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第8話「看病という名の拘束」(前半)


 最強の肉体を持つ少女、ノアにも弱点は存在する。

 それは物理攻撃でも、精神魔法でも、即死級の呪いでもない。

 もっと根源的で抗いようのない生理現象――すなわち『環境の変化によるストレス』である。


 朝。

 いつものように目覚めたノアは世界の重力が三倍になっているのを感じた。

 瞼が鉛のように重い。喉が砂漠のように乾いている。

 そして何より、体温が平熱より確実に二度ほど高い。


(⋯⋯バグだ)


 ノアは布団の中で確信した。これはシステムエラーだ。

 昨日、東の森へ走り転移魔法を使い、ドラゴンをデコピンで宇宙へ射出し、エレナにおんぶされて帰宅する。

 その一連の行動における総消費カロリーが、ノアの許容キャパシティを大幅にオーバーフローしたのだ。

 俗に言う「知恵熱」あるいは普段動かない機械を急にフル稼働させたことによるオーバーヒート。


(⋯⋯動けない)


 指一本動かすコストが、山を一つ消し飛ばすコストよりも高く感じられる。

 最強の魔力障壁も体内のウイルス(あるいは単なる疲労物質)には無力だった。


 このままでは、トイレに行くことすら一大決心が必要になる。

 水分補給をしたいが水筒は枕元の上だ。手を伸ばすには布団から腕を出し、筋肉を収縮させなければならない。

 無理だ。今のノアにとって、それは大陸横断に匹敵する重労働だった。


 ガチャリ。


 その時、玄関の鍵が開く音がした。

 絶望のファンファーレ、このタイミングで現れる人物など世界に一人しかいない。


「ノアちゃーーーん!! 大丈夫!? 生きてる!?」


 ドタドタドタッ!

 騒がしい足音と共に台風が上陸した。

 リビングのドアが勢いよく開かれ、両手に買い物袋を提げたエレナが飛び込んでくる。


「ハァ、ハァ⋯⋯! 朝ごはんまだ食べてないよね? 昨日は作っておいたシチューは食べられた?」


 エレナは枕元に滑り込み、ノアの顔を覗き込んだ。

 心配と焦燥で歪んだ顔。額には汗が滲んでいる。

 ノアは虚ろな目でそれを見返した。

 うるさい。声が頭に響く。

 ボリュームを下げろ。ミュートボタンはどこだ。


「⋯⋯水」


 ノアは掠れた声で、生命維持に必要な物資を要求した。


「ひっ! 顔が赤い! すごい熱!」


 エレナはノアの額に自分の額をペタリと当てた。

 ひんやりとした感触、距離が近すぎる。睫毛が触れそうだ。


「あっちっちだ! これ絶対、昨日の無理がたたったんだよ! ノアちゃん疲れてそのまま、寝ちゃったから帰ったけど、こんなことなら一緒にいればよかった⋯⋯!」


 エレナの瞳に涙が溜まっていく。罪悪感の塊だ。

 違う。これはただの運動不足による筋肉痛と発熱のコンボだ。お前のせいと言えばそうだが直接的な原因は私の虚弱な基礎体力だ。

 そう説明したいが口を開くのが億劫で、ノアは再び目を閉じた。


「ごめんねノアちゃん⋯⋯! でも安心して! 私が責任を持って治すから! お母さん直伝の看病スキル、全開放するからね!」


 嫌な予感がした。

 看病スキル。

 それは聞こえはいいがエレナの場合「過剰なお世話」と同義語だ。


「まずは熱を下げなきゃ! これ貼るね!」


 ペチンッ!


「⋯⋯っ!?」


 額に衝撃が走った。

 冷たい。いや、痛いほど冷たい。

 冷却ジェルシートだ。

 冷蔵庫でキンキンに冷やされていたのだろう、熱を持った額には劇薬に近い刺激だった。

 ノアが驚いて目を見開くと、エレナは既に次の行動に移っていた。


「寒気する? 布団蹴飛ばしちゃダメだよ! 動かないように固定するね!」


 バサァッ!

