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第2話「不法侵入とホワイトシチュー」(前半)


 世界には二種類の人間がいる。

 朝、太陽と共に目覚めて活動を開始する『光の住人』と、太陽を呪いながら布団という名の殻に籠る『闇の住人』だ。

 ノアは当然、後者の代表格である。


 王都の下町にある築四十年のボロアパート、《ひだまり荘》二〇一号室。

 その薄暗いワンルームで、ノアは自身の生存戦略における最適解を実行していた。

 すなわち、二度寝である。


(⋯⋯最高だ)


 せんべい布団の硬さが、むしろ背骨に心地よい。

 窓の隙間から差し込む朝日は、分厚い遮光カーテン(自作)によって完全にシャットアウトされている。


 外界との接触を断ち、意識をまどろみの海へと沈めていくこの瞬間こそ至高の贅沢。

 昨日の記憶――騒がしい新米冒険者に絡まれ、森を引きずり回され、オークをデコピンで消滅させた悪夢のような出来事――も、睡眠という聖なる儀式によって洗い流されつつあった。


 今日は休養日だ。冒険者ギルドへの顔出し義務もない。

 食料備蓄は硬いパンと干し肉が枕元にある。


 トイレ以外でこの布団から出る理由は一つもない。

 完全なる籠城。絶対的な安息。

 ノアは心の中で固く誓った。今日という一日を、一ミリたりとも筋肉を動かさずに終えてみせる、と。


 ガチャリ。


 ――金属と金属が擦れ合う、無機質な音が響いた。

 ノアの意識が海面へと浮上する。

 今の音はなんだ。玄関の方から聞こえた。鍵が開く音だ。


(⋯⋯泥棒か?)


 ノアは布団を頭まで被ったまま、冷静に分析する。

 この部屋に金目のものなどない。あるのは万年床と読み終わった古本と数日分の保存食だけだ。


 泥棒が入ったところで盗むものに困って逆に金を置いていくレベルの貧相な暮らしである。

 ならば放っておいても問題ない。


 泥棒と鉢合わせして「金を出せ」「ない」「嘘をつけ」という押し問答をするカロリーの方が惜しい。

 どうぞご自由にお入りください。そして絶望して帰ってください。


 キィィ、と錆びついた蝶番が悲鳴を上げ、ドアが開く。

 足音が一つ。

 忍び足ではない。むしろ堂々とした、リズム感のある足音だ。


「おっはよー! ノアちゃん! 朝だよー!」


 ――爆音が炸裂した。

 泥棒ではなかった。いや、泥棒の方がまだマシだった。

 聞き覚えがありすぎる、脳細胞を直接揺さぶるようなハイトーンボイス。

 昨日の悪夢エレナが、物理的実体を持って再来したのだ。


(⋯⋯なぜ入れた?)


 ノアは布団の中で戦慄する。

 鍵はかけたはずだ。オートロックなどという上等なものではないが、物理的な施錠は確実に行った。

 ピッキングか? あの脳内お花畑女がそんな裏社会的スキルを持っているのか?


 どしどしどし、と足音が近づいてくる。

 そしてノアの最強の防壁(掛け布団)が、無慈悲な力で剥ぎ取られた。


「朝! 起きてノアちゃん! いいお天気だよ!」

「⋯⋯眩しっ」


 強引に開け放たれたカーテンから、暴力的な日差しが雪崩れ込んでくる。

 網膜が焼てしまう、ノアは吸血鬼のように腕で顔を覆った。


 薄目を開けて見上げれば、そこには逆光を背負った悪魔が立っていた。

 フリル付きのエプロンを着て、お玉を装備したエレナだ。


「⋯⋯不法侵入」


 ノアは掠れた声で法的根拠に基づいた抗議を行う。

 しかし、エレナは満面の笑みで親指を立てた。


「大丈夫! 下の大家さんに挨拶したらね『おや、ノアちゃんの友達かい? あの子は放っておくと餓死しそうだから、よろしく頼むよ』って合鍵くれたの! 大家さんとってもいい人だね!」


