第7話「最強の不機嫌」(前半)
冒険者にとって、クエストの完了とは何を意味するか。
報酬の獲得? 名声の向上? 自己の成長?
否――ノアにとってそれは「帰宅許可証」の発行と同義である。
東の森からの帰り道。
夕焼けが空を毒々しいほどの赤紫に染めていた。
足元の道はぬかるみ、歩くたびにグチャ、グチャと不快な音がする。
靴底に泥がまとわりつく感覚は、ノアの精神的HPを着実に削っていた。
「ねえねえノアちゃん! さっきの魔法、本当にすごかったね! 指パッチンでドカーンって! 地面がボコーンって!」
隣を歩くエレナは、泥だらけの顔を輝かせながら、擬音語だらけの言語で興奮を伝えてくる。
彼女の辞書に「疲労」や「トラウマ」という文字はないらしい。
数分前まで死にかけていたとは思えないハイテンションぶりだ。
「あれって重力魔法だよね? 私、魔法大全で読んだことある! でもあんな規模のって、宮廷魔導師様でも無理なんじゃ⋯⋯あ、もしかしてノアちゃん、実はすごい血筋の人とか!?」
「⋯⋯ただの、一般人だ」
「またまたー! 謙遜しすぎだよー!」
エレナがノアの肩をバンバン叩く。痛くはないが、揺れるのが鬱陶しい。
(⋯⋯早く帰りたい)
ノアの思考は、その一点に集約されていた。
早くあのボロアパートに戻り、泥のついた服を脱ぎ捨て、熱いシャワーを浴びたい。
そしてエレナが作る(はずの)特製キノコシチューを食べ、泥のように眠るのだ。
そのビジョンのためだけに、ノアは重い足を動かしていた。
あと少し。
森を抜けて街道に出れば王都の城壁が見えてくるはずだ。
平穏まであと数キロ。
その距離が永遠のように長く感じられた。
――その時だった。
ザァァァァァァッ⋯⋯!
突如として猛烈な突風が吹き荒れた。
ただの風ではない。上空から叩きつけられるような質量を伴った暴風だ。
周囲の木々が弓なりにしなり、葉が千切れ飛ぶ。
「きゃあああっ!?」
エレナが悲鳴を上げてしゃがみ込む。
ノアもまた、乱れる髪を手で押さえ、不愉快そうに空を見上げた。
(⋯⋯なんだ、次は)
空が、暗かった。
夕暮れだからではない。
巨大な影が、太陽を覆い隠していたのだ。
バサァッ⋯⋯バサァッ⋯⋯。
雲を切り裂く翼の羽ばたき。それは悠に五十メートルはあろうかという巨体だった。
鋼鉄のような深紅の鱗、槍のように鋭い牙。そして万物を睥睨する金色の瞳。
生物としての格が違う。
先ほどのオークやゴブリンの群れが、ただの雑魚に見えるほどの圧倒的なプレッシャー。
「ど、どどど、ドラゴン⋯⋯っ!?」
エレナの声が裏返る。
エンシェント・レッドドラゴン。
災害級に指定される、伝説上の魔獣。
今回のスタンピードを引き起こした元凶であり、森の奥から押し出された雑魚たちの「主」が、自らのお出ましというわけだ。
(⋯⋯でかい)
ノアの感想は、それだけだった。
恐怖はない。あるのは「邪魔だ」という強烈な拒絶感だけ。
ドズゥゥゥゥン!!
ドラゴンが二人の行く手を阻むように着地した。
地響きが走り、衝撃で大量の泥が跳ね上がる。
ノアの頬にペチャリと泥がついた。
(⋯⋯あ?)
