第4話「伝説の武器は邪魔なだけ」(前半)
湿気という概念は、人類の精神を腐敗させるために神が作り出したバグだと思う。
肌はベタつき、髪はうねり、衣服は重くなる。
不快指数とやる気の低下は正比例の関係にあり、現在のノアのやる気グラフは地殻を突き破ってマントル付近まで低下していた。
「見て見てノアちゃん! 壁画だよ! 古代文字だ!」
地下遺跡の薄暗い通路に場違いなほど明るい声が響く。
カンテラの灯りを掲げたエレナは、まるでテーマパークに来た観光客のようにはしゃいでいた。
彼女の辞書に「陰鬱」という言葉はないのだろうか。
カビと埃の匂いが充満するこの閉鎖空間ですら、彼女にとっては輝かしい冒険の舞台らしい。
(⋯⋯帰りたい。今すぐ地上の乾燥した空気を吸いたい)
ノアは死んだ魚のような目で、エレナの背中を追っていた。
今回の依頼は「地下遺跡の地図作成」ギルドの受付嬢が「Fランク向けの簡単な調査ですよ」と微笑んでいたのを信じたのが間違いだった。
簡単かどうかは問題ではない。「地下まで階段を降りて、歩き回って、また階段を登る」という運動量の総和が問題なのだ。
「あ、こっちは行き止まりだね! じゃあ向こうの通路かな!」
エレナが地図に印をつけクルリと振り返る。
元気だ。無駄に体力が余っている。
ノアは無言で頷くことすら億劫で、ただ瞬き一つで肯定を返した。
二人が進んでいるのは石造りの狭い一本道だ。
幅は大人二人が並んで歩くのがやっとで天井も低く、圧迫感がすごい。
こんな場所で魔物と遭遇したら逃げ場がない。
まあ、遭遇したところでノアが指先一つで塵にするだけなので危機感はないが、処理の手間を考えると遭遇したくない。
(⋯⋯ん?)
ふと前方が明るくなっているのに気づいた。
カンテラの灯りではない。
もっと鋭く、清廉で、そして目に刺さるような暴力的な光だ。
青白い輝きが薄暗い通路を照らし出している。
「わあ! なんだろうあの光! お宝かな!?」
エレナが小走りで駆け寄る。
ノアも渋々といった足取りで後に続いた。
光の発生源に近づくにつれ、その全貌が明らかになる。
そこは通路のど真ん中だった。床から突き出した豪奢な台座。
そして、その台座に深々と突き刺さる一本の剣。
(⋯⋯うわぁ)
ノアは内心で顔をしかめた。
自己主張の激しい剣だ。
柄には純金とミスリルが使われ、鍔には拳大のサファイアが埋め込まれている。
刀身は鞘に収まっているわけではなく、剥き出しの刃が台座の岩に食い込んでいるのだが、その刃自体が淡い燐光を放っていた。
誰がどう見ても「ただの剣」ではない。ファンタジー小説なら第一章のクライマックスに出てくる重要アイテムだ。
しかしノアにとっての第一印象は違った。
(⋯⋯邪魔だ)
それ以外の感想が湧かない。
狭い通路の真ん中に台座ごと鎮座しているせいで、左右の隙間は人が通れる幅ではない。
完全に通行止めだ。
これは悪質な道路交通法違反である。誰だ、こんなところに粗大ゴミを放置したのは。
「すっごーい! 綺麗! ねえノアちゃん、台座に何か書いてあるよ!」
エレナが台座の文字を読み上げる。
古代文字の解読スキルまで持っているのか、あるいは共通語で書かれているのか。
「えーっと⋯⋯『高潔なる魂を持ちし者、真の勇者のみがこの剣を抜くことを許される。力なき者が触れれば、裁きの雷(いかずち)がその身を焼くであろう』だって!」
エレナが読み終え、「ひえー」と肩をすくめた。
テンプレだ。
あまりにもコテコテな設定に、あくびが出そうになる。
要するに、選ばれし勇者様以外は触るなというセキュリティロック付きの聖剣ということか。
「真の勇者だって! 私たちには無理だねえ。私、Fランクだし、高潔な魂なんて持ってないもん」
エレナはあっけらかんと笑い、それから困ったように眉を下げた。
「でも、これじゃあ向こう側に通れないね。隙間もないし⋯⋯どうしよう、ノアちゃん。引き返す?」
引き返す。
その単語がノアの脳内で警報音を鳴らした。
(⋯⋯ここに来るまで、何分歩いたと思っている)
記憶を検索する。
分岐の入り口からここまで徒歩約四十分。
しかも緩やかな下り坂と階段の連続だった。
つまり、引き返すということは四十分かけて「上り坂」を歩くことを意味する。
重力に逆らって身体を持ち上げるという行為は、下りの三倍のエネルギーを消費する苦行だ。
冗談ではない。
たかが一本の剣のために私のカロリーをドブに捨てるのか?
