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残火、そこに咲くのは 〜老いた忠臣は命の際にて王と会う〜

作者: 江川オルカ
掲載日:2025/10/21

 衣擦れの音がした。鼻をつく薬品の匂いも今はどこか遠い。


「父上っ……!」


 まるで水の中にいるようにぼやけた声が、己を呼ぶ。怒声か、泣き声か、よくわからない。


「いけません。……は、私から……」

「兄上……でしょう?」

「……! 私は……」


 齢四十を超えた我が息子たちがまた喧嘩をしているのか? 寝床につく私の周りで、何とも喧しい。


 幼い頃からいつもそうだった。

 冷静沈着で皆の規範となれる才を持ち合わせながらどこか頼りない長男と、人徳があり誰にでも愛されるが冷淡な次男。互いが互いを補い支えよとあれほど言ってきたと言うのに……。

 少しお灸を据えてやらねばと口を開いてみた。だが、私の口から出るのは空気だけだった。


 それもそうか。私はもう七十をとうに超えた老人で、死に際にいるのだ。


 私が最も嫌いだった年寄り。

 若々しかった頃はどう動いていたか、今はもう思い出せない。指先の感覚だって、……ほら。無いに等しい。


 思えば随分と長生きしてしまった。私はあの時、死んでいるべきだったのかもしれない。


 我が主人の死とともに。


 主人は一国の王だった。

 その姿は誰が見ても美しく、どこか浮世離れした儚さもあった。そのかたわらに立てた私は、誰よりも幸せだった。

 仕えるだけでは足りなかった。この思いが罪だと知りながら捨てることはできなかった。


 スン、と老いた身体が空気を吸い込む。

 あの時、城の上から見た光景が蘇る。両手を広げ、民へ話しかける王の背を見つめながら、私はこう思ったのだ。


 見よ、我が王を。私が唯一、真に仕えた陛下よ。……と。


 思い出すだけで胸の内が焼けるように熱くなる。興味もなかった政治も、くだらない論争も、野蛮な戦も、何もかも。あなたのためならば何も苦ではなかった。

 

 あぁ、もう一度だけでいい。あなたに……。


「何をしている」


 氷のような低くもはっきりとした声が、ぼやけた私の世界を切り裂いた。そして、ふわりと何か香ってくる。これは――あの人が纏っていた香。

 先までの息子たちの声は霞んでいたと言うのに、こうもはっきりするとは。かくも不思議なことがあるものだ。


 これは夢か。……いや、死ぬ間際なのだから、私が望む幻聴が聞こえただけなのかもしれない。まあ、夢でも、妖でも、なんだっていい。敬愛する貴方の気配を感じることができるならば。


