モーニングアタック
強風でダイヤが乱れているために駅構内で四十五分待たされた。
ようやく電車が現れたと思ったら、停止せずにそのまま通り過ぎてしまった。
「こんなときに限ってジョニーかよ」
周囲からため息や舌打ちが漏れた。
ジョニーというのは通り過ぎた電車の名前で、真面目で勤勉だが融通が利かない。運行に少しでも乱れが生じると、その遅れを完全に取り戻すまで停車駅を無視して猛スピードで走り続ける。
構内に緊急アナウンスが流れた。
「ジョニーを停車させるため、ヴァネッサの運転にご協力ください」
ヴァネッサというのはプラットフォームの名前だ。ジョニーはヴァネッサに惚れているから、プラットフォームのヴァネッサが後追いすれば、必ずその気配を察してヴァネッサの方へ引き返し、彼女の脇にぴたりと停まる。乗客はその機を逃さずにジョニーに乗り込む算段だった。
ヴァネッサは元々プラットフォームだから走る機能がついていない。だから乗客全員で彼女を抱えて走り込み、ジョニーをおびき寄せる作戦だ。大勢の乗客でフォームを抱えて走るから、一人一人の負担はそんなに重くない。大変なのは、ヴァネッサの機嫌を窺うことだ。
「私みたいなイケてるフォームがジョニーを追いかけるなんてまっぴらだわ。朝から汗をかきたくないの」
朝の通勤ラッシュ時はヴァネッサの機嫌が悪かった。
それをなだめるのが駅員の僕の腕の見せどころ。
「ヴァネッサ、自分の仕事をしろよ。フォームは電車を停めるのが役目だろ」
「だったら、優しく運んでよ。最近は私を運んでいるふりをしながら、ぶらさがって足を動かさない横着な乗客が多いのよ」
ここ西市に転入する際には誓約書に署名させられる。その中に「電車を利用して通勤・通学する際は駅員の指示に従って乗客一丸となって協力する」という項目がある。駅員の指示に従わないのは市の条例違反となる。
そもそも体を動かすのが嫌いな人は、西市電鉄を利用するのに無理があると思った。ここにはジョニーやヴァネッサや小太郎など一筋縄ではいかない電車の奴らがいて、定期的に問題を起こしているから。
「今からモーニングアタックを開始します。どうか皆さま、ヴァネッサの押し運びにご協力ください」
フォームにいた乗客たちは慣れた様子で次々線路に降り、ヴァネッサの周りを囲んで並び始めた。彼女を囲んで人垣ができ、前方のみ人がいない状態だった。
ヴァネッサを真後ろから押す係は、西市電鉄が誇る辣腕社員だ。力が強く俊足で持久力に優れた人々。性別・年齢はいろいろで、日によって顔ぶれが異なった。
真後ろ係が力強くヴァネッサを押して加速をつけてくれるおかげで、左右から運ぶ人々はフォームの端を片手で握りしめ、進行方向を向いて一心に足を動かし続けているだけでスムーズに進めた。
僕も入社した頃は午前中の真後ろ係の配属だった。ひたすらヴァネッサを押すという、潔く単純な任務だった。半年で体重が五キロ減り、二の腕や太ももが引き締まり、体の巡りがスムーズになった。朝から全身運動することでセロトニンが大量に放出されて、毎日すがすがしくてやりがいがあった。モーニングアタックという名称は花粉症の英語名でもあり、毎年春になる頃に僕の悩みの種だった。それが真後ろ係になってモーニングアタックを開始すると、健康状態が改善され体の方のモーニングアタック(花粉症)が治まった。
一年後に昇格と称して通常の業務に戻されたときは、正直がっかりしたものだ。
真後ろ係は見習い期間で給料がかなり安かったが、朝から仕事を通して汗を流してスカッとすれば満足で、それ以上に外出したいとか買い物したいという欲求がなく、ほとんどお金を使わなかった。今はそのときの二倍の給与をもらっているものの、ストレス発散するために何かとお金を使うので、貯金できる額は真後ろ係の頃とほんの少ししか変わらない。
真後ろ係は、西市電鉄の社員の他に体力に自信のある乗客の飛び入り参加が歓迎された。部活に励む中高生や社会人のスポーツ選手、体力づくりやダイエットに励む面々など。常に人手が必要なので、やる気があれば大歓迎だ。
僕の斜め前方にいるセーラー服姿の女子学生が不安げに周囲を見回している。ヴァネッサを運ぶ任務に初めて参加するのだろうか。短めのプリーツスカートの下にスパッツを履き、ランニングシューズを着用している。走る準備はばっちりだ。転入時に西市から配布される注意事項をよく読んだ、あるいは親の言いつけをよく守った証拠だろう。
僕は心細そうにしている彼女に声をかけた。
「近くのフォームから線路に降りて、フォームの端を握ってください。線路に降りるときは飛び降りてもいいし、フォームの後方の小さな階段を使ってもいいですよ」
女学生は微笑みながら僕に言った。
「西市って無生物でも意思があるものが多いですよね。慣れるまでちょっと驚きました」
