三十年前の写真、撮り直しました
太平洋を越える長旅を終えたボーイング機が、関西空港に着陸する。短いタキシングを経て、ターミナル1のゲートで停止した。
川井諒一、妻のイベッタ、娘のエリー(絵里)は夏の休暇を日本の諒一の実家で過ごすためにやってきた。
「ついたー! So hot! 見てパパ、あんな大きな雲! Amazing!」
隣の席で、15歳のエリーが弾んだ声を上げた。諒一は苦笑しながら、手荷物棚からバックパックを下ろす。窓の外では七月の湿った日本の空に巨大な入道雲がそびえていた。
入国審査へと向かう通路。駐在員らしき一家の後ろを歩きながら、諒一は機内でのアナウンスを思い出していた。マイクを取った副操縦士が、着陸前に個人的なメッセージとして、将来の息子に向けてエールを送っていたのだ。
「次は家族チケットでのご搭乗をお待ちしています、か。気が早いな」
「なに、リョウ。ジェラシー?」
妻のイベッタが、悪戯っぽく肩をすくめた。
イミグレのゲートが近づいてくる。エリーが、アメリカのパスポートを取り出そうとしていた。
「エリー、そっちじゃない。日本のパスポートだ」
「あー、そうだった。My bad! ついクセで……」
エリーは改めて日本のパスポートを手に取る。アメリカで結婚した両親の間に、アメリカで生まれた彼女は日米の重国籍である。
紺色の鷲と金色の菊。彼女のアイデンティティはこの二つの間を揺れている。だが、今日は「川井絵里」としてゲートをくぐることになる。
「イベッタはあっちのゲートを通って」
イベッタは米国籍だ。二人とは別のゲートを通って入国審査を受ける。
先にゲートを通過した二人だが、ほどなくイベッタもゲートを通過した。
通路を抜けてバゲージクレームで荷物をピックアップする。税関チェックも難なく抜けて、到着ロビーに出た。
と、すぐ横では母親らしき女性と一緒に迎えに来ていたまだ幼い少女が、先ほどの駐在員一家の高校生くらいの息子に飛びついている様子が目に入った。副操縦士さん、気が早いです。
そのままロビーを抜けてリムジンバスの乗り場に進む。ロビーの自動ドアが開いた瞬間、七月の湿って暑い日本の空気にうんざりする。だが、カリフォルニアの乾いた空気との違いが、改めて日本に帰ってきたことを実感させる。エンジニアとして渡米して20年。この3年はコロナ禍で帰国できなかったので懐かしさもひとしおだ。
目的地のK市まではバスで1時間ほどだ。
バスは渋滞に巻き込まれることなく、定刻通りにK市の駅前バスターミナルに到着した。
諒一の実家はK市の中心駅から私鉄で2駅ほどだった。バスターミナルから駅までの短い距離をスーツケースを押して歩く。駅前のポプラの並木は大学進学でこの街を離れた三十年前から何も変わっていない。
夏休みに入っているのだが、部活帰りだろうか、制服姿の女子中学生が向かってくる。
懐かしい、変わらぬ白い襟のセーラー服。西中学校の生徒であろう。
すれ違う瞬間、ふと、視線が止まった。肩まで伸びたストレートの黒髪。知的な眼鏡の奥にある、意志の強そうな瞳。その女子生徒の姿に、一瞬、遠い記憶が交錯した。
心臓がドクンと音を立てような気がした。1993年あの夏、塾の教室の一番前で、必死にノートを取っていた少女。不器用なほど真っ直ぐに自分を見つめていた、あの面影。
「パパ? どうしたの、freezeして」
エリーの声に、諒一は我に返った。
「……いや、なんでもない」
そんなはずはない。あれはもう、三十年も前のことなのだから。
諒一は自分に言い聞かせるように歩き出した。だが、背後を通り過ぎたあの少女が、自分の人生の「落とし物」を拾い上げる鍵になるとは、この時の彼はまだ知る由もなかった。
今回の訪日では、観光、実家の片付けのほかにもう一つ大事な予定があった。
諒一がこの街で中学生のころに通っていた、そして大学生一年の夏にはアルバイトもした学習塾、希望学園の夏期講習での特別講演を依頼されているのだ。
「希望学園」の看板は、三十年前と同じ場所に掲げられていた。
かつては自分が教壇に立ち、そして一人の少女の心を揺らしてしまった場所。
「……ですから、今学んでいる代数や幾何が、将来どう役に立つのか。それは皆さんが想像もつかないような、例えば空を飛ぶロケットの軌道計算や、世界中のデータを解析する技術に直結しているのです」
講演を締めくくると、教室内には大きな拍手が沸き起こった。
諒一は、最前列付近に座っている一人の少女から、どうしても目が離せなかった。
駅で見かけた時よりも、さらに確信が深まる。
黒髪のストレート、知的な眼鏡。そして何より、彼女が髪を後ろで束ねている、少し古びたシルバーのヘアクリップ。
