第8章 大したことです
その日は、明日香の公休日だった。
朝はゆっくり起きて、洗濯を済ませる。
昼前には買い物に出るつもりで支度をしていた。
扉を叩く音がする。
少し強い。
胸がざわつく。
開けると、診療所の見習いが立っていた。息が上がっている。
「アスカさん、至急、診療所へ来てください」
嫌な予感がする。
「何かあったんですか」
「……第4騎士団のジンさんが、負傷しました。アスカさんの保護人ですよね。身内の方も誰もいないそうなので、お願いします」
視界が一瞬、狭くなる。
「命に別状はありません。右わき腹の裂創です。深いですが、内臓損傷はありません。現在、魔力睡眠下で縫合中です」
命に別状はない。
その言葉を頭の中で繰り返す。
大丈夫。
理屈では分かる。
それでも、指先が冷たい。
診療所の職員の多くは、まだジンが明日香の保護人だと思っている。
保護が何年目で、いつ解除になったかまで知っている者は少ない。
「すぐ行きます」
外套を羽織り、診療所へ向かう。
自然と速足になる。
診療所に着くと、空気が張り詰めていた。
「大型魔物の爪です。筋層まで達しています」
同僚が簡潔に伝える。
「出血はコントロール済み。貫通なし。縫合中です」
「内臓は?」
「無事です」
深く息を吐く。
中等度。
適切に処置すれば回復する。
頭は冷静に状況を整理する。
それでも。
処置室の扉は閉じたままだ。
器具の音が聞こえる。
顔を見るまでは、安心できない。
やがて扉が開く。
「縫合終了。固定済みです」
ストレッチャーが出てくる。
ジンは眠っている。
腹部はしっかりと固定され、顔色も悪くない。
呼吸は安定している。
それを見た瞬間。
「……よかった」
小さく息が漏れる。
命に別状はないと分かっていた。
それでも。
本当に生きていると確認して、ようやく胸が緩む。
病室のベッドへ移される。
明日香はベッドの脇に立つ。
規則正しい呼吸。
眠っているだけだ。
一時間ほどして、ジンのまぶたが動く。
ゆっくりと目を開ける。
焦点が合い、明日香を見る。
一拍の沈黙。
「……公休日では?」
少しかすれた声。
それでも敬語だ。
「呼ばれました」
明日香は静かに答える。
ジンがわずかに視線を逸らす。
「申し訳ありません」
「謝らないでください」
そこで言葉が止まる。
「命に別状はないと聞いていましたけど」
一瞬、息を吸う。
「すごく、心配しました」
ジンは小さく息を吐く。
「大したことはありません」
その言葉に、明日香の眉がわずかに寄る。
「十分、大したことです」
さきほどより、少しだけ強い声。
ジンが目を細める。
明日香は視線を逸らさない。
「大体、ジンさんはいつもそうです」
小言のように、けれど本気だ。
「縫合が必要なほど深い傷を」
少し、にらみつける。
「それを“たいしたことはない”なんて」
小さくため息をつく。
「……もっと、自分のことを大切にしてください」
静かな叱責。
ジンは数秒黙り、やがてうなずく。
「……はい」
そのとき、扉が叩かれる。
「入るぞ」
ライトが顔を出す。
「起きたか」
「……ああ」
ライトは腹部の固定を見て、眉をひそめる。
「思ったより深いな」
「大丈夫だ」
ライトは明日香に向き直る。
「アスカさん、ちょっとお願いしてもいいですか」
ジンが顔をしかめる。
「おい」
ライトは無視する。
「退院後、自宅安静中の看病、お願いできますか」
「寮でいい」
ジンが言う。
「よくない」
即答。
そこに明日香も重ねる。
「絶対に適度な安静、守れないですよね」
ジンが黙る。
ライトが続ける。
「今回のは深い。無理したら開く」
「そこまでの怪我じゃない」
「十分、大したことです」
明日香が睨む。
ライトがうなずく。
「看護師が近くにいたほうが安心だからな」
それから、はっきりと言う。
「頼みます」
冗談はない。
真面目な顔だ。
ジンが視線を逸らす。
「迷惑かけるわけには……」
「迷惑じゃないです」
明日香は静かに言う。
「今こそ、恩返ししたいです」
「保護していただいた間、たくさん助けてもらいました」
「自宅にいる間ぐらい、看させてください」
ジンはしばらく黙り、やがて息を吐く。
「……分かりました」
ライトが小さく笑う。
「決まりだな」
「勝手に決めるな」
「もう決まった」
ライトは扉へ向かう。
「無理すんなよ」
「お前もな」
扉が閉まる。
部屋に静けさが戻る。
明日香は固定をもう一度確認する。
「退院後は、私が管理します」
ジンがわずかに苦笑する。
「……管理、ですか」
「はい」
張り詰めていた空気が、ようやくほどける。
公休日は終わった。
けれど、それでいいと思えた。