 思い更けていると、ギシッと音を立て寝台が少し傾いた。私の横に何かが座った。

 確認しようと瞼に力を入れてみた。が、目を開けようとも、うまくいかない。


 私の髪に艶やかな指が触れた。神経がないはずの髪がびりっとした痺れた気がする。じわじわと感覚が鋭敏になっていき、気づく。触れているのは美しい我が王の指先だ、と。


「老けたな」


 鼻から抜ける笑いと告げる言葉は、昔と全く変わらなかった。現世を去った時と同じ、若々しいお声。

 加えて、人を従わせる圧倒的な物言い。初めの頃は何を偉そうに、と気を悪くしたものだが、愛しくなっていたのも事実だ。


「あれから四十年と少し。長かったか?」


 私の指先が僅か動いた。


 長かったか、だと? 長いなんてものではなかった。

 私は、あなたのために死力を尽くした。なのに、あなたと言う人は名声も玉座も簡単に手放した。

 一時の夢しか知らないあなたに、私の気持ちはわからないだろう。いや、わかってたまるか。私は、私は……。


「俺は長かったぞ」


 漂っていた空気が止まった。

 意思とは無関係に、私の身体と魂が離れる、そんな気がした。


「覚えているか? 共に歩いた城下町のことを。お前は俺の好むものを見つけるのが上手かった。……特に、あの甘味はまこと美味だった。また行きたい」


 無邪気に仰るが、あの甘味屋はもうない。国家に仇なす者の隠れ蓑となっており、私が十年前亡きものにした。

 このお方が存命の内は、王家の威光が隅々まで行き届いていた。

 あなたがあと数十年、いや、私よりもずっとずっと長く生きてさえいれば、この国は安泰だった。


「っ、は……」


 何か言い返してやろうと口を開いたが、声は出なかった。心なしか口も震えて思うように動かない。

 そこにいるというのに、話すことも、見ることも叶わないのか。


 なんて、残酷な。


「あぁ、そうか」


 彼は何か納得したような声をあげ、動いた。

 私のものとは違う艶やかな指が頬を滑る。なぜだろう。当たったところからじゅわっと瑞々しさが戻っていく。

 その指先が瞼を撫でたとき、今まで重かったそれが徐に開いた。滲む世界は数回の瞬きではっきりする。


 そこは真っ白な世界だった。現世では見たことがない、果てしない無。ここはもう現世ではない。


 再び寝台が音を立て、視界が一瞬黒に染まる。逆光で見づらく、もう一度瞬きをする。開いた瞼の向こう側、眼前には見慣れた顔が優しい笑みを浮かべていた。


 艶やかな黒髪、精悍な顔立ち、蒼い瞳がまた私を映している。


――あぁ、またご尊顔を拝することができようとは。


 喘鳴に乗せて私は愛しい呼び名を紡いだ。


「……へい、か」


 私と違って歳を重ねることのなかった彼が、私の声に首を傾げた。その微細な所作で、下の方で束ねられた黒髪が肩からそろりと流れ落ちた。


「俺の名を忘れたか?」


 覗き込むように顔を近づけられ、目を見開いた。


 我が王が私に命じておられる。答えなければ。


 はやる気持ちを抑えるように一度溜息を吐いて、ゆっくりと名を紡いだ。


「よ……こう……さま」


 彼・燿昴ようこうは私の紡いだ名に目を細めた。


「忘れていなかったな、宗義そうぎ


 亡くなった時のままの見目で、声で、私の名を呼ぶ。

 目の奥がじわっと熱くなり、やがて冷たい何かが頬を滑っていった。その正体が涙だと気づく前に、燿昴さまの指が頬に触れ、拭われた。


「死の淵で俺は願った」


 頬を撫でていた指が止まる。


「来世もまた、お前と共にありたいと」


 そうして再び私の身体をなぞり始めた。頬、鼻、口、顎。

 不思議と、彼が触れた箇所はみるみる若返っていく。


「お前は?」


 喉仏にとんと指が当たる。答えよ、と暗に言う主人の命に、私は冷たい空気を精一杯吸い込み、答えた。


「同じ……気持ちで、ございます」


 やや掠れてはいた。けれども、私の声は年老いたそれではなくなっていた。その昔、燿昴さまと論争していた時分と変わらぬ、凛とした若々しさが溢れていた。


「そうか」


 彼はまた、落とすように笑った。


 まじないのように這わせられていた手は、私が寝かせられている敷布にむかった。

 燿昴さまは横たわる私に覆い被さるように乗っかり、顔を近づけて来た。甘く澄んだ香の匂いが、脳の時すら戻していく。


