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第8話「看病という名の拘束」(後半)


 部屋に、シュル、シュル⋯⋯というリズミカルな音が響いている。

 エレナがナイフで林檎の皮を剥いている音だ。

 お粥を食べさせられ(強制給餌)、薬を飲まされ(強制投与)、水分補給をさせられた(強制吸水)ノアは、今や完全に満腹状態で布団の芋虫と化していた。


 満腹になると人は眠くなる。

 病人はなおさらだ。

 熱に浮かされた頭はぼんやりとして思考の輪郭が曖昧になっていく。

 窓の外から差し込む午後の日差しが部屋の埃をキラキラと照らしている。

 平和だ。昨日のドラゴンの咆哮や魔獣の断末魔が嘘のような穏やかな時間。


 シュル⋯⋯。不意に皮を剥く音が止まった。


「⋯⋯ねえ、ノアちゃん」


 エレナの声がいつもよりワントーン低く響いた。

 背中を向けたまま、彼女は手元の林檎を見つめているようだ。


「⋯⋯昨日は、ありがとうね」


 しんみりとした空気が流れる。

 ノアは閉じていた目を薄っすらと開けた。

 いつものハイテンションな彼女らしくない声色で空気が重く湿っぽい。


 この手の真面目なトーンは苦手だ。どう反応していいか分からないしカロリーを使う。

 寝たふりを決め込もうか⋯⋯そう思ったが、エレナの肩が小さく震えているのが見えてノアは視線を逸らせなくなった。


「私⋯⋯本当は、すごく怖かったんだよ」


 ポツリと、雫が落ちるような言葉だった。


「魔獣に囲まれた時も怖かったけど⋯⋯ドラゴンが出た時、ノアちゃんが空に飛んでいくのを見て、もっと怖くなったの」


 エレナがナイフを置く。

 カチャン、と小さな音が静寂に染みる。


「ノアちゃんは強いけど⋯⋯でも、もしあそこでノアちゃんがいなくなっちゃったらどうしようって。私、足手まといなだけじゃなくて、ノアちゃんを危険に巻き込んじゃったんじゃないかって⋯⋯」


 彼女の声が濡れていた。

 いつもの「ポジティブモンスター」の仮面が剥がれ、ただの年相応の少女の弱音が漏れ出している。

 無理もないと思う。死の淵を覗いたのだ。

 その直後は興奮状態で麻痺していても一晩経って冷静になれば、恐怖が遅れてやってくる。

 PTSD(心的外傷後ストレス障害)の一歩手前かもしれない。


(⋯⋯面倒くさいな)


 ノアは心の中で独りごちた。

 ここで「そんなことないよ」と慰めるのは簡単だがそれはノアのキャラではないし、何より言葉を紡ぐのが億劫だ。

 しかし、このまま彼女が自己嫌悪のループに陥れば、今後の「便利な相棒ライフ」に支障が出るかもしれない。

 それは困る。

 彼女にはこれからも元気に掃除洗濯料理を担当してもらわねばならないのだから。


 ノアは布団の中で身じろぎした。

 喉が痛い。熱で乾いた喉に声を出すという行為は、やすり掛けをするような痛みを伴う。


 だが目の前の背中は今にも折れそうに小さく見えた。

 昨日の帰り道、自分を背負ってくれた時には、あんなに大きく頼もしく感じたのに。


(⋯⋯一言だけだ)


