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第6話「理不尽な危機」(前半)


 非常警報というものは、なぜああも神経を逆撫でする音色をしているのだろうか。

 不安を煽る不協和音。鼓膜を突き破り、脳髄を直接揺さぶるような高周波。

 それは生物としての生存本能を強制的に叩き起こすための、悪意あるデザインだ。


 午後三時。

 もっとも昼寝に適したゴールデンタイム。

 ノアは冒険者ギルド《銀の盾》の定位置で、その忌々しいサイレンの音に眉をひそめていた。


(⋯⋯うるさい)


 テーブルに突っ伏したまま、両手で耳を塞ぐ。

 だが音は遮断できない。ギルド内は蜂の巣をつついたような大騒ぎになっていた。

 普段は昼から酒を飲んでいる自堕落な冒険者たちが顔色を変えて武器を手に取り、怒号が飛び交っている。


「総員、装備を整えろ! 第一級警戒態勢だ!」

「おい、マジかよ! 東の森から魔獣が溢れたって!?」

「スタンピードだ! 規模は中規模以上、オークとゴブリンの混成部隊だぞ!」


 スタンピード――魔獣の大暴走。

 魔素の異常だまりや上位種の発生などが引き金となり、魔物たちが雪崩のように人里へ押し寄せる災害だ。

 ファンタジー世界においては定期イベントのようなものだが、巻き込まれる一般市民や、駆り出される冒険者にとってはたまったものではない。


(⋯⋯面倒だ)


 ノアは小さく息を吐いた。

 これだけの騒ぎだ。ギルドからの緊急招集クエストが発生するのは確実だろう。

 『街の防衛』その五文字を見ただけで消費カロリーの概算が脳内を埋め尽くす。


 壁の上に立ち、矢を放ち、剣を振り、走り回る。

 地獄だ。労働の地獄だ。

 いかにしてサボるか。あるいは「体調不良」を理由に欠席するか。

 ノアがその言い訳を構築することに全脳細胞を使っていた、その時だった。


「ひ、東の森って⋯⋯今日、新人の子たちが採取に行ってるわよね!?」


 カウンターの奥で受付嬢の悲鳴に近い声が響いた。

 ピクリ、とノアの耳が反応する。


「ああ、Fランクの連中がたしか数組。⋯⋯残念だがもう手遅れだろ」

「そんな⋯⋯! 避難誘導は!?」

「無理だ! 魔物の進行速度が速すぎる! 今から救助隊を出しても、森の中で鉢合わせして全滅するのがオチだ!」


 ギルド職員の悲痛な叫び。現場の判断は非情だが合理的だった。

 スタンピードの波に飲み込まれたFランク冒険者など、津波の前の蟻に等しい。

 助かる見込みは万に一つもない。

 見捨てるしかない。それが「全体の被害を最小限に抑える」ための正解だ。


(⋯⋯東の森)


 ノアの脳裏に今朝の記憶が蘇る。

 いつものように勝手に入ってきたエレナが、朝食のトーストを齧りながら言っていた言葉。


『ねえねえノアちゃん! 東の森に生えてる「星屑キノコ」って知ってる? すごく美味しいんだって! 今日それ採ってくるね! 晩御飯はキノコシチューだよ!』


 彼女は満面の笑みでそう言い残して出て行った。

 能天気な笑顔。無防備な背中。

 そして今、その森は魔物の濁流に飲み込まれようとしている。


「あぁ、あの子⋯⋯エレナちゃんも、確か東の森へ⋯⋯」


 受付嬢が口元を押さえて絶句した。

 その名前が出た瞬間、ノアの周囲の空気がほんの数度だけ下がった。


(⋯⋯やっぱり、そこにいるのか)


 ノアはゆっくりと顔を上げた。

 虚ろな瞳は、騒然とするギルドの天井の一点を見つめている。


 エレナが死ぬ。

 その事実をノアは驚くほど冷静にシミュレーションした。


 彼女は弱い。

 家事スキルはカンストしているが、戦闘能力はスライムに苦戦するレベルだ。

 オークの群れに囲まれれば、一分も持たないだろう。

 逃げ足は速いが、スタンピードの規模を考えれば包囲網を抜けるのは不可能に近い。

 つまり、放置すれば一〇〇%の確率で死亡する。


(⋯⋯そうなれば、どうなる?)


