第7話「最強の不機嫌」(後半)
空に輝く一番星。
それがつい数秒前まで生態系の頂点に君臨していたドラゴンであるという事実を知る者は、この場に二人しかいない。
いや正確には「正しく認識している者」は一人しかいないかもしれない。
「すっごーい⋯⋯!」
エレナが空を見上げ、うっとりとした声を漏らした。
その瞳には恐怖も混乱も映っていない。
あるのは花火大会のクライマックスを見届けた少女のような、純粋無垢な感動だけだ。
「キラキラって! 流れ星みたいだったね! あんな大きなドラゴンさんを、お星様にしちゃうなんて!」
(⋯⋯お星様にしたんじゃない。物理的に射出したんだ)
ノアは心の中で訂正するが、口には出さない。
説明したところで、このポジティブモンスターの脳内フィルターを通せば、すべてがファンタジックに変換されてしまうからだ。
「ノアちゃんってば、意外とロマンチストなんだね!」
エレナが顔を輝かせて振り返る。
「ただ倒すんじゃなくて、夜空の彼方へ送ってあげるなんて! まるで童話の結末みたい! 粋だねえ、相棒!」
(⋯⋯解釈の飛躍が凄まじい)
ノアは呆れを通り越して感心すら覚えた。
今の行為は、どう見ても「過剰防衛」あるいは「動物虐待」の類だ。
邪魔だから排除した。うるさいから黙らせた。
そこにロマンのかけらもない。あるのは純度一〇〇%の利己的な殺意だけだ。
だというのにエレナにかかれば、それすらも「粋な計らい」になるらしい。
この女の精神構造こそが、ドラゴンよりもよほど最強なのではないか。
「⋯⋯ん。まあ、そう」
否定するのも面倒になり、ノアは適当に肯定した。
どうせ死体(厳密には生きて宇宙を漂っているかもしれないが)は残っていない。
これ以上、あのトカゲについて語ることはない。
緊張の糸が切れると、ドッと疲れが押し寄せてくる。
肉体的な疲労ではない。
ノアの肉体は規格外の魔力で強化されているため、ドラゴンをデコピンした程度で筋肉痛になったりはしない。
問題は精神だ。
ギルドでのサイレン。
面倒な事務手続きへの恐怖。
転移魔法による三半規管へのダメージ。
ドラゴンの騒音公害。
そして何より、エレナのハイテンションな絡み。
今日のノアは一年分に相当する「やる気」を前借りして消費してしまった気分だった。
脳が糖分を求めている。
思考回路がショート寸前だ。
ふらり、と足元が揺れた。
ぬかるんだ泥に足を取られる。
「⋯⋯っと」
踏ん張ろうとしたが、膝に力が入らない。
そのまま泥の中にダイブする――その直前。
「あぶないっ!」
ガシッ。
温かい腕がノアの体を支えた。
エレナだ。
彼女自身も満身創痍のはずなのに、相棒の危機には反射的に体が動くらしい。
「大丈夫!? 顔色が真っ白だよノアちゃん! やっぱり無理させちゃったんだね⋯⋯ごめんね!」
エレナの顔が至近距離にある。
泥と汗で汚れているが、その瞳は真剣にノアを案じていた。
無理をしたつもりはない。ただ不機嫌だっただけだ。
そう説明する気力もない。
「⋯⋯歩くのが、面倒だ」
ノアは正直な感想を漏らした。
ここから街まであと数キロ。
歩数にして数千歩。
その一歩一歩が、今のノアには果てしない苦行に思えた。
するとエレナはニカッと笑い、くるりと背中を向けた。
そしてその場にしゃがみ込む。
「乗って!」
「⋯⋯は?」
「おんぶ! ここまで来てくれたんだもん、帰りは私が運ぶよ! 任せて、こう見えても力持ちなんだから!」
エレナが背中を叩く。ノアは眉をひそめた――おんぶ。
それは幼児か、負傷者がされる行為だ。
最強の冒険者(Fランクだが)たる自分が、新米の小娘に背負われて帰還するなど、プライドが許さない――と、普通の主人公なら思うだろう。
ノアは一味違った。彼女の脳内天秤が瞬時に計算を弾き出す。
『プライドを守って自力で歩くコスト』対『プライドを捨てて楽をするコスト』。
結果は明白、考えるまでもない。
プライドなど犬に食わせてしまえ。
「⋯⋯ん」
ノアは遠慮なく、エレナの背中に倒れ込んだ。
抵抗ゼロ、重力をすべて相手に預ける完全なる依存の体勢。
「よしっ、よいしょー!」
エレナが掛け声と共に立ち上がる。
視点が高くなり揺れが伝わる。しかし意外なほど安定していた。
ザッ、ザッ、ザッ。
泥を踏む足音が一定のリズムで響く。
エレナの背中は小さかったが、不思議なほど温かかった。
汗の匂いがする。土の匂いがする。
本来なら不快なはずのその匂いが、なぜか今は嫌ではなかった。
「重くないか?」
ノアが耳元でボソリと聞く。
「全然! ノアちゃん軽すぎるよ! ちゃんとご飯食べてる? 今日帰ったら特盛シチュー食べさせるからね!」
エレナは息を切らす様子もなく、明るい声で返してくる。
その声の振動が背中越しにノアの胸に伝わってくる。
心地よい振動だ。ゆりかごのような、あるいは大型犬の背中に乗っているような安心感。
「あ、そうだ! キノコシチューには隠し味でバターを入れると美味しいんだよ! あとね、お肉も奮発していいやつ使っちゃおうかな!」
エレナは歩きながら、夕食のメニューについて楽しそうに語り始めた。
ドラゴンを消し飛ばした直後に、夕飯の話。
その圧倒的な「日常感」に、ノアの張り詰めていた神経がほぐれていく。
(⋯⋯ああ、そうか)
ノアはエレナの肩に顎を乗せた。
この背中は最強の盾ではないかもしれないが、最強のクッションではあるようだ。
どんな非日常も、どんな暴力的な現実も、この背中にあるポジティブなオーラが吸収し、ただの平和な日常へと変換してしまう。
「⋯⋯ノアちゃん? 聞いてる?」
「⋯⋯聞いてる」
嘘だ。もう内容は頭に入っていない。
ただ、その声が子守唄のように意識を溶かしていく。
瞼が重い。
世界が暗転していく。
(⋯⋯悪くない)
ノアは心の中で、誰にともなく言い訳をした。
この騒がしい相棒に背負われるのも、たまには悪くない。
どうせ明日には筋肉痛になったエレナに「マッサージして!」とせがまれる未来が見えているが、今は考えないことにしよう。
「⋯⋯おやすみ」
ノアの口から、寝息にも似た小さな言葉が漏れた。
エレナは一瞬だけ足を止め、背中の軽くなった重みを確認するように優しく微笑むと、再び歩き出した。
星空の下。泥だらけの二人の影が長く伸びて重なっている。
最強の少女は今日、初めて安らかな顔で眠りについた。
その寝顔は伝説の魔神などではなく、ただの年相応の少女のものだった。




