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第6話「理不尽な危機」(後半)


 王都から東の森まで、直線距離にして約五キロ。

 全力疾走すれば一分もかからない距離だが、ノアは空中で舌打ちをした。


(⋯⋯木が、邪魔だ)


 眼下に広がるのは鬱蒼とした森。

 木々が複雑に入り組み、地面はぬかるんでいる。

 この障害物だらけの地形を高速で移動すれば、泥だらけになるのは必至だ。

 服が汚れる。洗濯の手間が増える。

 それはノアの「省エネ生活憲章」に対する重大な違反行為である。


 ならば選択肢は一つしかない。

 ノアの冒険者としての(あるいは生体兵器としての)スペックの中に、封印指定されているスキルがある。

 『空間転移魔法』――座標を指定し、空間を折り畳んで一瞬で移動する、魔導師なら誰もが憧れる最高位魔法だ。

 ただし問題がある、ノアはこの魔法が大嫌いだった。


(⋯⋯酔うんだよ、あれ)


 三半規管をミキサーにかけてシェイクされるような浮遊感。

 内臓が裏返るような不快感。使用後、数分間は続く吐き気。

 コスト(肉体的苦痛)が高い、確かに高いが⋯⋯今は背に腹は代えられない。


 泥だらけになるのと少し酔うのと、どちらがマシか。

 いや、そもそもエレナが死んで発生する「死後の事務手続き」という最大級のコストに比べれば、転移酔いなど微々たるものだ。


「⋯⋯チッ」


 ノアは空中で急停止し、自身の周囲の空間座標を書き換えた。

 ターゲット、東の森の最深部。魔素反応が最も濃い場所。

 魔力消費、度外視。

 快適性、無視。

 とにかく「今すぐ」そこに到達することだけを優先する。


「⋯⋯転移」


 ブォン。

 世界が裏返る音がした。

 景色が歪み、色彩が混ざり合い、ノアの体は物理法則を無視して消失した。



 そこは地獄だった。

 東の森の開けた場所。普段なら木漏れ日が美しい広場は、今や異形の海と化していた。

 オーク、ゴブリン、ウルフ、そしてそれらを指揮するハイオーク。

 数百、いや千に近い魔獣の群れが、獲物を取り囲んで押し寄せている。


 その中心――大岩を背にして、一人の少女が震えていた。

 エレナだ。

 彼女の装備はボロボロで愛用のショートソードは刀身の半ばで折れている。

 頬には泥と擦り傷から滲んだ血。

 足元にはそれでも守り抜いたのか、カゴ一杯の「星屑キノコ」が転がっていた。


「はぁ、はぁ⋯⋯っ!」


 エレナは折れた剣を構え、必死に虚勢を張っていた。膝は笑い、歯の根が合わない。

 ポジティブの塊である彼女も、ここに至って「死」の予感を肌で感じ取っていたのだろう。

 瞳からは涙が溢れそうになっている。


「だ、大丈夫⋯⋯私ならできる⋯⋯私は、ノアちゃんの相棒なんだから⋯⋯っ!」


 震える声で自分を鼓舞する。だが現実は非情だ。

 ハイオークが巨大な斧を振り上げ、嘲笑うような咆哮を上げた。

 終わりだ。そう思った瞬間。


 ヒュンッ。


 唐突にエレナの目の前の空間が歪んだ。

 大気が悲鳴を上げ、そこに「異物」が吐き出される。


「⋯⋯うぷ」


 現れたのは口元を押さえて青ざめた顔をした黒髪の少女――ノアだった。

 着地と同時にふらつき、あわやリバースしそうになるのを強靭な精神力で耐える。

 やはり短時間での連続転移は最悪だ。世界が回っている。三半規管が仕事をしていない。


「⋯⋯ノア、ちゃん⋯⋯?」


 エレナが信じられないものを見る目で、ポカンと口を開けた。

 幻覚だと思ったのかもしれない。

 しかしノアから発せられる「不機嫌オーラ」は、あまりにもリアルだった。


「⋯⋯多い」


 ノアは口元の手を離し、不愉快そうに周囲を見渡した。

 魔獣、魔獣、魔獣。

 視界を埋め尽くす醜悪な肉の壁。

 獣臭い息遣い。耳障りな鳴き声。


(⋯⋯なんだこの数は。バーゲンセールか)


 吐き気と苛立ちがない交ぜになり、ノアの機嫌は最底辺まで急降下していた。

 ハイオークが突然現れた乱入者に戸惑いながらも威嚇の声を上げる。

 その唾がノアの足元に飛んだ。


 プツン。


 ノアの中で、何かが切れる音がした。


「⋯⋯うるさい」


 ノアの声は低く、地を這うように響いた。

 それは叫び声ではない。ただの事実確認のような、冷徹な響き。


「⋯⋯人が気持ち悪くて耐えている時に、ギャーギャー喚くな」


 ノアは一歩、前に出た。エレナを背に庇う形になる。

 ハイオークが斧を振り下ろそうとした。周囲のゴブリンたちも一斉に飛びかかる。

 四方八方からの殺到、物理的な暴力の津波。


(⋯⋯掃除だ)


 ノアは、だらりと下げた右手を上げ、親指と中指を重ねた。

 魔力の練り上げなど不要、イメージするのはただ一つ。

 「下に落ちろ」――それだけだ。


 パチンッ。


 乾いた指パッチンの音が戦場に響いた。


 ――直後。

 世界が押し潰された。


 ズドォォォォォォォォォォォォンッ!!!!


