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第11章 やりすぎです ――距離の測り方

仕事を終えて家に戻ったとき、明日香は玄関を開けた瞬間に、空気の違いに気づいた。


朝出たときより、整いすぎている。


床はきれいに拭かれ、窓は開け放たれ、室内の空気が入れ替わっている。洗濯物まできちんと畳まれているのを見て、明日香は思わず眉を寄せた。


嫌な予感がする。


「……ジンさん?」


呼びかけると、奥の部屋からかすかな物音がした。床板が軋む音と、短く息を吐く気配。


寝室の扉を押し開けると、ジンが腕立て伏せの姿勢のままこちらを見上げている。


「軽い運動です」


先にそう言われて、明日香はゆっくりと息を吐いた。


軽いわけがない。


腹部の傷は順調に回復しているし、縫合部も安定している。それでもまだ深部は弱い。負荷をかけすぎれば、開く可能性はある。


ジンは体を起こし、そのまま立ち上がる。動きは滑らかだが、わずかに腹部をかばう癖が残っているのを、明日香は見逃さなかった。


「家事も、全部やりましたよね」


「ええ。動けるうちに」


その言い方に、胸がざわつく。


騎士という人種は、どうしてこうも自分の体に対して雑なんだろうと、内心ため息をつきながら、明日香ははっきりと言った。


「家事をやっていただけるのは助かりますけど、でも全部はやりすぎです」


ジンはほんの少し目を細める。怒られているはずなのに、どこか嬉しそうに見える。


「医師から5日後には復帰できると。だから復帰までに、ある程度戻しておきたいんです。体力が落ちると、すぐに差が出ますから」


理屈としては分かる。分かるけれど。


明日香は一歩近づき、腹部の固定に視線を落とした。


「体力は順番に戻せばいい。でも傷は、一度開いたらまた縫わないといけないんですよ。私は、それを心配してるんです」


言い切ると、ジンがわずかに息を吐く。


「……心配してくれるんですね」


その声音が、昨日までとは少し違う。


距離も、空気も、ほんのわずかに変わっている。昨日から、自分たちは恋人なのだと、こんな瞬間に実感する。


「しますよ」


急に恥ずかしくなって、視線をそらす。


「当たり前じゃないですか。怪我してる人が無茶してるの見たら、看護人ならだれでも止めます」


つい、一般論に逃げる。


ジンは小さく笑った。


「嬉しいです」


そう言って一歩近づく。


近い。


明日香は思わず半歩下がった。


「……あの、少し近くないですか」


「すみません」


謝りながらも、視線は逸らさない。


「距離の取り方が、まだ分からなくて」


正直すぎる。


明日香は一気に赤くなる。


「謝らないでください。ただ、慣れなくて……」


「では、どこまでなら大丈夫ですか」


真面目な顔で問われて、余計に困る。


「……それ、聞くんですか?」


真っ赤になって固まる明日香を見て、ジンは思わず小さく笑ってしまう。


「ジンさんは、全然余裕そうです」


少しむくれると、今度はジンのほうが慌てた。


「そんなことはありません」


その様子に、明日香もつられて小さく笑う。


少し間を置いてから、赤い顔のまま、ぽつりとつぶやいた。


「慣れるように、頑張ります」


ジンは何も言わず、ただ嬉しそうに明日香を見つめていた。


その視線に居心地が悪くなって、明日香はふと鼻先をくすぐる匂いに気づく。


「……さっきから、すごくいいにおいがしてるんですけど」


わざとらしく話題を変えると、ジンがようやく視線を外した。


「煮込みです。火は止めてあります」


「そうですよね。帰ってきたときから思ってました」


そう言いながら、明日香は台所へ向かう。鍋の蓋を開けると、湯気がふわりと立ち上った。


野菜と肉の煮込み。香草の香りがやわらかい。


「……これ、ジンさんが作ったんですか」


「はい。胃に負担が少ないようにしました」


自分の回復用のはずなのに、きちんと2人分。


明日香は思わず表情を緩める。


「ありがとうございます」


そう言ってから、改めて鍋をのぞき込み、


「すごく美味しそうです」


と素直に続けた。


ジンの目が、わずかに和らぐ。


「よかったです」


食卓に並べ、向かい合って座る。


「いただきます」


「いただきます」


スープを口に含むと、思っていたより深い味がした。塩気は控えめなのに、物足りなくない。


「……美味しいです。本当に」


素直に言うと、ジンは少し視線を落とし、それからまた明日香を見る。


「明日香さんが、無理をしていないか、気になっていたので」


その言葉に、明日香は一瞬手を止めた。


「私の心配より、自分の体です。でも、本当にありがとうございます」


そう言いながらも、胸の奥が少し温かい。


しばらく静かに食事を続ける。


向かい合って同じものを食べる。それだけなのに、妙に落ち着かない。視線が何度も合う。


「……そんなに見ないでください。緊張します」


「見ていましたか」


明日香がこくりとうなずく。


小さな沈黙のあと、ジンが静かに言った。


「意識していませんでした。ただ、あなたがここにいてくれると思うと、嬉しくて」


押しつけるでもなく、ただ事実を確かめるような響き。


明日香はその表情と視線に耐えられず、スープへ視線を落として一口飲む。そして、切り替えるように話題を変えた。


「明日、お休みなので、少しずつ私の荷物、家から運びますね」


「では、手伝います」


「はい。ただ、重いものは持ったらダメですからね」


釘を刺すことも、忘れない。


ジンは素直に頷いた。

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