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第5話「静寂のノイズ」(前半)


 嵐が去った。

 気象学的な話ではない。人災――もとい、エレナという名の局地的暴風雨の話だ。


 ことの起こりは今朝のことである。

 いつものように合鍵を使って不法侵入してきたエレナが、開口一番こう言ったのだ。


 『ごめんねノアちゃん! 実家から急な手紙が来て、三日ほど帰らなきゃいけなくなっちゃったの!』

 彼女は実家の果樹園の手伝いがどうとか、親戚の集まりがどうとか、どうでもいい情報を早口でまくし立てると、最後に『寂しいけど我慢してね! お土産買ってくるから!』と言い残し、疾風のごとく去っていった。


 パタン、とドアが閉まった瞬間。

 ノアの心の中で、盛大なファンファーレが鳴り響いた。


(⋯⋯勝った)


 何に勝ったのかは定かではないが、勝利の美酒に酔いしれる気分だった。

 三日間、七十二時間、四千三百二十分。


 それはノアにとって無限とも思えるほどの自由時間(フリータイム)を意味する。

 誰にも腕を引かれず、謎のクエストに強制連行されず、勝手に部屋の模様替えをされることもない。

 完全なる、不可侵の聖域が戻ってきたのだ。


 ノアは万年床にダイブし、枕に顔を埋めて深呼吸した。

 エレナが置いていった柔軟剤の甘ったるい匂いが微かに残っているのが癪だが、それ以外は完璧だ。

 

 静寂――世界から音が消えたかのような静けさ。

 これだ。これこそが私が求めていた「日常」だ。


 ノアはその日は一日中、ナマケモノのぬいぐるみ(皮肉なことにエレナからのプレゼントだ)のように布団から一歩も出なかった。


 喉が渇けば枕元の水筒に手を伸ばし、トイレ以外では重力に逆らわない。

 脳みそをアイドリング状態にして、天井の木目を数えるだけの生産性ゼロの時間。

 最高だ。人生の幸福度(QOL)がカンストしている。


 ――そう思っていたのは、日が暮れるまでのことだった。


 窓の外が茜色に染まり、やがて群青の夜が訪れる頃。

 ノアの腹の虫が主人の怠惰を咎めるように小さく鳴いた。


(⋯⋯腹が減った)


 生理現象。

 いかに最強の肉体を持とうとも、エネルギー補給なしに稼働することはできない。

 ノアはのっそりと上半身を起こし、薄暗い部屋を見渡した。


 いつもなら、この時間帯には騒がしい「自動給餌機」がいた。

 『ノアちゃん、今日はハンバーグだよ!』とか『野菜も食べなきゃダメ!』とか、頼みもしないのに勝手にメニューを決め、勝手に調理し、あろうことか『あーん』までしようとしてくる。


 鬱陶しいことこの上なかった。

 とはいえ、その鬱陶しさの裏には「ノアが思考停止していても食事が提供される」という絶対的な利便性が存在していたのだ。


 しかし今、部屋にはノア一人でキッチンは冷たく静まり返っている。

 当然だ。料理人がいないのだから。


(⋯⋯何か、食べるか)


 ノアは重い腰を上げ、よろよろと備蓄棚へ向かった。

 棚を開ける。そこにはエレナが買い込んでいった食材が整然と並んでいた。

 ジャガイモ、人参、玉ねぎ、干し肉、パスタ、小麦粉。


(⋯⋯素材しか、ない)


 絶望した。

 これらは「料理」という工程を経て初めて「食事」になるものだ。

 生のジャガイモを齧る趣味はないし、パスタをポリポリ食べるわけにもいかない。


 調理器具はある。あるが⋯⋯火を起こし、皮を剥き、切り、炒め、煮込む?

 その一連の動作に必要なカロリー計算をしただけで、ノアは目眩を覚えた。


 却下だ。

 自炊などという高度な文明的行為は今のノアにはハードルが高すぎる。

 以前はどうしていたんだっけ?


