第10章 もう、あなたを離せそうにありません ―あなたが望む速さで
看病の終わりの日。
荷物は多くない。
もともと最低限しか持ち込んでいなかった。
ジンは扉のそばに立ったまま、静かに言った。
「……本当に、助かりました」
その声は、いつもより少しだけ柔らかい。
明日香は顔を上げる。
「いえいえ、良くなって安心しました」
少し笑って、鞄を持ち直す。
腹部の傷は、もう日常生活に支障はない。
診療所でも、問題なしと判断されている。
「しばらくは無理をなさらないでくださいね」
「はい」
短い返事。
少し沈黙が落ちる。
明日香は、鞄の持ち手を握り直した。
「あの、この前の話なんですけど」
「はい」
ジンの声が、わずかに硬くなる。
「もう少しだけ……どうするか、考えさせてもらってもいいですか?」
「大丈夫ですよ。ゆっくりで」
その声は、ほっとしたように柔らいだ。
明日香は息を吸う。
「……この家は、居心地がすごく良くて。だから……」
つい零れた言葉だった。
その瞬間。
ジンの手が動いた。
明日香の手首を、反射のように掴む。
強くはない。
けれど、離さない。
「……それは」
声が、わずかに低い。
「このまま、ここにいたいという意味で、受け取っても……いいですか」
明日香の心臓が跳ねる。
え。
え?
自分の言葉を、頭の中で巻き戻す。
居心地がいい。
もう少し考えたい。
それって。
それって――
「い、いえ、その、違うというか、違わないというか……」
握られた手を見る。
距離が近い。
顔が、一気に熱くなる。
「……居心地がいいって……言いました……」
どんどん声が小さくなる。
「いや、あの、なんていうか……」
もうどうしていいか分からない。
逃げたいのに、手が離れない。
「嫌ですか」
低く、問われる。
視線が合う。
真剣な目。
明日香は、ゆっくりと首を振る。
うなずく。
ほんの小さく。
その瞬間。
ジンの指に、わずかに力がこもる。
「……もう、あなたを離せそうにありません」
抑えていたものが、静かに零れる。
「この家で……一緒に暮らしてくれますか」
明日香は固まる。
顔が真っ赤だ。
けれど。
もう一度、うなずく。
そのまま、慌てて言葉を継ぐ。
「あ、あの、でも……!」
息が上ずる。
「急に、その、どうこうとか……私、そういう経験、本当に、なくて……だから……」
自分でも何を言っているのか分からない。
「その、だから……ゆっくり、で……」
必死だ。
ジンは、思わずくすっと笑ってしまう。
あまりにも真剣で、あまりにも動揺していて。
可愛い、と。
初めて、はっきり思う。
「どうこう、とは?」
少しだけ意地悪く返す。
「ち、違います!」
明日香はさらに赤くなる。
「そういう意味じゃなくて……!」
ジンは笑みを引っ込め、まじめな顔に戻る。
「安心してください」
握った手は、そのまま。
「何もしません」
静かな声。
「あなたが望む速さで」
明日香の鼓動が、少しずつ落ち着く。
視線を上げる。
まだ、手は離れていない。
それでも。
怖くない。
「……はい」
もう一度、小さくうなずく。
朝の光が、二人を照らしている。
この時間は、借り物ではないのかもしれない。
けれど、急がない。
手を握ったまま。
離さないと決めたまま。
それだけで、十分だった。




