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第9話「英雄とパートナー」(前半)


 風邪というデバフ状態から回復したノアを待っていたのは、平穏な日常ではなく、更なる高難易度クエストだった。


 病み上がりの朝。

 体温は平熱に戻り節々の痛みも消え、完全復活を遂げたノアは久しぶりに爽快な気分で二度寝を貪ろうとしていた。

 しかし運命(と書いてエレナと読む)はそれを許さない。


「ノアちゃん! 大変! すごいのが届いたよ!」


 バタンッ!

 リビングのドアが開く音と共に、いつもの騒音発生源が飛び込んできた。

 エレナの手には仰々しい封蝋がされた一通の封筒が握られている。


 紙質からして違う。羊皮紙ではなく最高級のヴェラム紙だ。

 縁には金箔があしらわれ、中央には王家の紋章である「双頭の鷲」が刻印されている。


(⋯⋯嫌な予感しかしない)


 ノアの生存本能が即座に「危険物」と認定した。

 あれは爆弾、そう平穏な生活を木っ端微塵に吹き飛ばす、社会的責任という名の爆弾だ。


「見て見て! 王城からだよ! 王様からの招待状!」


 エレナが興奮して鼻息を荒くしている。

 ノアは布団を頭まで引き上げ、ダンゴムシのように防御姿勢をとった。


「⋯⋯いない」

「いるでしょ! さっき起きてあくびしてたの見たよ!」


 布団が剥ぎ取られる。

 朝の冷気と共に逃れられない現実が顔を覗かせた。


「『東の森のスタンピードを鎮圧せし英雄殿へ』だって! ノアちゃんのことだよ! 明日の夜、王城で開かれる祝勝パーティーにご招待します、だって!」


 英雄――ノアが最も忌み嫌う言葉ランキングの堂々一位だ。

 英雄とは他人の期待という鎖に繋がれ「世界のために」という美名のもとに無償労働を強いられる社畜の別名である。


(⋯⋯断る)


 ノアは瞬時に決断した。行く理由がない。

 王城? 堅苦しい礼儀作法、貴族たちの腹の探り合い、意味のない挨拶回り。

 想像するだけで精神力が削がれていく。

 そんな場所に行くくらいなら、ドブ川の掃除をしていた方がまだマシだ。


「⋯⋯行かない」


 ノアは短く告げ、再び枕に顔を埋めた。


「ええっ!? なんで!? 王城だよ? お城に入れるんだよ!?」


「⋯⋯面倒くさい。服がない。マナーを知らない。体調が悪い。⋯⋯帰れ」


 ありとあらゆる言い訳を羅列する。

 特に最後の一つは重要だ。病み上がりという最強の免罪符がある。

 まだ微熱があるかもしれない。いや、あることにしよう。

 私は重病人だ。絶対安静が必要なのだ。


「むぅ⋯⋯ノアちゃんってば、またそうやって殻に閉じこもるんだから」


 エレナが腰に手を当てて溜息をつく気配がした。

 諦めろ。私はテコでも動かないぞ。

 布団こそが我が城塞。ここから一歩でも外に出れば負けだ。


 しかしエレナという少女は、ただのポジティブ馬鹿ではない。

 彼女はノアという生物の生態を、この短期間で恐ろしいほど正確に把握しつつあった。


「そっかぁ⋯⋯残念だなぁ」


 エレナがわざとらしく大きな声を出す。


「招待状の追伸にね『当日は王国最高峰のシェフによる、特別フルコースをご用意しております』って書いてあるのになぁ」


 ピクリ。

 布団の中でノアの耳が反応した。


「前菜は『幻の深海魚のカルパッチョ』スープは『黄金コンソメ』メインは⋯⋯えっと『A5ランク・ドラゴン牛のローストステーキ・トリュフソース添え』だって!」


(⋯⋯ドラゴン牛?)


