第5話「静寂のノイズ」(後半)
不眠症。
それは繊細な神経を持つ詩人や、国家の命運を背負う王が患う高尚な病だと思っていた。
まさか、布団に入れば三秒で意識を消失できる才能を持つ自分が、この病に直面するとは。
深夜二時。
《ひだまり荘》二〇一号室は、深海のような静寂に包まれていた。
ノアは布団の中で、ぱっちりと目を開けて天井のシミを見つめていた。
(⋯⋯眠れない)
環境は完璧だ。
誰にも邪魔されない。騒音もない。枕の高さも適切だ。
それなのに意識が冴え渡って沈んでいかない。
静かすぎるのだ。
チク、タク、チク、タク⋯⋯。
壁掛け時計の秒針の音が、まるで巨大な鐘の音のように鼓膜を打つ。
冷蔵庫のモーター音が、遠雷のように響く。
外を風が吹き抜ける微かな音が、何かの悲鳴に聞こえる。
(⋯⋯うるさい)
逆説的だが静寂がうるさい。
完全なる無音など自然界には存在しない。だからこそ、普段は気にも留めない些細な生活音が異物として強調されてしまう。
最近はどうだったか。
そうだ、お泊り用だといって勝手に布団を持ち込み、毛布にくるまったエレナが発する寝息があった。
『すー⋯⋯すー⋯⋯むにゃ、おかわり⋯⋯』
そんな間の抜けた呼吸音や寝言が、一定のリズムで空間を満たしていた。
あれがホワイトノイズの役割を果たしていたというのか。
あの鬱陶しい雑音が、実はノアの安眠を誘う子守唄代わりになっていたとでも?
(⋯⋯馬鹿な)
ノアは寝返りを打った。
認めてはいけない。
それを認めることは、自分のアイデンティティである「孤独愛好家」としての死を意味する。
これは単なる生活リズムの乱れだ。
日中、エレナによる強制連行イベントが発生せず、運動不足になったために体が疲れていないだけだ。
そう、カロリーを消費していないからスリープモードに移行できない。
それだけの物理的なエラーだ。精神的な欠落などではない。断じてない。
ノアは布団を頭から被り、外部の情報を遮断しようと試みた。
しかし遮断すればするほど、内側から湧き上がる思考のノイズが止まらない。
『あれ、鍵閉めたっけ』『明日の天気は』『⋯⋯あの馬鹿、ちゃんと実家に帰れたのか』
(⋯⋯チッ)
ノアは舌打ちをした。
思考の隅に、あのポジティブな笑顔がチラついたことが不愉快だった。
早く帰ってこい、などとは微塵も思っていない。
ただ日常のルーチンが崩れたことへの苛立ちがあるだけだ。
早く三日が過ぎて、元の「鬱陶しいが、予測可能な日常」に戻るべきだ。
そうすれば、この不合理な不眠も解消されるはずだから⋯⋯。
そして、約束の三日目がやってきた。
夕暮れ時――ノアはリビングの椅子に座り、干からびた植物のようにぐったりとしていた。
目の下には薄っすらとクマができている。
食事は適当、睡眠は浅い。この三日間でノアの健康状態は著しく低下していた。
一人暮らしのスキルが、これほどまでに退化していたとは。
介護なしでは生存できない老人になった気分だ。
その時。
ドタドタドタドタッ!!
階段を駆け上がる音が聞こえた。
普通の住人なら騒音トラブルとして通報されるレベルの足音。
だが今のノアにとって、その音は福音にも似た響きを持っていた。
近づいてくる。
リズムが一定で、迷いがなく、エネルギーに満ち溢れた足音。
ガチャッ!!
鍵を開ける動作すらもどかしく、ドアが勢いよく開かれた。
「たっだいまーーーーっ!!」
爆音。
部屋の空気が一瞬で入れ替わる。
入り口に立っていたのは両手に大量の荷物を抱え、汗だくになりながらも満面の笑みを浮かべたエレナだった。
「ノアちゃーーーん!! 会いたかったよぉぉぉぉ!!」
荷物が床に投げ出される。ドサッ。
次の瞬間、茶色の弾丸が飛んできた。
(⋯⋯回避行動、不能)
ノアが身構える暇もなかった。
というより、避ける気力がなかった。
ドンッ!
