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第10話「日常への帰還」(前半)


 冒険者ギルド《銀の盾》の喧騒は今日も変わらず鼓膜を叩く。

 怒号、笑い声、食器がぶつかる音。


 ノアにとってその音色は、以前とは少し違って聞こえていた。

 かつては「敵対的な騒音」でしかなかったそれらが、今では「日常のBGM」程度には許容できるようになっている。慣れとは恐ろしいものだ。


 ギルドの最奥、柱の影にあるデッドスペース。

 そこはかつて、ノアが一人で世界を拒絶するために立て籠もる「孤独の要塞」だった。

 しかし今、その聖域の風景は様変わりしている。


「んーっ! やっぱりクエスト明けのフルーツ牛乳は最高だね!」


 向かいの席で腰に手を当てて牛乳を煽る少女がいる。

 エレナだ。

 彼女は飲み終えた瓶をテーブルに置くとプハァと親父くさい息を吐き、満面の笑みを浮かべた。


「ノアちゃんも飲む? 一口あげるよ!」

「⋯⋯いらない」


 ノアは手元のオレンジジュースに視線を落としたまま短く拒絶する。

 テーブルの上には二つのグラス、オレンジジュースとフルーツ牛乳。

 かつては一つだけだったグラスが今は当然のように二つ並んでいる。

 水滴が落ちてテーブルクロスに二つの輪染みを作っていた。


(⋯⋯昨日の肉、食べたかったな)


 ノアの思考は目の前の相棒ではなく昨晩の悲劇へとトリップしていた。

 王城での祝勝パーティー。

 目の前に積まれたA5ランク・ドラゴン牛のローストステーキ、芳醇なトリュフの香り。


 今思い出してもヨダレが出そうになる美食の数々、それをエレナによって限界まで締め上げられたコルセットが、胃袋の拡張を物理的に阻止したのだ。

 あの一件以来、ノアの胃袋は亡霊のように「肉」を求めて彷徨っている。


「どうしたのノアちゃん? 遠い目をして⋯⋯あ! もしかして昨日のステーキのこと考えてる?」


 ギクリ、なぜバレた。この女、時々妙に鋭い勘を発揮する。


「大丈夫だよ! 実はね、こっそりシェフに頼んで『お持ち帰り用』を包んでもらったんだー! 今日の晩御飯は特製ステーキ丼だよ!」


(⋯⋯神か)


 ノアはカッと目を見開いた。

 現金なものだ。さっきまで「コルセットの悪魔」だと思っていたエレナが、今は後光が差す女神に見える。

 やはり胃袋を掴まれたというのは致命的だ。

 この餌付けが続く限り、ノアは彼女から離れられないのかもしれない。


「でねでね、そんなノアちゃんに提案があります!」


 エレナが鞄から一枚のチラシを取り出し、ババンとテーブルに叩きつけた。

 そこには湯気を立てる露天風呂と、赤ら顔で酒を飲む猿のイラストが描かれている。


「温泉旅行! 行こうよ!」

「⋯⋯は?」

 ノアはストローを離し、眉をひそめた。


「骨休めだよ、骨休め! 最近、スタンピードとかドラゴンとか、いろいろありすぎたでしょ? だからパーッと温泉に浸かって、のんびりしようよ!」


 温泉。その響き自体は悪くない。

 温かい湯に浸かり、重力から解放される浮遊感。それはノアの愛する「省エネ」の概念に近い。

 だがそこに至るまでのプロセスが問題だ。


(⋯⋯移動、荷造り、宿の手配)


