俺は生きている。でたらめなことをいうな!と男は痛む体を叱咤して体を起こすと少女に襲い掛かろうとー・・
「へ?」
足が動かない。
痛みからじゃない、違う、足に何か絡み付いている。
「レティシア様、開きました」
「あぁ、そのようだな」
男の足元にはぽっかりと空いた黒い影が一つ。
そこから触手のようにのびたタール状の黒いモノが蔓のように男の足に巻きついていく。
「ひぃぃぃっ」
「お前が"死"を思い出したからやっと開いたようだ」
「たっ助けー・・」
足元のその影に得体の知れない恐怖を覚えた男は、少女に手を伸ばす。
だが少女は「何故?」と首を傾げる。
同じ仕草でもほんの少し前まではそれが愛らしいものだと感じていたのに、今では全く別物に感じるから不思議だ。
「それに、彼らが放すわけがない」
つ、と少女が自分の後ろを指差す。
だが、振り向くことはしなかった。出来なかった。
生暖かい無数の息遣いが耳元にかかる。
そして匂うのは腐臭。
「いっ…嫌だっ…!」
耳に聞こえてくるのは怨嗟の声。
自分が今まで手にかけてきた人たちの恨みの声。
「嫌だ嫌だ!助けてー・・!」
「彼らもそう言っていただろうにな。あぁ、そうだ最後に一つ訂正をしよう」
影が足から腹、腹から胸、首へとその触手を伸ばしてきた。
「この森は"あの世"と繋がっている一つの入り口ではあるが、生身の人間を"連れて行く"ことなどしない」
「!?」
ついに影は口元を覆い男の絶叫を掻き消した。
目を目いっぱいに見開き男が声なき声をあげる。
(何故何故何故どうして俺がこんな目に!嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ!誰か誰か誰か誰か------!!)
だが男の声を聞くものなどここには誰一人として、ない。
少女は口元に人指し指を沿え、嫣然と微笑んだ。
その形のいい口元が歌を口ずさむ。
ー・・"悪い子 首を撥ねてしまえ"
影がぱっくりとそれを咀嚼した。
*
中庭に用意された白色のテーブルセットで紅茶の香りを楽しむ一人の少女。
青い髪の青年がその横で給仕をしている。
「お部屋の模様替えはお昼過ぎには終わる予定です」
「そう」
道の焼いたクッキーを口に含む。
甘さが控えめで実に私好みの味だ。これ以上のクッキーを私は知らない。
「…レティシア様、一つお聞きしても宜しいでしょうか?」
「何だ?」
主人に許しを得た道は、昨夜のことですが、と続けた。
「屋敷に上げずともあのままあの男を放置しておいても問題は無かったでしょうに」
あのまま上げいれることなく森に放置しておけば自然に消えていただろうし、あるいはあの時点で道の手によって消してしまっても良かったのだ。
何も、あんな周りくどいことをしなくてもよかったのではないか、と道が訪ねれば、彼の麗しの主人は笑みを湛えてこう応えた。
「無粋じゃないか」
「無粋…ですか?」
「あぁ」
主人は笑みをそのままに視線を手にしたクッキーから庭先のほうへと向けた。
つられて道もその視線の先を追えば、そこにいたのは子猫を抱えた小さな女の子の姿。
女の子は笑顔で手を振っている。
にゃー・・
猫が一鳴きすれば幻のようにその姿は掻き消えた。
「…成る程」
確かに、無粋だ。
「気分がいい、今夜は一本あけるとしよう」
「畏まりました、それではデザートにはショコラを」
主人の好物の名を口にすれば彼女は満足そうに笑う。
「あぁ、実に楽しみだ」
リンドンヴェールの夜の森
屋敷に住まうは美しい主とその従者
リンドンヴェールの夜の森
次に迷うはどの魂?