(――記憶にあるものと、同じだ)
三十年前、東京へ帰る日の朝に、自分が彼女に手渡したもの。
「Next, let’s welcome Elly!」
諒一の紹介で、エリーが元気よく教壇に上がった。
「Hi everyone! 私はエリー。将来はNASAでエンジニアをやりたいと思ってます。今日は、日本語と英語、ミックスで話すけど、Don't worry, you’ll get the vibe!」
カリフォルニアの風をそのまま持ち込んだようなエリーのプレゼンに、教室内は一気に活気づいた。
諒一は教室の隅で、ふと最前列の彼女を見た。彼女は、ノートを取る手を止め、食い入るようにエリーの話を聞いている。その瞳には、二つの文化を軽々と跳び越す姿への憧れが宿っているように見えた。
講演が終わり、片付けをしていると、その少女がゆっくりと歩み寄ってきた。
「あの……ちょっといいですか」
声まで、あの日の記憶を揺さぶる。
「ええ、どうぞ」
「森下亜紀と申します。川井先生、今日のお話、とてもワクワクしました。それに、エリーさんの英語……あんなに自由に自分を表現できるなんて、素敵だなって」
亜紀は少し照れたように笑った。
諒一は、意を決して尋ねた。
「森下さん……でしたね。あの、以前にどこかでお会いしたでしょうか。いえ、初めて会った気がしなくて」
亜紀はくすりと微笑み、眼鏡の位置を直した。
「いえ、私はずっとこの街で暮らしてきて、日本から出たこともありません。……でも」
彼女は、自分の髪に触れた。
「母から聞いたことがあります。昔、この塾で、人生を変えてくれるような素敵な先生に会ったって」
諒一の指先が、わずかに震えた。
「母の旧姓は、遠藤です」
亜紀は、真っ直ぐに諒一の目を見て言った。
「私は、遠藤由紀子の娘です。……このヘアクリップの持ち主の、娘です」
三十年の時間が、一瞬でつながった。
目の前にいるのは、あの夏、駅のホームで泣き出すのを必死でこらえながら笑顔を作っていた由紀子ではない。
けれど、確かに彼女の「想い」が、この少女の姿を借りて目の前に立っている。
「パパ! 何してるの?」
そこへ、エリーが天真爛漫に割り込んできた。
「亜紀って言うんだ? Nice to meet you! 英語、興味あるの? さっき、すごく真剣に聞いてくれてたよね」
「はい、エリーさん。私、将来は言葉を扱う仕事がしたくて……」
1993年に残してきた落とし物。
2023年の新しい出会い。
諒一は、隣で笑う妻・イベッタと目が合った。彼女はすべてを察したように、優しく、そして誇らしげに頷いた。
同じ歳の少女同士のトーク。亜紀とエリーはまるで幼い時からの友達だったかのようにあっという間に打ち解けた。
亜紀が所属するESS(英語研究部)の活動に、エリーが「ゲスト講師」として招かれたのは、講演会から数日後のことだった。
「パパ、亜紀の学校に呼ばれたの」
その朝、エリーは嬉しそうに諒一の実家を飛び出していった。
夏休みの中学校は、セミの声だけがうるさいほどに響いていた。
「これが日本の学校ね。アニメで見たやつと一緒!」
エリーは校舎の古びた廊下や、教室の木の机に目を輝かせている。
ESSの部室に現れたエリーは、たちまち部員から質問攻めにあった。
亜紀はそんなエリーの隣で、誇らしいような、少し気恥ずかしいような気持ちでいた。
「亜紀の英語、すごくきれい」
部活の帰り道、冷房の効いたマクドナルドでポテトをつまみながらエリーが言った。
「そんなことないよ。エリーみたいに、自分の気持ちをすぐ言葉にできるようになりたい。私、言葉の壁をなくせるような、そんな仕事をしたいんだ。今は、翻訳者になりたいって思っている」
窓の外は駅へと続くポプラ並木。きらめく夏の日差しの中、制服姿の学生が歩いている。母・由紀子も同じ光景を見ていたのだろうか。
「エリーはどうしてNASAのエンジニアになりたいと思ったの?」
「うん。Elementary schoolのfield trip……遠足で、NASAのLabに行ったことがあってね」
「え、アメリカの小学校って、遠足でフロリダまで行くの?」
亜紀が目を丸くすると、エリーは可笑しそうに笑った。
「Wow! NASAってフロリダだけじゃないの。LabはCaliforniaの方が多いくらいだよ」
「へー、知らなかった……」
「でも、一番のきっかけはパパかな。小さい頃、LEDがピカピカ光るcomputerを作ってくれたの。Making is exciting. 作ることってワクワクするって思ったんだ」
「あのね、私のお母さん、人工衛星をつくっているの」