 ノアの脳内で未来予測図フローチャートが展開される。


 エレナが帰ってこないとなれば、今日の晩御飯のキノコシチューはキャンセルだ。

 それはいい。最悪、屋台で済ませればいい話だ。

 問題はその後、死亡が確定すれば当然ながら行政的な手続きが発生する。


 彼女はノアの部屋に入り浸っているが住民票は別の場所にあるはずだ。

 そして彼女の大量の私物がなぜかノアの部屋(ひだまり荘二〇一号室)にある。

 服、調理器具、謎のぬいぐるみ、実家から送られてきた大量の果物。

 これらをどうする? 「遺品」として実家に送り返すのか?

 誰が?

 私が?


(⋯⋯梱包作業、配送手続き、送料の計算)


 ノアの眉間に深い皺が刻まれる。

 面倒くさい。吐き気がするほど面倒くさい。

 それだけではない。最大の問題は「鍵」だ。


 あいつは大家からくすねた合鍵を持っている。もしもあいつが魔物の腹の中で消化され、鍵だけが森に遺棄されたらどうなる?


 あるいは、あいつの遺体を回収した誰かが、鍵を悪用したら?

 セキュリティリスクだ。鍵を交換しなければならない。


 大家に事情を説明し業者を呼び、立ち会い、新しい鍵代を支払う。

 その際、大家のじじいから「おやおや、あの子が死んだのかい? 可哀想に⋯⋯」などという長話を聞かされるのは確定事項だ。


(⋯⋯衛兵の事情聴取もあるな)


 『最後に会ったのはいつですか?』『彼女の行動予定は?』『パーティメンバーだったそうですが、なぜ同行しなかったんですか?』

 矢継ぎ早に飛んでくる質問。

 それに一つ一つ答え、調書にサインをする。

 拘束時間は数時間にも及ぶだろう。


 さらに言えばパーティ解散の手続きも必要だ。

 ギルドの窓口に行き、解散届を書き、死亡確認書を添付する。

 紙だ。

 書類だ。

 手続きだ。


 ノアは、カタカタと貧乏ゆすりを始めた。苛立ちが臨界点を超えようとしている。

 エレナの死を悲しんでいるわけではない。

 彼女の死によって発生する、膨大な事務作業と雑務のタスク・マウンテンに対して、猛烈な拒絶反応を示しているのだ。


(⋯⋯割に合わない)


 結論が出た。

 彼女を見殺しにすることで得られる「今の安息」と、その後に降りかかってくる「事後処理の手間」。

 天秤にかければ、どう考えても後者の方が重い。重すぎる。


 未来の自分の平穏を守るためには、今の自分が動くしかない。

 これは人助けではなく自分助けだ。

 面倒な確定申告を避けるために領収書を整理するようなものだ。


 ガタッ。


 ノアは椅子を蹴るようにして立ち上がった。

 その音に、近くにいた冒険者がビクッと振り返る。


「お、おい、どうした嬢ちゃん。避難するのか? 地下シェルターならあっちだぞ」


 親切な男が声をかけてくる。

 ノアは彼を一瞥もしなかった。

 ただ不機嫌を全身から放出しながら、ギルドの出口へと向かう。


「⋯⋯散歩」

「は? 散歩? お前、状況分かってんのか!? 外は魔物の群れが――」

「⋯⋯あいつが」


 ノアは足を止めずに、ボソリと呟いた。


「⋯⋯私の鍵を持ったまま、死なれると困る」


 それだけ言い残し、ノアは重い扉を押し開けた。

 外からはけたたましい警報と遠くで上がる噴煙が見える。

 風が生温かい。血と獣の匂いが混じっている。


 周囲の空気は絶望に染まっている。

 「もう手遅れだ」「諦めるしかない」という諦観が街を覆っている。


(⋯⋯手遅れ? 勝手に決めるな)


 ノアは瞳の奥に昏い光を宿した。

 私の許可なく死ぬことは許さない。

 私の平穏を脅かす「面倒な手続き(エレナの死)」は、私が全力で阻止する。


 ノアは地を蹴った。

 ドォン!!

 爆発音が響き、石畳が蜘蛛の巣状に砕け散る。

 次の瞬間、ノアの姿はそこになかった。

 音速を超えた移動。

 ただのFランク冒険者が残した衝撃波に、ギルドの看板がカランカランと揺れた。


 目指すは東の森――所要時間、全力なら三十秒。

 

「⋯⋯待ってろ、馬鹿」


 風圧の中で、ノアは呪詛のように呟いた。

 今夜のキノコシチューの味付けについて文句を言うまでは、絶対に死なせない。

 最強の少女が、その重い腰をようやく上げた瞬間だった。

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