 とうとう鼻先が触れ合う、その距離まで来ると彼は蒼眼を閉ざした。長く黒い睫毛が小さく震えている。


「……」

「……」


 互いの呼吸を飲み合うような距離。私は年甲斐もなく胸が弾んだ。元々浅かった呼吸が更に浅くなって小刻みに息が漏れる。情けない。でも、収まらない。

 閉じていた蒼が再び開かれ、私の顔を見ると悪戯な笑みを浮かべて首を傾げた。


「お前からするのだぞ」


 燿昴さまは片方の手で己が身体を支え、もう片方の手を顔の前に持ってきた。そして、人差し指を己の唇にトンと当てた。


「もう、わかるな?」

「っ……」


 甘い誘惑に私の心は踊った。年のせいで震えていた身体が、今や全く違う理由で微動する。

 触れていい。もう何も考えなくて良い。周りの目も、立場も、雑多な仕事も、国事も、何もいらない。私と燿昴さま、二人だけの世界。


 はい、と返事をしようと口を開きかけた、その時。あの煩わしい声が私たちを阻んだ。


「侍医、侍医! 父上の息が、父上の、鼓動がっ」

「やめられよ、兄上。父上はもう……」

「ふざけるな! まじないでも何でもいい。父上はまだやるべきことがある。連れ戻せ! 連れ戻せぇ!」

「いい加減にしろ! ……私は、私とて、寂しくないわけでは、……っ」


 我が子らが、私を呼んでいる。先までぼやけていたのに、今はこんなにもはっきりと。

 魂が現世に引き寄せられる。折角、若返った身体も思考も年相応に霞んでいく。

 息子たちが泣かなくて済むならば、もう少しだけあちらに戻ってもいいかもしれない。そう思った矢先――。


「満ち足りぬか」


 凍てつく声が私を引いた。温かい現世が一気に遠ざかる。

 そして、何かが髪の根本を掴み強く引いた。痛みに目を閉じ、再び開けると先まで優しかった表情が怒りに満ちていた。


「答えよ、宗義」


 果たして、生前の彼はこんなにも自分本位であったか。

 確かに高慢ではあった。しかし、まずは民の安寧を、が口癖だった人が。自分の欲するままの言動をするだろうか。

 だが、巡る疑問はすぐに打ち消されることになる。


 彼の長い睫毛を伝い、私の頬に一つの雫が落ちてきた。それが涙だと気づいた時にはもう、遅かった。

 今の今まで聞こえていた現世の音は、ひとつも聞こえなくなった。感じるのは、思考を鈍らせる甘い香りと、冷たい体温だけ。


 これでいい。


「あなたの、お望み通りに」

「ふっ、相も変わらず責任を押し付けるか」


 やり残したことは山程ある。天下泰平とは言えぬ世に、まだまだ未熟な息子たちを置いていくこと。未練がないと言えば嘘になる。

 けれども、もう終いなのだ。老人がいつまでも現世にのさばる理由はない。


 それに、私の役目はもう一つしかない。たった一人、過去の王が私を欲している。ならば臣下である私は全てを委ねるだけ。達しえなかった喜びを永遠に享受しようではないか。


 燿昴さまの身体を支えている手が、私の頭に触れる。白髪混じりで質が悪くなっていたはずのそれは、彼が撫でるたびに艶を取り戻し、ひと撫で毎に四十年分のしがらみを消していく。

 ひとつ、ふたつ、と私が大切にしていたものが消されていく。残るのは、燿昴さまを思ったことだけ。

 三十五歳の若々しい肉体が戻ってくると、私は手を目一杯伸ばして彼を抱きしめた。


「さぁ」


 燿昴さまの愛らしいおねだりに、私の身体は沸騰したかのように熱くなる。

 求められている。我が王に、燿昴さまに、……私の愛しい人に。


 回した腕に力を込め、互いの呼吸が交わるところで目を閉じた。

 柔らかな何かが唇を塞ぐ。熱く感じるはずのそれは冷たかった。


「お待たせしました」


 滲むように消えていく。私と言う存在はもう、ここにはない。



end...

本作は、ひとつの仮想王国を舞台にしたオムニバス形式の短編集。その第一弾としてお届けしました。

全五編を予定しています。


個々の主人公たちが、どこかで交差し、互いに影響を与えていきます。


主従、親と子、兄と弟といった人間関係が、時として忠義や誇りをどう揺るがすのか。

次作も是非楽しみにしていただけたら嬉しいです。


最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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