 爆音ではない。

 それは大気そのものが悲鳴を上げ、大地が重圧に耐えかねて陥没する音だった。

 重力魔法『奈落の抱擁(グラビティ・プレス)』。

 ノアを中心とした半径百メートル以内の「敵性存在」にのみ、局所的に一〇〇倍の重力を付加する、選別式の殲滅魔法。


 一瞬だった。

 飛びかかってきていた魔獣たちは、空中で叩き落とされたハエのように地面に激突した。

 いや、激突などという生易しいものではない。

 めり込んだのだ。


 ハイオークの強靭な筋肉もゴブリンの小賢しい動きも、すべて等しく「肉のシミ」へと変換された。

 骨が砕け、内臓が破裂する音すら聞こえない。

 圧倒的な重圧が、断末魔ごと彼らをペラペラに圧縮したからだ。


 3秒後⋯⋯砂煙が晴れると、そこには異様な光景が広がっていた。

 ノアとエレナが立っている場所だけが孤島のように残り、その周囲の地面は数メートルほど均一に沈下していた。

 そしてその底には、かつて魔獣だったものが、まるで道路のアスファルトの一部のように平面的にへばりついていた。


 全滅。生存者ゼロ。

 数千の軍勢が、たった一回の指パッチンで、ただの有機肥料になったのだ。


「⋯⋯ふぅ」


 ノアは吐き気を抑えるように息を吐き、パンパンと手を払った。

 静かになった。あまりにも静かすぎて、耳がキーンとする。

 これでいい。

 事務手続きの原因(エレナの死)は排除され、騒音源(魔獣)も消去された。

 完璧なソリューションだ。


「⋯⋯え、えぇ⋯⋯?」


 背後で腰を抜かしたままのエレナが声を漏らす。

 彼女は自分の周りで何が起きたのか理解できていない様子で、キョロキョロと陥没した地面を見回している。

 無理もない。常人の理解を超えた現象だ。


 ノアはゆっくりと振り返り、まだ震えているエレナを見下ろした。

 そして、いつもの気だるげな声で言った。


「⋯⋯帰るぞ」

「え? あ、うん⋯⋯帰る⋯⋯けど⋯⋯」


 エレナは混乱の極みにあった。

 助かった。それは分かる。

 でも、どうやって? ノアちゃんが指を鳴らしたら、みんな地面とお友達になった? 魔法? 神の奇跡?


「⋯⋯あの、ノアちゃん? 今のって⋯⋯」

「⋯⋯腹が減った」


 ノアはエレナの質問を遮った。これ以上の説明は面倒だ。


「⋯⋯夕飯の時間だと言っただろう。キノコシチューを作るんじゃなかったのか」


 そう言ってノアは顎でカゴをしゃくった。

 そこには奇跡的に無傷で残った星屑キノコが入っている。


 エレナは瞬きをした。涙で濡れた瞳でノアを見る。

 そして状況の異常さよりもノアの言葉の意味を――「夕飯のために助けに来てくれた」という(都合のいい)解釈を優先させた。


「⋯⋯うん! うん!! 作るよ! 世界一美味しいシチュー作るよ!!」


 エレナは涙を拭い、泥だらけの顔で太陽のような笑顔を咲かせた。

 立ち上がろうとして足がもつれてよろける。

 ノアはため息をつき、無言で手を差し伸べた。


「えへへ、ありがとノアちゃん。⋯⋯手、温かいね」

「⋯⋯黙れ。さっさと歩け」

「あ、でも待って! 鍵! 家の鍵落としちゃったかも!」


 エレナが慌ててポケットを探る。

 ノアの顔が引きつった。

 まさか、この魔獣のミンチの海の中から、小さな鍵を探し出せというのか?


「あ、あったー! よかったー!」


 エレナがポケットの奥から鍵を取り出し、掲げて見せる。

 ノアは全身の力が抜けるのを感じた。

 今日一番の安堵だったかもしれない。


「⋯⋯はぁ」


 深い深いため息をつき、ノアは歩き出した。

 帰り道。転移はもう使わない。

 歩いて帰ろう。

 多少時間がかかっても、酔うよりはマシだ。


 それに隣で「怖かったよー!」と泣き笑いしながらくっついてくる騒音発生源が、今はそれほど不快ではなかったから。

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