タックルに近い抱擁が、椅子に座るノアを襲う。
「んむっ⋯⋯」
苦しい。
肋骨が軋むほどの抱擁力。
そして鼻腔を満たす日向の匂いと実家の果樹園のものだろうか、甘酸っぱい林檎の香り。
「寂しかった!? 寂しかったよね!? 私も寂しかったよー! 実家の猫よりノアちゃんに会いたかったもん!」
エレナはノアの首に腕を回し、頬をスリスリと擦り付けてくる。
熱い。体温が高い。
そしてうるさい。耳元で叫ばないでほしい。
「⋯⋯離れろ。暑苦しい」
ノアは抗議の声を上げたが、その声にはいつもの鋭さが欠けていた。
拒絶するために腕を上げるのも面倒だったし何より、この「重み」が不思議と心地よかったからだ。
空っぽだった部屋に質量のある何かが満ちていく感覚。
止まっていた時計の針が再び動き出したような安堵感。
「あはは! ノアちゃん照れてる! 顔色が悪いよ? ちゃんとご飯食べてた? 寝てた? もしかして私がいないから寂しくて眠れなかったとか!?」
「⋯⋯んなわけあるか。自意識過剰だ」
「はいはい、わかったよー! すぐご飯作るからね! 実家から特上のアップルパイ持ってきたし、シチューも作るね!」
エレナはようやく体を離すと、エプロンを取り出してキッチンへと特攻していった。
ガチャガチャと鍋を取り出す音。
包丁がリズムよく野菜を刻む音。
鼻歌が混じり、部屋中が賑やかな音で埋め尽くされていく。
(⋯⋯ああ、うるさい)
ノアは椅子に深く体を沈めた。
鼓膜を叩く騒音なのに、それは不快なノイズではなかった。
世界が正しく稼働していることを知らせる、生存確認のシグナルのようなものだ。
その夜。
久方ぶりの「まともな食事」――具沢山のシチューと焼きたてのパン、デザートのアップルパイ――を胃に収めたノアは、強烈な睡魔に襲われていた。
満腹中枢が刺激され副交感神経が優位になり、脳がシャットダウンを求めている。
布団に入る。隣には久しぶりの再会だから、今日はお泊りする! と言って布団に入ったエレナがいる。
「ねえねえノアちゃん、実家でね、おばあちゃんがね⋯⋯」
消灯した後もエレナの口は止まらない。
三日分の出来事をすべて報告しなければ気が済まないらしい。
普通なら「黙って寝ろ」と一喝するところをノアは「⋯⋯ん」「⋯⋯あ、そう」と、適当な相槌を打ち続けていた。
チク、タク、チク、タク。
時計の音はもう聞こえない。
エレナのお喋りが静寂という名の怪物を追い払ってしまったからだ。
「⋯⋯でね、その時の猫の顔がすごくて⋯⋯ムニャ⋯⋯」
やがてエレナの声が小さくなり、寝息へと変わっていく。
『すー⋯⋯すー⋯⋯』
いつもの、間の抜けたリズム。
ノアはその音を聞きながら瞼を閉じた。
(⋯⋯うるさいのが戻ってきた)
心の中で悪態をつく。
明日からはまた、この騒がしい相棒に振り回される日々が始まるのだろう。
面倒だ。本当に面倒だ。
それでも静寂の中で孤独に餓死するよりは多少カロリーを使ってでも、この騒音の中で生きる方がマシかもしれない。
それが今のノアが出せる精一杯のデレ(妥協)だった。
意識が急速に闇へと落ちていく。
不眠症? 何のことだ。
最強の私は、睡眠においても最強なのだから。
ノアはこの三日間で一番深く、安らかな呼吸をして泥のように眠りについた。