「僕も初めて雪童に会ったときは驚きました」
雪童は積雪の日に西市に現れる現象で、真っ白な雪の塊が生き物みたいに動き回る。
「この町に雪童が出没する噂は本当だったんですね。私も会ってみたいなあ」
「形は可愛いけど、乱暴だよ。僕なんか出社前に追いかけられて衣服が雪まみれになったからね」
女子学生は笑顔になって近くのフォームから線路めがけて降り立った。
彼女が周りの乗客に倣ってフォームをつかんだ瞬間に、
「痛くしないで! 優しくつかんでよね」
ヴァネッサの声が響き渡る。
戸惑った顔をする女子学生に「大丈夫、いつものことだから」
僕は小声で励ました。
「ヴァネッサが何を言おうと、フォームはしっかりつかんでくださいね。でないと、スピードと共に放り出されて危険ですから」
女子高生は力強く頷いて、前方を見据えてフォームをつかんだ。
無生物であるヴァネッサも不満ばかり言っているわけではない。
乗客数は日時によって変わるから、その日のモーニングアタック参加者が全員フォームを持って走れるように、プラットフォームの形や大きさを微妙にサイズ調整してくれる。人数が少なければフォームのサイズを縮めて厚みを増し、参加人数が多ければ面積を広げて厚みを減らす。ヴァネッサはその場の状況を判断し、瞬時に最適なフォルムになってくれる。
ただし、こちらの要望は受け入れられない。「前後の感覚にゆとりが出て走りやすいよう、少し幅を広げてくれる? 」「サッカー部の高校生と社会人バスケットボールのグループが一緒に真後ろ係で並べるように、もう1メートルフォーム後方を長くして」というような人間ならでは細かい要望には頑として応じてくれなかった。
あくまでもヴァネッサが主役だった。脇役である人間は彼女の作った形に合わせて、互いの間隔を狭めたり広げたり、前後で譲り合ったりしながら走りやすい態勢を整えた。
ヴァネッサがへそを曲げればジョニーに追いつくのは不可能で、通勤通学の交通手段を変更せざるを得ない。豪雨や積雪の日はバスやタクシーは電車以上に遅れが生じ、ますます捕まえるのが難しい。ヴァネッサが渋々承知してジョニーを追いかけてくれるだけでも喜ばしいことだった。
乗客が全員線路に降り立ちヴァネッサを囲んだのを見計らって、僕は拡声器を口にあてた。出発の合図係は初めのうちは緊張したが、真後ろ係を辞めた今、乗客と一体になれる実に貴重な瞬間なので、慣れてきたら心が躍る。
「ヴァネッサとともに一丸となって出発します。
よーい、スタート! 」
乗客たちは一斉に彼女を持ち上げ、前を行くジョニー目指して走り出した。
出発前は何かとうるさいヴァネッサもひとたびスタートすれば無駄口叩かず真剣だ。体育会系の真後ろ係は最初から全力疾走で彼女を押す。
風を切りやすく流線形になったヴァネッサはどんどん加速を増していき、その場にいる全員の加速度がピークに達すると、最高速度を維持したままレールを滑るように駆けていく。そうなれば周りにいる人々はヴァネッサをつかんでいるだけで川の流れにいるように、スピードに乗って前進できる。足だけは絶えず動かす必要はあるけれど、ヴァネッサを持ち上げる重さの負担は軽くなった。
ヴァネッサが好調に滑り始めると楽しくて、風に乗るようにどこまでもスイスイ前進できる。乗客たちはヴァネッサと共に風になり、空を進んでいるようだった。居合わせた乗客たちと一丸となって味わう猛スピードの爽快感と一体感はほかのスポーツでは味わい難く、やみつきになる感覚だった。両足をひたすら動かすだけで、どこまでも吹き抜ける風となり、魂となり、翼となった。
一心不乱に前進するうちに雑念は消え、悩みも吹き飛び、心身は透き通ってすがすがしい。自宅で座って瞑想し無になるのは難しくても、ジョニーを追いかける行事に参加すれば、誰もが純粋で清らかな風になれた。無心でひたすら駆け続ければ、ジョニーに追いつく。やれやれと一息つく頃には心身がすっかり浄化され、どす黒い感情とは一切無縁のはつらつとした健康な人間に生まれ変わった。
ジョニーに追いつくのが惜しいくらいだ。いつまでも透明ですがすがしい風になっていたかった。でも、終わりがあるから結果が出る。
西市電鉄の利用者がこぞってモーニングアタックに協力する理由が分かっていただけただろうか。
運動に不慣れな乗客は最初の1か月は苦しいだろう。ヴァネッサが加速するまでにある程度走りこむ必要があるからだ。でも、その後必要な体力がつけば、あとは鍛えられた体と心で風を目指せば良いだけだ。
僕が真後ろ係に任命されたときも最初の1か月はきつかった。普段運動をしてなかったのでヴァネッサを囲んで走るのも大変なのに、最も力が要求される真後ろ係に任命されたのだ。毎朝筋肉痛と闘いながら、ベテランの先輩方や乗客の方々に交じって必死でヴァネッサを押し続けた。