「That's amazing! もっと詳しく教えて!」
そして、亜紀は母から聞いたストーリーを語り始めた。
苦手だった数学を克服した1993年の夏、大学を卒業して航空宇宙のエンジニアになったこと、夫(亜紀の父)を亡くし、この街に帰ってきたこと。今は衛星打ち上げの最後の仕上げのために射場がある種子島にずっと出張していて、亜紀は祖父母の家で暮らしていること。
エリーは何度もうなずきながら聞いていた。
「ほんと、こんなドラマみたいな話があるんだ。Unbelievable!」
すると亜紀は古い写真を取り出した。
「でも、もっと大事なものがあるの」
それは、二人と同じ歳の母・由紀子が、この街の風景をバックに一人で写っているものだった。
「これね、街の外れにある『恋人峠』の展望台なの。この街には古い言い伝えがあって……恋人がここで一緒に写真を撮ると、ずっと幸せになれるんだって」
「So romantic! じゃあ、お母さんは誰と撮ったの?」
亜紀は少し寂しそうに首を振った。
「……撮れなかったんだって。本当は、一緒に撮りたい人がいたのに、言い出せないままお別れしちゃったから。だからこの写真は、母が一人でタイマーをセットして撮った写真なの」
エリーの動きが止まった。彼女はしばらく写真を見つめ、それからニヤリと笑った。
「決めた。亜紀、その『落とし物』、私たちが拾いに行こう!」
「えっ?」
エリーはすぐにスマートフォンを取り出し、父親を呼び出した。
「パパ! 今すぐ車出して! 行きたいところがあるの。……場所? 恋人峠! Hurry up!」
夕暮れ時。少女たち二人を乗せ諒一の運転する車が、街の東の峠を目指す。イベッタは「誰にでも人生の落とし物の一つや二つはあるものよ」と言って送り出してくれた。
車内には、どこか懐かしいメロディが流れていた。ZARDの「Season」。1993年のヒット曲だ。
「……この曲、あのころよく聴いてたな」
ハンドルを握る諒一が、ポツリと呟く。窓の外に広がるK市の街並みは、オレンジ色の光に包まれていた。やがて車は切り通しを抜けて小さな展望台の駐車場に滑り込んだ。
展望台に立つと、乾いた風が吹き抜けた。
「パパ、そこに立って。亜紀も隣に!」
エリーが強引に二人を並ばせる。
「おい、エリー、何をするんだ」
「いいから! 亜紀、笑って!」
亜紀は、母がかつて立っていたのと同じ場所に立った。隣には、母がかつて恋い焦がれ、今は立派な大人になった諒一がいる。
エリーがシャッターを切った。
三十年前、一人の少女がどうしても叶えられなかった景色が今、完成した。
「……ありがとう、先生。エリー」
亜紀は深々とお辞儀をして、その写真をすぐに由紀子へと送信した。
その頃、数百キロ離れた種子島の射場近くにあるオフィスでは、森下由紀子がモニターに並んだ膨大なチェックリストと格闘していた。
通信衛星「きずな2号」の打ち上げを数日後に控え、緊張感はピークに達していた。その時、デスクに置いたスマートフォンが震えた。
仕事中に私用携帯を見ることは稀だが、娘からのメッセージに、彼女はふと手を止めた。
送られてきた画像を開いた瞬間、由紀子の息が止まった。
そこに写っていたのは、かつての自分と瓜二つの娘。
そして、その隣で穏やかに微笑む、あの夏と変わらない優しい眼差しを持った「先生」の姿だった。
背景には、あの日、一人で眺めるしかなかった故郷の街並みが広がっている。
「……っ」
由紀子は慌てて口元を抑えた。
三十年という歳月が、一気に押し寄せてくる。苦手だった数学のノート、駅のホームの喧騒、そして銀色のヘアクリップ。
あの日、自分が落としてきた恋心は、こんなにも美しい形で届けられた。
「主任? どうかされましたか?」
後輩の男性が心配そうに声をかける。由紀子は涙を拭い、幸せそうに画面を見せた。
「亜紀ちゃん?」彼は不思議そうに画面をのぞき込んだ。
「ううん、何でもないの。……ただ、ずっと叶わなかった夢が、今、叶っただけ」
由紀子は窓際に歩み寄ると、日の傾き始めた空を見上げた。
空の向こうには、自分が設計した衛星が飛んでいく宇宙がある。そして地上には、娘たちが作る新しい未来がある。
「さて、もう一仕事よ。このプロジェクトが終わったら――」
由紀子は、後ろで見守っていた男性に、少し照れくさそうに笑いかけた。
「私の両親にも、紹介させてね。あなたのこと」
数日後。
夏の青空を切り裂いて、ロケットが咆哮とともに上昇していった。
その光跡は、過去と現在、そして日本と海を越えたシリコンバレーを繋ぐ、一本の太い「きずな」のように見えた。
【完】