 脳内でコスト計算が走る。

 ここから最寄りの温泉地までは馬車で半日と仮定して往復の揺れ、慣れない枕。

 そして何より「裸の付き合い」という名の強制コミュニケーション。


「⋯⋯面倒だ。家で風呂に入ればいい」


 ノアは即答した。

 ひだまり荘の風呂は狭いが一人で入る分には十分だ。

 わざわざ遠出をしてまで湯に浸かる意味が分からない。


「えーっ! 違うよノアちゃん! 家のお風呂とは開放感が違うんだって! 広い空! 広いお湯! そして美味しい温泉卵!」

「⋯⋯卵」

「そう! 温泉の蒸気で蒸したプリンみたいな卵! あと、湯上がりのマッサージもあるよ!」


 エレナが追撃を仕掛けてくる。

 温泉卵にマッサージ⋯⋯ノアの防御壁(面倒くさがり)に、ピンポイントで有効打を撃ち込んでくる。


(⋯⋯くっ、魅力的だ)


 こった体をほぐされて美味しいものを食べる。

 それは確かに今のノアが求めている「極上の怠惰」かもしれない。

 しかしここで首を縦に振れば、それは「エレナの提案に乗る」ことを意味する。


 最近、流されすぎではないか?(自覚あり)

 最強の冒険者としての威厳はどうした?(元から大してない)


 ノアはチラシと期待に目を輝かせるエレナを交互に見た。

 一ヶ月ほど前、二人が出会ったばかりの頃ならどうしていただろう。


(⋯⋯無視していたな)


 間違いなく、無視していた。

 「温泉に行こう」などと言われても「興味ない」と一蹴し、寝たふりを決め込んでいただろう。

 あるいは勝手についてくる彼女を撒いて、一人で部屋に引きこもっていたはずだ。


 それがいつしか真剣に検討している。

 「行くか、行かないか」を天秤にかけている時点で、既に行動原理が変化しているのだ。

 かつての「他人への無関心」という絶対的な壁が崩れ、そこに「エレナとなら、まあ悪くないか」という妥協点セキュリティホールが生まれている。


「⋯⋯ね? いいでしょ? 私の背中も流してあげるからさ!」


 エレナが身を乗り出してくる。

 近い。相変わらず距離感がバグっているものの、その至近距離の笑顔を見ても以前のような「鬱陶しい」という感情が不思議と湧いてこない。

 むしろ「断ったら、こいつは一人でも行こうとして遭難するんじゃないか」という保護者的な懸念すら浮かんでくる。


(⋯⋯毒されたな、私も)


 ノアは小さく息を吐いた。

 自分の変化を認めざるを得ない。

 この席に二つのグラスがあるのが当たり前になったように。

 この騒がしい声が耳鳴りではなくBGMになったように。

 ノアの日常は、不可逆的に侵食されてしまったのだ。


「⋯⋯移動は」

 ノアが口を開く。


「へ?」

「⋯⋯馬車の手配はお前がやれ。宿の予約もだ。私は当日、荷物を持って座っていること以外、一切何もしない」

 それは実質的な降伏宣言だった。


「ほんと!? やったー!! 任せて! 最高の宿を取るから!」


 エレナがガッツポーズをして飛び跳ねる。

 周囲の冒険者たちが「お、またあのコンビか」「仲いいなぁ」と生温かい視線を送ってくるのが分かった。

 双璧のパートナー。

 王城でつけられた恥ずかしい二つ名が、じわじわと定着しつつある。


(⋯⋯まあ、いいか)


 ノアは残りのジュースを吸い込んだ。

 甘い。以前よりも、少しだけ甘く感じるのは気のせいだろうか。


 温泉か。

 たまには広い湯船で手足を伸ばして、何も考えずに空を見上げるのも悪くないかもしれない。

 隣でうるさいのが騒いでいるだろうが、それもまた一興。


「あ、そうだノアちゃん! 温泉って混浴もあるらしいよ!」

「⋯⋯それは断る。絶対だ」

「ちぇーっ」


 最強の少女の日常は、これからも平穏とは程遠い場所にあるようだ。

 それでも断る隙を与えてくれない彼女がいる限り、退屈することだけはなさそうだと、ノアは密かに悟っていたのだった。

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