前進し続けて加速がつくと、僕の身体は一丸となった駆け足速度に引っ張られて、前へ前へと突き進んだ。
予想以上に楽ちんだった。みんなで力を合わせれば、さほど労力を用いずにこんなにも疾走できるのか。
これならジョニーを捕まえるのも怖くはない。僕のような力不足の輩でも体力や脚力に関係なく、この街の名物行事となっている朝の日課に参加できた。左肩越しに持ち上げたヴァネッサの体も重くはない。ただし、うっかり両手を離すと、加速の流れから弾かれて場外に飛び出すことになりかねない。とにかくしっかりとプラットフォームの端を掴んだ。
線路の枕木を蹴り上げる両足をふと止めてしまったらどうなるのか。ズルをして楽を選んだら、この先何が待ち受けるのか。子供っぽい誘惑や好奇心に駆られても、良識ある社会人なら実行しない。全員力を合わせて走るからこそ一人一人の負担が少なく見る見る前進しているのに、誘惑に負けて横着したら途端に負担がのしかかり失速し始める危険がある。
最初に足並みを揃えるのは簡単でも、乱れた足並みを揃えるのは失速した機関車を最高速度に戻すように難しい。この場にいる全員が暗黙の了解のうちにそれぞれの役割を果たしているから一人一人余裕を持って走ることができるのだろう。最後まで義務を果たす必要があった。
加速をつけるまでの地獄の十五分を全身全霊でやり切れば、あとはヴァネッサを握って走るだけでどんどん速く軽くなっていった。あの飛ぶような爽快感は一度体験したら忘れられない。最初の苦しみさえ乗り切れれば、あとは楽しくなるだけだった。
さらに真後ろ係が楽なのは、非常に体力を使う仕事のため、他の業務が割り当てられず、一日に一回参加すれば仕事は終了だった。体力と気力だけが重視され、仕事特有の細やかな気配りやコミュニケーションスキルがいらなかった。
今思えば、本当に真後ろ係は天国だった。午前中がんばって走れば、それで業務が終了で給料がもらえたのだ。三か月経つ頃には体力も気力も充実し、いよいよ戦力になれるとますます張り切っていたものだ。が、どういうわけか昇格と言われて、通常業務に戻されてしまった。今は勤務時間が長く、接客スキルや要領の良さが重視され、給料が増えても真後ろ係よりストレスがあった。
だからと言って、駅員をやめて通常の乗客になってまでジョニーを追いかけようとは思わないが。小さな頃から電車が好きで、高い倍率を突破して手に入れた職だった。鉄道マニア垂涎の西市鉄道名物のシルバーの背広ユニフォームを着られるだけでもありがたかった。
今の僕にできるのは、ヴァネッサを抱えて走る人々を全力で応援すること。そして僕も心の中で疾走すること。
ヴァネッサを抱えて線路を駆けて見渡すと、所々に緑溢れた公園を抱く住宅街が広がっていた。
ここ西市は税金が安いわけでも子育て制度が充実しているわけでもない。快速は止まるが特急は通過するごくありふれたベッドタウンだ。この街では鉄道のような無生物が会話したり、精霊みたいな存在が日常的に目撃された。理由はよく分からない。
なんでプラットフォームが走っているの? フォームのくせにどうして喋るの? なんで外国人みたいな名前なの? もしかして外国産の原料なの?
疑問は尽きぬけれど、答えは分からない。とにかく協力して伴走する。余計なことは考えず、目の前の出来事に専心する。
新しい世紀を迎えてから地球のあちこちで例を見ない出来事が発生した。科学的にさんざん否定された事象でも現状をまざまざと見せつけられれば、納得するより他はない。絶滅生物がいる一方で何百もの新種が生まれる地球では当たり前の結果なのか。今まで意識しなかっただけで、太古の昔から地上では草木が謳い、精霊が躍り、物の怪が跋扈した。無生物の源を辿れば樹木や鉱山などの生命体に行き着くから会話したとしても不思議はない。彼らは元からおしゃべりだったけど、認識しない人間の数が多かっただけなのかもしれない。時代を経てだんだんと認識できるようになっただけかも。僕達人間が進化したのか。それとも先祖返りしたのだろうか。古代人は、目に見えない存在や無生物と普通に会話していたらしいから。
意志疎通ができる相手が増えるというのは文化的に豊かな証拠だろう。柔軟で友好的な人々、つまり真に知的な人々ほど社会の変化を受け入れる。
僕の十年後はどうなっているのか。ストレスに耐えながら通常業務で昇格を目指すのか。上司が納得するほど体を鍛えて真後ろ係に異動願いを出すのか。
でも、その頃にはジョニーが落ち着いてダイヤを守るようになり、追いかける必要がないかもしれない。
世の中は刻一刻と変わっていくのだ。どんな事象も面白がって柔軟に受け止めるのが一番だ。