 ノアは自分に言い訳をした。

 これは慰めではない。事実確認だ。

 彼女のネガティブな妄想を事実というナイフで断ち切るだけの作業だ。


「⋯⋯おい」


 しわがれた声が出た。

 エレナがビクッとして振り返る。

 その目は赤く、涙が溜まっていた。


「⋯⋯あ、ご、ごめんね! 起こしちゃった? 辛いよね、静かにするね⋯⋯」


 エレナが慌てて涙を拭おうとする。

 ノアはそれを遮るように、ボソッと言葉を吐き捨てた。


「⋯⋯生きてるだろ」

「え?」

「⋯⋯お前も、私も。⋯⋯五体満足で、ここにいる」


 ノアは視線を天井に向けたまま、淡々と続けた。


「⋯⋯結果が全てだ。⋯⋯たらればの話なんて、するだけ無駄だ」


 冷たい言い方かもしれないがノアなりの精一杯の肯定だった。

 危険だった? 巻き込んだ? そんなプロセスはどうでもいい。


 今、ここでこうして林檎を剥き、お粥を食べ、暖かい布団で寝ている。

 その事実があるなら、それ以上何を悩む必要があるのか。

 最強の少女の生存哲学は至ってシンプルで、どこまでいっても合理的だった。


「⋯⋯大丈夫だったろ。⋯⋯今までも、これからも」


 最後の一言は、ほとんど独り言のような音量だった。

 しかし――「これからも」――無意識に出たその言葉にノア自身が驚いた。


 なぜだろうか未来の話をしてしまった。

 「これからも(お前が私の世話をするんだろ)」という意味だったのか、それとも別の意味なのか。

 熱のせいで思考がまとまらない。


 数秒の沈黙。

 エレナはポカンと口を開け、瞬きを繰り返していた。

 ノアの言葉を脳内で反芻し、咀嚼し、そして彼女特有のポジティブ変換回路を通した結果――。


「⋯⋯うんっ!!」


 エレナの顔が、くしゃりと歪んだ。

 それは悲しみの表情ではなく安堵と歓喜が爆発したような、極上の泣き笑いだった。


「うん⋯⋯っ! そうだよね! 生きてるもんね! ノアちゃんと一緒に、ここにいるもんね!」


 タタッ、と足音が近づく。

 嫌な予感がする間もなかった。


「ノアちゃぁぁぁぁんっ!!」


 ドサッ!!


 エレナが布団の上からダイブしてきた。

 強烈な抱擁――いや、これはプロレス技のボディプレスに近い。

 簀巻きにされたノアには回避行動はおろか、防御姿勢を取ることすら許されない。


「ぐぇ⋯⋯っ」


 変な声が出た。

 重い。そして熱い。

 エレナの体温と涙の湿り気と感情の重みが布団越しにのしかかる。


「ありがと⋯⋯! ありがとうノアちゃん! 大好きだよぉぉぉ!」


 耳元で叫ばれる愛の告白が頭蓋骨に響く。

 熱で敏感になっている聴覚には拷問に近い。

 それに、これでは「絶対安静」どころか「絶対圧迫」だ。


(⋯⋯暑い)


 ノアは心の中で悲鳴を上げた。

 ただでさえ発熱しているのに外部熱源エレナが密着したことで、体感温度はサウナレベルに上昇している。

 これでは熱が下がるどころか、茹でダコになってしまう。


「⋯⋯離れろ。⋯⋯熱が上がる」

「えへへ、ごめん! でも離れない! 嬉しくて離れられないよー!」


 エレナはノアの胸元に顔を埋め、子供のようにスリスリと甘えてくる。

 普段なら、魔力障壁を展開してでも弾き飛ばすところだ。

 あるいは「ウザい」と一蹴して冷淡にあしらうところだ。


 しかしノアの手は布団の中で動かなかった。

 動かせないのではない。動かそうとしなかったのだ。


 エレナの髪から漂う林檎の香りが、不思議と落ち着く。

 その重みが、自分が「生きている」という実感を与えてくれるような気がした。

 孤独な静寂よりも、この騒がしい温もりの方が、今の弱った体には薬になるのかもしれない。


(⋯⋯はぁ)


 ノアは諦めの溜め息をついた。

 抵抗するのはやめだ。

 今はただ、この嵐が過ぎ去るのを待つように、されるがままになっていよう。

 どうせ熱で頭が回らないのだ。

 合理的な判断など、明日の自分に任せればいい。


「⋯⋯今回だけだぞ」


 ノアがボソリと呟くと、エレナは「うん!」と元気よく返事をした。

 その声には完全に元気を取り戻した響きがあった。


 窓の外、太陽が傾き、部屋の中が茜色に染まっていく。

 最強の少女と最愛(?)の相棒。


 二人の体温が混ざり合い、微熱はゆっくりと、心地よい微睡みへと変わっていった。

 ノアの風邪が治るのは、もう少し先のことになりそうだ。

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