(⋯⋯あのクソじじい)


 エレナの下手くそなモノマネで大家の顔が脳裏に浮かぶ。

 セキュリティ意識がザルどころではない。枠しかない。

 赤の他人に住人の合鍵を渡すなど賃貸契約上の重大な背信行為だ。

 今度家賃を滞納してやろうか。⋯⋯いや、それをすると督促が面倒くさい。


「⋯⋯帰れ」

「またまたー! 照れ屋さんなんだから! 昨日の今日で、親友が心配して来てくれたんだよ? 嬉しいでしょ?」


 微塵も嬉しくないどころか、言葉が通じない恐怖すら感じる。

 ノアは再び布団を頭まで被り、芋虫のように丸まった。

 ――無視だ。

 この存在を観測していなければ現象は確定しない。シュレーディンガーの猫だ。

 ここにエレナはいない。幻覚だ。


「もう、二度寝はダメだってば! せっかく食材買ってきたんだから!」


 トントン、トントン。

 気がつけば軽快な音が部屋に響き始めた。

 包丁がまな板を叩く音、狭いワンルームなのでキッチンは枕元のすぐそこにある。

 ノアの安全地帯が生活音によって侵食されていく。


(⋯⋯なぜ勝手に料理を始めた?)


 勝手に入り込み、勝手に台所を使い、勝手に何かを作っている。

 警察を呼ぶべきか。いや、この世界に警察はない。衛兵だ。

 衛兵を呼ぶには着替えて外に出て、詰所まで行かねばならない。

 往復三十分の運動、対してこのまま寝ている場合の消費カロリーはゼロ。


 じゅわぁー⋯⋯バターが溶け、肉と野菜が炒められる音がした。

 続いて鼻腔をくすぐる暴力的な香り。

 玉ねぎの甘い匂い。鶏肉が焼ける香ばしさ。そして、ミルクの濃厚な風味。


(⋯⋯っ)


 ノアの腹の虫が、主人の意思に反して盛大に鳴いた。

 ぐうぅぅぅ、という情けない音が静かな部屋(料理音を除く)に響く。

 ここ数日、まともな食事を摂っていない。


 「食べるのが面倒」という理由で、水とカビてそうなパンを齧るだけの生活だった。

 そこへ来てこの匂い――ホワイトシチューだ。

 野菜をしっかり炒めて甘みを引き出し、小麦粉とバターで丁寧にルーを作った、家庭の味。


「ふふっ、ノアちゃんお腹空いてるんだね! もうすぐできるから待ってて!」


 エレナの声が弾んでいる。

 悔しい。本能レベルで屈服させられているのが悔しい。

 だが抗えない。

 布団という防壁は物理攻撃には強いが、匂い攻撃に対しては無力だった。


(⋯⋯一口だけ)


 ノアの中で妥協案が浮上する。

 今ここで無理やり追い出しても空腹が満たされることはない。

 それどころか完成間近のシチューを廃棄することになる(ノアに料理は出来ない)。


 それは食材への冒涜であるからして、ならばまずは食べる。

 食べてエネルギーを充填する。

 しかるのちに満腹のエネルギーを使って「二度と来るな」と追い出せばいい。

 これは敗北ではない。戦略的撤退だ。


 ノアは布団から顔だけを出した。

 エプロン姿のエレナが、鍋をかき混ぜながら鼻歌を歌っている。

 その背中から漂う「お母さん」のようなオーラに、最強の少女は微かな敗北感を覚えていた。


「⋯⋯毒、入ってないだろうな」

「入ってるわけないでしょ! 愛情たっぷりだよ!」

「⋯⋯愛情はいらない。塩胡椒にしてくれ」

「あはは! ノアちゃんってばジョークも言えるんだね!」


 ジョークではない。切実な願いだ。

 ノアは重い体を起こして椅子に寄りかかった。


 とりあえず飯だ。

 それ以外の厄介事は胃袋を満たしてから考えるとしよう。

 そう自分に言い訳をして、ノアは差し出されたスプーンを受け取ることになるのだった。

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