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第3話「第三者の戦慄」(後半)


 王国騎士団長ガランド・ヴァン・ハイゼルの歩みは、まるで処刑台へ向かう囚人のようだった。

 一歩、また一歩。

 白銀の鎧がカシャ、カシャと鳴る。

 それは勇壮な行進の音ではなく、装着者の小刻みな震えによって生じる不協和音だった。


(⋯⋯来るな。引き返せ。回れ右)


 ノアはクッキーをモグモグと頬張ったまま、心のテレパシーを全力で送信する。

 しかし、恐怖に突き動かされた人間というのは、時に不可解な行動に出るものだ。


 ガランドは「確認しなければならない」という義務感と「確認したら死ぬかもしれない」という生存本能の板挟みになりながら、それでもノアたちのテーブルへと距離を詰めてくる。

 その顔色は磨き上げられた鎧よりも白かった。


「あ、あの⋯⋯」


 テーブルの前に到達したガランドが、蚊の鳴くような声を絞り出した。

 身長二メートルの巨漢が、まるで借りてきた猫のように背中を丸めている。

 ノアは反応しない。ジュースの水面に浮かぶ氷を眺め、徹底的な無視を決め込む。


「あら? 騎士様だ!」


 しかし、この場の空気を読まない(読めない)天才が一人。

 エレナだ。

 彼女はクッキーの粉がついた指を拭きながら、ニコニコとガランドを見上げた。


「こんにちは! 立派な鎧ですね! もしかして、ノアちゃんのお友達ですか?」


 お友達。

 その単語が出た瞬間、ガランドの頬がピクリと引きつった。

 「魔神の友達」などという恐れ多い称号を背負える人間が、この世に存在するわけがない。それは「死神の同僚」と同義だ。


「と、とんでもない!!」


 ガランドは裏返った声で否定した。

 あまりの勢いに周囲の冒険者たちがビクッと反応する。


「わ、私はただ⋯⋯そちらのお方が⋯⋯その⋯⋯」


 ガランドの視線がエレナ越しにノアへと向けられる。

 ノアはオレンジジュースを飲んでいた。

 ズズズ⋯⋯。


 グラスの底に残った液体を吸い上げる、行儀の悪い音が響く。

 本来ならマナー違反として眉をひそめられる行為、しかしガランドの目には違って映ったらしい。


 ヒィッ、と彼が息を飲む音が聞こえた。

 おそらく『これ以上詮索すれば、このグラスの中身のように貴様を飲み干すぞ』という無言の警告だと受け取ったのだろう。被害妄想が逞しすぎる。



「だ、団長さん? 大丈夫ですか? 汗すごいですよ?」


 エレナが心配そうに首を傾げる。

 彼女の目には目の前の大男が「極度のあがり症」か何かに見えているのかもしれない。


 ノアは内心で溜め息をついた。このままでは埒が明かない。

 下手に刺激して騒がれる前に適当にあしらって追い払うのが省エネの極意だ。


 ノアはゆっくりと顔を上げ、ガランドを見た。

 虚ろな瞳。やる気のない半眼。

 「私はお前のことなど覚えていないし、興味もないから、さっさとどこかへ行け」という意味を込めて。


 ガランドは戦慄した――その目は彼にとって「路傍の石を見る超越者の眼差し」だったのだ。

 三年前、山を消し飛ばした時と同じ目。

 自分など認識する価値もないと言わんばかりの、絶対的な強者の静寂。


「も、申し訳⋯⋯ございませんでした⋯⋯!」


 ガランドは直立不動になり深々と頭を下げた。

 何に対する謝罪なのか。

 存在してしまってごめんなさい、ということか。

 ノアが何も言わずに再び視線を落とすと彼は安堵のため息を漏らした。

 どうやら「今回は見逃してやる」というメッセージを受信したらしい。


「あの、団長さん?」


 エレナが不思議そうに声をかける。

 ガランドはハッと我に返り、今度はまじまじとエレナを見た。

 この魔神ノアの隣で、平然と笑っている少女。


 あろうことか魔神の口元を拭き、餌付けまでしていた少女。

 普通なら畏怖のあまり失禁してもおかしくない距離だ。

 しかし彼女は、まるで猫と戯れるかのようにノアに接している。


(⋯⋯信じられん)