 記憶を遡る⋯⋯エレナが現れる前の生活、そうだ、硬い黒パンと水だけで生きていた。

 味気ないが生きるだけならそれで十分だったはずだ。


 ノアは棚の奥から非常食用の黒パンを取り出した。

 レンガのように硬く、乾燥した塊。

 それを一口、齧る。


「⋯⋯」


 硬い。パサパサする。味がしない。

 顎が疲れる。飲み込むのに大量の水が必要だ。


(⋯⋯なんだ、この苦行は)


 以前はこれを平気で食べていたはずだ。

 「食事なんて栄養が摂れればいい」と割り切っていたはずだ。


 しかし今のノアの舌は不幸なことに「教育」されてしまっていた。

 肉汁溢れるハンバーグ、とろとろのオムレツ、野菜の甘みが溶け出したシチュー。

 あのポジティブモンスターが押し付けてきた「味覚の暴力」によって、ノアの生存基準が勝手に引き上げられてしまっていたのだ。


 黒パンをテーブルに置く。

 食欲が失せたわけではない。むしろ美味しいものが食べたいという欲求が空腹を加速させる。


(⋯⋯外食、するか?)


 新たな選択肢。

 着替えて、外に出て、店を選び、注文し、金を払う。

 面倒だ。

 あまりにも面倒だ。

 それでもこのままでは餓死するか、味のないレンガを齧り続けることになる。


 ノアはジャージ姿のまま、ふらりと外に出る決意をした。

 近所の屋台で何か買ってくればいい。それくらいなら、ギリギリ許容範囲だ。


 夜の王都。

 メインストリートには無数の屋台が並び、香ばしい匂いを漂わせている。

 串焼き、焼きそば、スープ、サンドイッチ。

 選択肢は無限にある。


 しかし屋台の前に立ったノアは立ち尽くしてしまった。


(⋯⋯何を食べればいい?)


 串焼き屋のおやじが「へい、らっしゃい!」と声をかけてくる。

 隣のサンドイッチ屋からは「焼きたてだよー!」という声。

 情報量が多い。

 『タレにするか塩にするか』『具材は何にするか』『サイズはどうするか』。

 次々と突きつけられる決断の二択、三択。


 これまでは、隣にいた騒がしいやつが『あ! これ美味しそう! ノアちゃん半分こしよ!』と勝手に決めていた。

 ノアはそれに『⋯⋯ん』と頷くだけでよかった。

 思考のリソースを割く必要がなかったのだ。


 今は、自分の意思で選ばなければならない。

 自分の胃袋が何を求めているのか、自分自身に問いかけ、最適解を導き出さなければならない。


(⋯⋯決めるのが、面倒くさい)


 ノアは屋台の灯りを呆然と見つめた。

 「自由」とは、これほどまでに残酷なものだったか。


 全ての選択権が自分にあるということは、全ての責任を自分が負うということだ。

 もし選んだ串焼きが不味かったら? もし食べた後に「やっぱり麺がよかった」と後悔したら?

 そのリスクを背負うのが嫌で、ノアの足は動かなくなった。


 周囲の喧騒がノイズのように耳障りに響く。

 以前は気にならなかった雑音が、今はやけに大きく聞こえる。

 それは隣で常に喋り続けていた「フィルター」がなくなったせいかもしれない。

 彼女の甲高い声が周囲の雑音を掻き消していたのだと今さらながらに気づく。


「⋯⋯はぁ」


 ノアは今日一番の深い溜め息をついた。

 結局、何も買わずにアパートへ戻る道を選んだ。

 空腹は満たされていない。

 何を食べるか悩み続けるコストの方が空腹の苦痛を上回ったのだ。


 暗い部屋に戻る。

 電気をつけるのも億劫で、そのまま暗闇の中で椅子に座り込んだ。

 静かだ。

 あまりにも静かすぎる。

 この静寂は安らぎではなく、何か重要な機能が欠落したシステムのエラー音のようにノアの神経を逆撫でした。


(⋯⋯不便だ)


 ノアはテーブルの上の黒パンを睨みつけた。

 寂しいのではない。断じて違う。


 ただ高性能な「生活支援AI」がメンテナンス中で使えないことに、ユーザビリティの低下を感じているだけだ。

 そう自分に言い聞かせ、ノアは硬いパンを、齧りつく気力もなく指でつつくだけだった。

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