第1章 縁結びのはずだった
出雲大社といえば縁結びなのよ、と母が言った。
窓の外には、秋の雲がゆっくりと流れている。
父は膝の上の観光パンフレットをめくりながら、「そうなのか」と気のない返事をした。
「有名なのよ。知らないの?」
「知らなかったな」
二人のやり取りを聞きながら、私は窓の外を見た。
「……関係ないから」
母が笑う。
「何が?」
「別に」
それ以上は言わない。
言わなくても、分かっているはずだ。
機体が軽く揺れた。
最初は誰も気にしなかった。
旅行客のざわめきと、穏やかな機内アナウンス。
もうすぐ島根だね、と母が言う。
二度目の揺れは、少し長かった。
アナウンスの声色が、わずかに変わる。
父が無意識にシートベルトを確かめた。
三度目は、揺れではなかった。
体がふっと浮く。
悲鳴が上がる。
何かが落ちる音。
父の手が、強く私の腕を掴んだ。
母の指が、反対の手を握る。
機体が傾く。
視界が斜めになり、金属が軋む音がして――そこで、記憶が途切れた。
* * *
目を開けると、森だった。
背中に湿った落ち葉の感触。
冷たい土の匂い。
少しひんやりとした空気。
「……お父さん?」
喉がうまく動かない。
「お母さん……?」
返事はない。
見渡す。
高い木々。色づき始めた葉。
木漏れ日が差し込んでいる。
日本の山に、似ている。
「……山に、落ちた……?」
飛行機は。
煙は。
人の気配は。
何もない。
立ち上がろうとして、足に力が入らないことに気づく。
膝が震え、体を支えられない。
枝の折れる音がした。
顔を上げる。
犬のように見えた。
けれど、犬ではなかった。
体が大きすぎる。
四足で立っているはずなのに、輪郭がはっきりしない。
黒い靄のようなものが、その全身を取り巻いている。
光が当たっているのに、形が揺れて見える。
理解が追いつかない。
逃げなければ、と思うのに、足が動かない。
黒い塊が地面を蹴った。
迫ってくる。
次の瞬間、銀色の閃光が視界を横切った。
何が起きたのか分からない。
目の前にあった黒いものは、ふっと崩れた。
足元に、淡い光が浮かぶ。
円を描く模様が一瞬だけ現れ、すぐに消えた。
顔を上げる。
銀髪の青年が立っていた。
後ろで軽く結ばれた髪が、わずかに揺れている。
整いすぎた顔立ちだった。
碧い瞳が、まっすぐこちらを見る。
一瞬、本気で思う。
――なにこれ。
「怪我はありませんか」
落ち着いた声だった。
聞き慣れない響きのはずなのに、意味が分かる。
「……え」
「立てますか」
体を動かそうとして、力が抜ける。
そのまま傾きかけると、青年がすぐに支えた。
「失礼します。抱き上げます」
返事をする間もなく、体がふわりと浮いた。
両腕で支えられ、視界が高くなる。
近い。
鎧越しに伝わる体温と、金属の匂い。
こんな時なのに、顔が少し熱くなる。
森の中を、一定の速度で進んでいく。
枝が足元で折れる音。落ち葉が擦れる音。
しばらくして、思わず口を開いた。
「……重くないですか」
自分でも驚くほど小さな声だった。
青年は歩みを緩めることなく、短く答える。
「大丈夫です」
それだけだった。
耳元に手をやり、低い声で告げる。
「南東区域。生存者1名確認。女性。保護済み。搬送する」
わずかな間。
「了解。搬送を優先せよ」
姿は見えないのに、会話が成立している。
意味は分かる。
けれど、理解は追いつかない。
やがて木々の密度が薄れ、開けた場所に出た。
数頭の馬が待機している。
青年は私を一度、地面に下ろした。
足はまだ震えている。
すぐに馬の背へと支えられるように乗せられた。
続いて青年が跨り、手綱を握る。
肩に重みがかかる。
彼のマントだった。
「寒くありませんか」
「……ありがとうございます」
声が震える。
寒さのせいか、恐怖のせいか分からない。
「私は第4騎士団所属、ジン・ヴァレルです」
落ち着いた口調。
名乗られたから、私も言うべきなのだろうと思った。
一瞬だけ迷う。
「……明日香、友永です」
青年――ジンは、小さく頷いた。
「明日香さん。安全な場所までお連れします」
馬がゆっくりと歩き出す。
体が揺れる。
背後から支える腕がある。
森の木々が、次第に遠ざかっていく。
何が起きたのか、まだ何も分からない。
ただ、見知らぬ青年の腕の中で、揺れに身を任せていた。
あの日、私はまだ、何も知らなかった。
――5年後、この国を出るかどうかで、あんなにも悩むことになるなんて。




