いつまでも
「いつか結婚するなら、お内裏さまみたいな人がいい」
癖ひとつない艶のある黒髪を揺らし女の子が笑う。
柔く小さな手に抱えられているのは、静かな微笑を浮かべた男雛。
娘の可愛らしい願望に母はくすりと笑って丸い頭を撫でた。
すっとした白い顔に優しげな目元。紅を乗せた唇。
どこをとっても品のある美しさに女の子は瞳をとろけさせる。
まだ見ぬ未来に思いを馳せ、雛壇のそばに敷いた布団に横になる少女を男雛がそっと見守っていた。
女の子は日毎に可愛らしく、美しく成長していった。
黒髪もより豊かに、より艶やかになった。
そんな彼女の夢は中学校に上がったあとも変わらなかった。
「中学の男子なんて、ちょっと大きくなっただけの子供だよ。 お内裏さまみたいに綺麗でもないし、落ち着いた雰囲気もないし。 この前初めて告白されたけど、なんとも思わなかった」
ほんの少し尖らせた唇からは、つまらないとばかりにため息がこぼれる。
男雛は変わらぬ微笑を湛え、動くことのない穏やかな眼差しを女の子に注いでいた。
女の子は男雛を上段に飾り、ふわりと笑った。
「やっぱり綺麗」
どこまでも無垢、されどあの頃の無邪気さは落ち着いた顔を男雛の瞳が捉えていた。
少女が女性へと変わっていくのは一瞬だった。狭い蛹を破り、繊細で鮮やかな織物のごとき翅を広げて空を舞う蝶のように。
腰まで伸びた黒髪は彼女の動きに合わせてさらさらと靡く。日に当たると輝く肌は透けるように白く、ふっくらとした唇は薄紅梅色をしていた。
高校生になった女の子の周りには人が集まり、集まらない人もまた彼女を見ずにはいられなかった。
彼女が男雛の美しさに幼い心を震わせ焦がれたように。
「私、好きな人できちゃった。 貴方みたいに品があるわけでも、穏やかに笑うわけでもないんだけどね。 ……なんでだろう」
慣れた手つきで雛壇の準備をしながら、女の子はこそりと男雛に語りかけた。
心底不思議、という風でいながらすっかり大人びた顔立ちは柔らかく、頬はほんのりと桃色に染まっている。
長年の付き合いのある相手に秘密を打ち明ける時のように、かつての少女は話し続ける。
「ふざけてからかってくるし、かと思えば困ってる時があるとさりげなく助けてくれて。 いちいち彼の言動に反応してたら……って、人形相手に言っても変よね。 それにお雛さまがいるのに」
男雛の隣に鎮座する女雛を見やり、女の子は眉尻を下げた。
直後、ぽと、ぽとと何かがぶつかりながら落ちる小さな音が耳に届く。
周囲を見まわした彼女は音の発生源らしきものをつまみあげ、首を捻った。
「ちゃんと持たせてあげたはずなのに」
細く小さな木の板のようなものを元の位置に戻し、女の子は雛壇の飾りつけを進めていく。
再び笏を握る男雛の白い手が微かに震えていたことには気づかなかった。
雛壇の準備を終えた翌日、引き攣った声が女の子の自室に落ちた。
一瞬にして明瞭になった視界の中で、彼女の目を引いているのは机の上。見慣れた装束に白く美しい顔。彼女が先日語りかけた男雛だった。
男雛を移動させたのかと母に訊ねたが、一度も触れていないと首を振った。
次の日の朝、昨日と全く同じ位置に男雛は座っていた。
その翌日は女の子の枕元に。
そのまた翌日は彼女の通学用リュックの中に。
昼夜問わず、所構わず、男雛は女の子の目に映り込んだ。
かつて胸に淡い憧れを抱かせた容貌は目にするだけで心臓が縮む。
暗闇に浮かび上がる白を見つけるたびにびくりと肩が跳ねる。
柔和な笑みを湛える唇の端が日に日に上を向いているようで、薄ら寒くなる瞬間が増えていく。
整えられた髪はほつれ、着物や白い頬にも汚れや傷が目立つようになった。それでもなお、男雛は女の子のそばにいた。
離れることなどあってはならないと言うように。
「お母さんお願い。 もうお内裏さま仕舞って」
「明日は雛祭りでしょ。あと一日なのに仕舞うのもねえ」
「そんなの知らない。 お母さんも見たでしょ、いつの間にか雛壇から別の場所にいるの。 こんな怖いの飾っておけない、もう見たくない」
黒真珠のような瞳を潤ませ、女の子は震える声で言った。
娘の取り乱す姿があまりに痛ましく、母は代わりに男雛だけを仕舞った。
その夜、女の子は布団を頭まで被り身体を抱え込むようにして潜った。
瞳を固く閉じ、知らず両手を組み合わせながら睡魔の訪れを待つ。
温度を失った指先は震えが止まず、より強く指を絡めた時だった。
女の子のふくらはぎあたりに何かがトサリと落ちた音がした。
布団越しのそれに重量がそこまでないとわかると同時に、彼女の中を嫌な感覚が突き抜ける。
息を殺し、布団から抜け出した彼女は部屋の照明スイッチを押した。
「……あ。 いや、なんで、なんで……っ」
薄汚れ、糸がほつれた装束。
紐が緩みずれた冠の間から広がる乱れた黒髪。
雪のように白い肌は汚れと傷だらけだと言うのに、穏やかな笑みを湛えたままの顔。母に仕舞ってもらったはずの男雛だった。
身体のみを仰向けにし、首のみを女の子の方を向いている。
その場にへたり込む女の子を捉えた男雛の瞳が、ゆっくりと見開かれる。
紅い唇がにぃ、と笑みを深めた。
––––私だけを見ていておくれ。
ぞっとするほど優しい声音。
女の子が成人し結婚した今もなお、それは彼女の耳へと囁きかけてくる。