 聞いたことがある。

 一頭から数キロしか取れない希少部位を持ち、口に入れた瞬間に溶けるという伝説の肉。

 市場に出回れば金貨百枚は下らないという、食材の王様だ。


「デザートは『天空の果実を使ったミルフィーユ』だって。しかもビュッフェ形式で食べ放題なんだってさー。あーあ、もったいないなぁ」


 食べ放題――その甘美な響き。

 ノアの脳内で天秤が激しく揺れ動いた。

 『面倒くさい王城での社交』対『一生に一度食えるかどうかの極上フルコース』。


 ノアの胃袋が主人の意思を無視してギュルルと鳴いた。

 裏切り者め。だがノア自身も抗えなかった。

 最近のエレナの手料理によって「食の悦び」を知ってしまったノアにとって、王城のフルコースという餌は、あまりにも強力すぎたのだ。


「⋯⋯肉」

 布団から、ボソリと声が漏れた。


「ん? なぁに?」

「⋯⋯柔らかいのか」

「そりゃあもう! 噛まなくても飲めるくらい柔らかいって噂だよ!」


 噛まなくていい。

 つまり、咀嚼のカロリーすら節約できる究極の流動食。


(⋯⋯負けた)


 ノアは敗北を認めた。

 食欲という名の原罪に理性が屈服した瞬間だった。

 たかが一晩、一晩だけ貴族のふりをして肉を食い荒らして帰ってくればいい。

 そう自分に言い聞かせ、ノアはのっそりと布団から這い出した。


「⋯⋯行く」

「やったー! そう来なくっちゃ!」

 エレナがガッツポーズをする。

 その笑顔の裏に、さらなる地獄が待ち受けていることを、ノアはまだ理解していなかった。



          * * *



「⋯⋯苦しい」


 当日、ノアは鏡の前でこの世の終わりのような顔をしていた。


 そこには、いつものジャージ姿の陰気な少女はいなかった。

 代わりに映っていたのは深い夜空色ミッドナイトブルーのドレスに身を包んだ、見知らぬ美少女だった。


 艶やかな黒髪は丁寧に編み込まれてアップにされ、首筋の白さが際立っている。

 ドレスはオフショルダーでノアの華奢な鎖骨を露わにしていた。

 腰回りはコルセットで締め上げられ、スカートはふんわりと広がっている。

 素材はシルク。装飾は控えめだが、それがかえってノアの素材の良さを引き立てていた。


 客観的に見れば深窓の令嬢。あるいは夜の女神の化身といったところだが主観的に見れば、ただの拘束具をつけた囚人だった。


「⋯⋯呼吸が、浅い」


 コルセットが肋骨を締め付けるせいで肺が十分に膨らまない。

 酸素供給量が低下し、思考能力が鈍る。

 これは拷問器具か?

 貴族の女たちは、こんなものを毎日身につけて戦場(社交界)に赴いているのか?

 正気の沙汰ではない。


「我慢我慢! これでも緩めにしたんだから!」


 背後でエレナが甲斐甲斐しくリボンの位置を調整している。

 彼女自身は、明るいレモンイエローのドレスを着ていた。

 元気で活発な彼女によく似合っている。


 ちなみにこれらのドレスはエレナが「大家さんの奥さんの若い頃のやつ借りてきた!」とのことだ。

 大家の奥さん昔はどれだけスタイルが良かったんだ。そしてエレナ、お前の交渉能力はどうなっているんだ。


「すごいよノアちゃん! やっぱり素材がいいから磨けば光るね! お人形さんみたい!」

「⋯⋯人形の方がマシだ。痛みを感じないからな」


 ノアは恨めしげに鏡を睨んだ。

 足元にはヒールの高い靴。

 これでは走ることもできない。

 緊急時に逃走する能力を著しく制限されている。


「ほら、もっと背筋伸ばして! 猫背になってるよ!」


 パシッ、と背中を叩かれる。

 強制的に姿勢を正されるとさらにコルセットが食い込む。


「⋯⋯帰りたい」


 まだ家を出てすらいないのに、ノアの帰巣本能が警報を鳴らしていた。

 とはいえエレナによって化粧を施され、唇には淡い紅を引かれている。

 ここまで準備して「やっぱりやめた」は通用しない。

 何より、あの「ドラゴン牛」への執着だけがノアを辛うじて立たせていた。


「よし、完璧! さあ行こうノアちゃん! 馬車も呼んであるから!」


 馬車まで手配済みだと? わずか一日でどれだけの手回しをしたというのか。

 この行動力を少しでも「空気を読む」ことに使ってくれれば、私の人生はもっと平穏だったはずなのに。


「⋯⋯はぁ」


 ノアは深く、しかしコルセットのせいで短くしか吐けない溜息をついた。

 ドレスの裾を持ち上げる。重い。まるで鉄の鎧を着ているようだ。


 エレナに手を引かれ、ノアはドナドナされる子牛のようにアパートを出た。

 目指すは王城。


 待っているのは極上の肉か、それとも面倒な人間関係の泥沼か。

 最強の少女は慣れないヒールでよろめきながら、戦場への第一歩を踏み出した。

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