 エレナは予備の毛布を取り出すとノアの上から覆い被せた。

 それだけではない。彼女は手際よく布団の端を折り込みノアの体の下に潜り込ませていく。


 右、左、足元。

 慣れた手つきだ。まるで赤ん坊をおくるみで包むかのような、あるいは簀巻きにして川に沈める前のような、完璧な拘束術。


(⋯⋯ちょっと待て)


 ノアは抵抗しようとしたが布団の圧力と自らの倦怠感がそれを阻む。

 あれよあれよという間にノアは「布団の筒」の中に閉じ込められた芋虫と化した。

 手足が出せない。

 首から上しか動かない。

 完全なるロックダウン。


「よし! これで保温はバッチリだね! 汗かけばすぐ治るよ!」


 エレナは満足げに頷き、腕まくりをした。


「次はお薬と栄養補給だね! お粥作ってきたから! 特製卵粥!」


 保温容器ジャーの蓋が開けられる。

 ふわぁ、と湯気が立ち上り、出汁の優しい香りが部屋に充満した。

 確かにいい匂いだ。空腹の胃袋が反応する。


 だが問題はその摂取方法、ノアの両手は布団の中で封印されている。

 つまり自力で食べることは不可能。


 エレナがスプーンにお粥をすくい、ふーふーと息を吹きかける。

 そして慈愛に満ちた(狂気的なまでの)笑顔で言った。


「はい、あーん!」

「⋯⋯」


 ノアは唇を真一文字に結んで拒絶の意思を示した。

 いくら自堕落を自認するノアといえども屈辱的な扱いだ。

 最強の冒険者が簀巻きにされて強制的に「あーん」されるなど。

 これでは看病ではなく尊厳の破壊に等しい。


「あれ? 食べたくない? でも食べなきゃ治らないよ? それとも、熱すぎて食べられないのかな? もっとふーふーする?」


 エレナは勘違いの方向にアクセルを踏み込む。

 違う。そうじゃない。

 手を出させて、起こせと言っているのだ。


「⋯⋯手」

「手? ダメだよ出しちゃ! 冷えちゃうでしょ!」


 却下された。エレナの理論武装は鉄壁だ。

 患者の健康を第一に考えるあまり、患者の人権を無視していることに気づいていない。


「ほら、美味しいよ? 私の自信作! 口開けて、ノアちゃん。んー?」


 スプーンが唇に押し当てられる。

 逃げ場はなかった。顔を背けようにも枕の左右にはエレナが配置した大量のクッションが壁となって立ちはだかっている。

 退路は断たれた。


(⋯⋯面倒くさい)


 ここでの抵抗にかかるカロリーとプライドを捨てて口を開くカロリー。

 計算するまでもない。

 今のノアに、エレナの波状攻撃を防ぎ切る体力は残されていないのだ。


 ノアは諦めのため息と共に、小さく口を開けた。


 パクッ。


 口の中にトロトロに煮込まれた米と卵の甘みが広がる。

 塩加減が絶妙だ。

 生姜が少し効いていて、弱った体に染み渡る。

 悔しいが、美味い。

 プロの犯行だ。


「美味しい? よかったぁ! じゃあどんどん食べてね! いっぱいあるから!」


 エレナのテンションがさらに上がり次々と運ばれてくるスプーン。

 咀嚼し、飲み込むだけの機械と化したノア。

 これは飼育だ。野生動物としての誇りを奪われ、安寧という名の檻に閉じ込められているのだ。


(⋯⋯まあ、悪くはない)


 布団は温かいしお粥は美味い。

 額の冷却シートは気持ちいい。

 そして何より何も考えなくていい。

 上げ膳据え膳、究極の怠惰な生活がここにあった。


 ノアは、とろんとした目でエレナを見上げた。

 彼女の献身は確かに鬱陶しいが、その鬱陶しさが今は心地よい微睡みを誘う。

 ドラゴンと戦うよりも、このポジティブな嵐の中でじっとしている方がよほど平和な気がした。


「あ、口の端についちゃった。とってあげるね」


 エレナが指でノアの唇を拭う。普段なら間髪を容れずに払い除けるところだが、今はその指の温かさすら受け入れる。

 堕落だ。

 完全に堕落させられている。

 最強の少女はスプーン一杯のお粥に敗北し、看病という名の拘束に身を委ねるのであった。

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