 ガランドの表情が恐怖から驚愕、そして畏敬へと変わっていくのをノアは横目で確認した。


(⋯⋯なんだ、その目は)


 ガランドはエレナの前に片膝をつき、まるで女神を拝むような姿勢をとった。


「貴女は⋯⋯一体⋯⋯?」

「え? 私ですか? 私はエレナです! ノアちゃんの相棒バディですよ!」


 相棒、その言葉を聞いた瞬間、ガランドの中で何かがカチリと嵌まった音がした。

 ――そうか。そういうことか。


 この世の理を超越した災害ノアを、唯一制御できる存在。

 破壊の衝動を、その無垢な笑顔とクッキーで封じ込めている「安全装置」。

 ならば彼女は、この国を⋯⋯いや、世界を救っている救世主そのものではないか。


「⋯⋯エレナ殿」


 ガランドは重々しく、そして最大限の敬意を込めて言った。


「貴女のその勇気と献身に心からの敬意を表します。まさに聖女、どうかそのノアを⋯⋯よろしくお願いします。世界の平和は貴女の双肩にかかっている」

「え? へ、平和? 大袈裟ですねえ! でも任せてください! ノアちゃんは私が守りますから!」


 エレナは胸を張ってドンと叩いた。

 会話が噛み合っていない。

 一ミリも噛み合っていないのに奇跡的なバランスで成立している。

 ガランドは「守る」という言葉を「(暴走しないように監視して)守る」と解釈したのだろう。

 彼は感極まったように何度も頷くと、立ち上がって敬礼した。


「では、私はこれで。⋯⋯くれぐれも、ご機嫌を損ねませぬよう」


 最後の一言は震える声でノアに向けられたものだったが、ノアは聞こえないふりをしてストローを吸った。

 ズズッ。

 ガランドはビクッと肩を跳ねさせ、脱兎のごとく、しかし騎士団長の威厳を保とうとする不自然な早歩きでギルドを去っていった。


 嵐が過ぎ去った。

 ギルドには再び、日常の喧騒が戻ってくる。

 周囲の冒険者たちは「なんだったんだ?」と首を傾げているが、すぐに酒盛りを再開した。

 平和だ。

 ノアは空になったグラスを置き、深く息を吐いた。


「不思議な人だったねえ」

 エレナがクッキーの残りを齧りながら呟く。


「でも、ノアちゃんのこと心配してくれてたみたい! やっぱりノアちゃんは、みんなに愛されてるんだね!」


(⋯⋯どこをどう解釈したらそうなる)


 ポジティブ回路の構造解析をしたいレベルだ。

 あの男は愛ではなく恐怖に支配されていただけ、もちろん訂正はしない。

 説明すれば「えっ、ノアちゃん山を消したことあるの!? すごい!」と新たな質問攻めが始まるだけだからだ。


「⋯⋯変な人」


 ノアは一言だけで総括した。

 それ以上の感想を持つことすら、カロリーの無駄遣いである。


「そうだね! 世の中にはいろんな人がいるね! あ、ジュースなくなっちゃった? おかわり持ってくるね!」


 エレナが席を立つ。

 ノアはその背中を見送りながら、テーブルに突っ伏した。


(⋯⋯帰りたい)


 騎士団長に目をつけられ(勘違いだが)、相棒は聖女認定され(勘違いだが)、外堀がどんどん埋まっていく気がする。

 平穏な隠遁生活。


 そのゴールが地平線の彼方へ遠ざかっていくのを感じながらノアは瞼を閉じた。

 せめてエレナが戻ってくるまでの数十秒間だけ、夢を見させてくれ。

 誰にも邪魔されない、静寂という名の夢を。


 ――しかし、五秒後には「お待たせ!」という元気な声が降ってくることを、ノアはまだ知らないふりをしていた。

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