ノアの眉間がピクリと動く、顔を洗う手間が増えた。
ドラゴンは長い首をもたげ、足元の蟻を見下ろした。
自分の眷属を一瞬で全滅させた存在が何者か、確かめに来たのだろう。
その喉奥が赤く発光し、大気がビリビリと震える。
威嚇だ。王者の咆哮が、放たれる直前。
「グォォォォォォォォォォォォォォォォォォッ!!!!!」
――世界が、震えた。
それは音ではなかった。衝撃波だった。
鼓膜を引き裂かんばかりの大音量。
脳髄を直接ミキサーにかけられるような轟音。
キィィィィィィィィ⋯⋯。
咆哮が止んだ後も不快な耳鳴りが頭の中に居座り続ける。
「耳がっ⋯⋯! ノアちゃん、大丈夫!?」
エレナが耳を押さえてうずくまっている。
ノアは無表情のまま立ち尽くしていた。
しかし、その瞳の奥には先ほどの泥汚れなど比ではない、明確な殺意の炎が灯っていた。
(⋯⋯キーンって、なってる)
耳鳴りが止まない⋯⋯ひどく不快だ。最高に不快だ。
黒板を爪で引っ掻く音を一万倍にしたような不快感がノアの神経を逆撫でする。
疲れているのだ。早く帰りたいのだ。
それなのに何故このトカゲは、わざわざ目の前に現れて鼓膜へのダイレクトアタックをかましてきたのか。
「⋯⋯うるさい」
ノアが呟いた。
その声はドラゴンの鼻息にかき消される。ドラゴンは満足げに鼻を鳴らし次はブレスで焼き尽くそうと大きく息を吸い込んだ。
これ以上、無駄な時間を過ごさせる気か。
これ以上、私の帰宅時間を遅らせる気か。
(⋯⋯許さん)
ノアの足がふわりと地面を離れた。
重力操作、魔力を纏うこともなくまるでエレベーターに乗ったかのように、垂直に上昇していく。
「えっ⋯⋯ノア、ちゃん⋯⋯? 飛んでる!?」
エレナが目を見開く。
ノアは止まらずスーッ、と音もなく上昇し巨大なドラゴンの目の高さ――地上二十メートル付近で静止した。
ドラゴンが、ギョッとして目を丸くする。
まさか獲物が自ら近づいてくるとは思わなかったのだろう。
しかも、その小さな人間から発せられるオーラは、「勇者の闘志」などではなく「近隣住民の騒音苦情」のような冷たい怒りだった。
「⋯⋯静かにしろ」
ノアはドラゴンの巨大な金色の瞳を至近距離から睨みつけた。
そして右手を掲げる――拳を握り、中指を親指で弾く構え。
デコピンの体勢だ。
(⋯⋯害虫は、駆除する)
狙うはドラゴンの鼻先、最も敏感で最も生意気な鼻っ柱。
ドラゴンが本能的な恐怖を感じ取り、慌てて首を引っ込めようとした。
だが、遅い。
ノアの指は、既に解き放たれていた。
パチンッ。
乾いた音が響く。
それは、世界を終わらせるスイッチの音だった。
――ズガァァァァァァァァァンッ!!!!!
物理法則が仕事放棄した。
ノアの指先が触れた瞬間、ドラゴンの巨体がくの字に折れ曲がった。
数万トンはあるはずの質量が、まるで風船のように軽々と吹き飛ばされる。
衝撃波が空を割り、雲を散らし、ドラゴンは大気圏を突き破って一直線に彼方へと射出された。
キラーン☆
数秒後。
遥か上空、成層圏の彼方で小さな光が瞬いた。
漫画のような、美しい星空への退場劇。
あとには、突き抜けるような青空(もう夜になりかけているが)と、呆然とするエレナだけが残された。
ノアは、ゆっくりと地面に降り立った。
ふぅ、と小さく息を吐き、耳を小指でほじる。
耳鳴りは、ようやく収まったようだ。
(⋯⋯よし、静かになった)
ノアは満足げに頷き、何事もなかったかのように歩き出した。
背後で硬直している相棒に、一言だけ声をかける。
「⋯⋯おい、行くぞ。シチューが待ってる」
それが伝説級の魔獣をデコピン一発で処理した直後の、最強少女の第一声だった。