そんな非効率は許されない。私の労働基準法に違反する。
「⋯⋯」
ノアは無言で台座の前に立った。
エレナが「えっ、ノアちゃん? 触っちゃダメだよ、雷が落ちるって書いてあるよ!」と慌てて止めようとする。
ノアの意思は固かった。天秤にかける。
『引き返して四十分の上り坂を歩くコスト』対『目の前の邪魔な棒きれをどかすコスト』
計算するまでもない。圧倒的に後者が省エネだ。
裁きの雷? そんなものが落ちてきたとしても、肌がピリッとする程度だろう。静電気以下の現象を気にする必要はない。
勇者でなければ抜けない?
それは「普通の人間」の筋力基準の話だ。
物理法則が「抜けない」と主張するなら物理法則ごと捻じ伏せればいい。
ノアは、だらりと下げた右手を漫然と伸ばした。
狙うは剣の柄、気合など入れない。腰も入れない。
ただ床に落ちている空き缶を拾うような手つきで、伝説の聖剣を握った。
バチバチバチッ!!
案の定、拒絶のスパークが走った。強烈な魔力がノアの手を弾こうとするが、ノアにとっては「冬場にドアノブを触った」程度の刺激でしかない。
(⋯⋯うるさい。抜けろ)
握力を少しだけ込める。
ほんの少し、卵を割らない程度の力だ。
ズゴゴゴゴゴ⋯⋯ッ!
遺跡全体が揺れた。
封印の魔術術式が悲鳴を上げ、数千年の時を経て岩盤と一体化していた刀身が、無理やり引き剥がされていく音だ。
「勇者の資質」などという認証プロセスを完全に無視した、暴力的なハッキング。
スポンッ。
間抜けな音がして、剣が抜けた。
途端に、あれほど眩しかった光がフッと消える。
聖剣としての威厳を蹂躙され、ただの鉄塊へと成り下がった瞬間だった。
「⋯⋯ふん」
ノアは、手の中にある重たい金属片を、興味なさげに眺めた。
やはりただの障害物だ。
持って帰っても荷物になるだけだし、売るにしても手続きが面倒くさい。
何より、こんな派手なものを持っていたら「勇者様!」などと崇められ、世界を救う旅に強制連行されるリスクがある。
結論、百害あって一利なし。
ポイッ。
ノアは無造作に手首を返し、引き抜いたばかりの聖剣を、通路の行き止まり――瓦礫の山の方へ放り投げた。
カラン、カラン、ガシャン。
乾いた音が虚しく響き、伝説の剣はゴミの山に埋もれて見えなくなった。
「⋯⋯通れる」
ノアは埃を払うように手をパンパンと叩き、固まっているエレナを振り返った。
道は開けた。
これで帰りの上り坂を回避し、最短ルートで出口へ向かうことができる。
我ながら完璧なリスクマネジメントだ。
「⋯⋯」
エレナは口をあんぐりと開けノアと剣が捨てられた瓦礫の山を交互に見ていた。
彼女のポジティブな脳みそが目の前の超常現象をどう処理するのか。
ノアは一抹の不安を覚えたが「まあ、いいか」と歩き出した。
今はとにかく、早く地上へ戻って布団に入りたい。それだけだった。




