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第3話「第三者の戦慄」(前半)


 人間が堕落するプロセスは、坂道を転がり落ちる石に似ている。

 最初は抵抗がある。重力に逆らおうとする意思がある。

 それでも一度勢いがついてしまえば、あとは加速するだけだ。

 そして今のノアは、その坂道の底で完全に停止していた。


 冒険者ギルド《銀の盾》の片隅、いつもの定位置。

 ノアは気だるげにストローを咥え、果汁一〇〇%のオレンジジュースを吸引していた。


「あ、ノアちゃん口の端についてるよ! もう、子供なんだから!」


 隣に座るエレナが甲斐甲斐しくハンカチを取り出し、ノアの口元を拭う。

 本来なら、他人に口を拭かれるなど屈辱以外の何物でもない。

 「自分でやる」と手を払いのけるのが、自立した大人の対応だ。


 ノアは動かなかった。手を上げるには上腕二頭筋と三頭筋を使う。

 ハンカチを受け取るには指の筋肉を使う。

 対して、されるがままに拭かれている場合の消費カロリーは、ほぼゼロ。


(⋯⋯どうぞ、お好きに)


 ノアは虚ろな目でエレナに顔を委ねた。

 抵抗を放棄した瞬間に訪れる、この敗北的な安らぎ。これが堕落だ。

 エレナの手つきは妙に優しい。まるで手のかかるペットか、介護が必要な老婆を労るような手つきだ。


「よし、綺麗になった! えらいえらい!」


 頭を撫でられた。

 流石にそれはどうなのかと思うが、抗議するために口を開く労力が惜しいので甘んじて受け入れる。

 周囲の冒険者たちが、生温かい視線を送ってくるのが肌で感じられた。


 以前は「陰気な女」として避けられていたノアだが、最近はエレナという「陽気な飼い主」とセットになったことで「大人しい猛獣と、それを手懐ける猛獣使い」のような認識に変わりつつあるらしい。

 不名誉だが無駄に絡まれる頻度が減ったので良しとする。


 その時だった。


 バンッ!!


 ギルドの重厚な扉が乱暴に押し開かれた。

 喧騒に包まれていたホールが、一瞬にして水を打ったように静まり返る。

 入ってきたのは揃いの白銀の鎧に身を包んだ一団だった。

 その先頭に立つ男を見て、冒険者たちがざわめき立つ。


「おい、あれって⋯⋯」

「騎士団長のガランド様じゃないか?」

「なんでこんなむさ苦しい場所に⋯⋯視察か?」


 ガランド・ヴァン・ハイゼル。

 王国の騎士団長にして、国内最強の剣士と謳われる男。

 身長二メートル近い巨躯に、歴戦の傷が刻まれた強面。その威圧感だけで泣く子も黙るという生ける伝説だ。


(⋯⋯うわ、面倒なのが来た)


 ノアはストローを離し、瞬時に気配を断った。

 国家権力。それは「平穏」の対極に位置する概念だ。

 関われば最後「国のために力を貸せ」だの「魔王討伐隊に参加しろ」だの、カロリー消費がマッハで加速する案件を持ち込まれるに決まっている。

 私は家具。私は背景。私はただのオレンジジュース愛好家。


 ガランドは鋭い眼光でギルド内を睥睨した。

 鷹が獲物を探すような目つきだ。

 その視線がゆっくりと移動し――そして、ノアのいるテーブルでピタリと止まった。


 ビクッ、とガランドの巨体が震えたのをノアは見逃さなかった。


(⋯⋯あ)


 目が合った。

 そして思い出してしまった。

 三年前、人里離れた山奥でひっそりと暮らしていた頃のことだ。


 たまたま近くで演習をしていた騎士団が、ノアの昼寝を妨害するほど騒がしかったため警告として近くの岩山を一つ、指パッチンで消滅させたことがある。

 その時、腰を抜かして震えていた指揮官が、確かこの男だった気がする。


(⋯⋯見なかったことにしろ。他人の空似だと思い込め)


 ノアは必死に念を送るがガランドの顔色は見る見るうちに蒼白になっていく。

 脂汗が滝のように流れ出し、カシャカシャと鎧が小刻みに音を立てている。


 彼は認識してしまったのだ。

 この薄暗い酒場の片隅に、かつて地図を書き換えた「天災」そのものが座っているという事実を。


「⋯⋯あ、あ、あ⋯⋯」


 ガランドの口からヒキガエルが潰れたような音が漏れる。

 騎士団長としての威厳はどこへやら。

 彼は今、猛獣の檻に放り込まれたウサギの心境だろう。

 周囲の冒険者たちは、ガランドが何に怯えているのか分からず、困惑している。


 このままではまずい。

 彼が「貴方様は!?」などと叫べば、面倒なことがおきて平穏が終わる。

 ノアが鋭い視線(静かにしろ、という無言の圧力)を送ろうとした、その瞬間。


「ノアちゃん、あーん!」


 空気を読まない、いや、空気が読めないにも程がある声が響いた。

 エレナだ。

 彼女はバスケットから焼き菓子を取り出し、ノアの口元に差し出していた。


「ほら、新作のクッキーだよ! 美味しいから食べてみて!」


 ノアの思考が停止する。

 今、国家存亡レベルの緊張感が漂っていたはずだ。

 騎士団長が心臓麻痺寸前まで追い詰められている状況だ。

 そこで「あーん」だと?


 チラリとガランドを見る。

 彼は目を見開き、顎が外れんばかりに口を開けていた。


 ――理解不能。

 ガランドの脳内で、エラーメッセージが乱舞しているのが手に取るように分かる。

 彼の記憶にあるノアは、冷徹な無表情で山を粉砕する破壊の化身だ。

 その化身が新米冒険者の小娘に、赤ちゃんのように餌付けされようとしている。

 「魔神」対「あーん」。

 世界観が衝突事故を起こしていた。


(⋯⋯食うか)


 ノアは判断した。

 ここでクッキーを拒否して問答を続ければ、ガランドのパニックが悪化し大騒ぎになる可能性がある。

 ならば、このまま「ただの無害な少女」を演じ通すことで、彼の記憶違いだと思わせる(あるいは現実逃避させる)方が得策だ。

 それに口を開けるのを待っているエレナの手を放置するのは、なんとなく居心地が悪い。


 ノアは小さく口を開けた。

 サクッ。

 クッキーが口の中に放り込まれる。

 バターの風味が広がった。


「どう? 美味しい?」

「⋯⋯ん」

「やったあ! じゃあもう一個!」


 エレナが次のお菓子を取り出す。

 ガランドは石像のように固まっていた。

 その目は「私は幻覚を見ているのか? ここは現実なのか?」と問いかけている。

 最強の騎士団長が常識という名の剣を折られた瞬間だった。


(⋯⋯帰りたい)


 ノアは口の中のクッキーをもごもごと咀嚼しながら、遠い目をした。

 甘い味が、やけにしょっぱく感じられた。

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