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4.消えゆく背中

 え……、とかすれた声を出したのは、誰だろうか。

 耳まで血が伝ったせいか、頭から流血しているせいか、或いはその両方のせいか。判然としないが、音が上手く拾えない。

 義妹のミリアンだったような気もするし、フランが唯一愛していると言っても過言ではないリリーだったような気もする。

「ぷっ! あははは、そしたらお義姉さまのお世話は誰がするの⁉」

 間をおいて、ミリアンが笑い出す。

 何が面白いのかフランには全く分からないが、これもそういうものだ、と自分の中で処理してしまう。

「自分でやります」

「ふーん? そしたら、お義姉さまのことを社交界でメイドにも逃げられたって宣伝しといてあげる!」

 満足気にそう言い放つと、フランは足取り軽く、踵を返した。

 なんとかこの危機を脱することが出来たとフランは安堵の息をもらす。耳鳴りが酷い。

 ゆっくり顔を上げる。

 酷い顔色のリリーが、視界に入った。

 何か言わなければ、とフランは口を開きかけた。

「あ、そうだ」

 ミリアンが立ち止まって、振り返る。

「ちゃんと、そこのごみ、追い出しておいてよね。私、お義姉さまのお下がりは嫌いなの」

 笑顔で吐き捨て、ミリアンは歩き去っていった。

 実際、ミリアンは昔、フランの世話を焼いていた人たちを全員奪ったくせに、全員理由をつけて屋敷から追い出してしまった。

 どうしてそんなことをするのか、フランには分からない。

 ただ、フランに優しくしていた人が一人、また一人と屋敷を出て行くとき、フランは何も出来なかった。

 それはフランが無能だからだ、と義父はフランを詰った。

 お前のような子に仕えていたから、みんな消えていくのだと嘲笑したのは義母だ。

 自分が、みんなを不幸にした。

 屋敷から出て行くときのみんなの顔が見れなかった。


「いっ」

 傷口に触れられてフランは思わず、声を上げてしまった。

「痛みますよね、すみません、本当にすみません。あたしが花瓶を割ったから……」

 綺麗な翡翠色の瞳から透明な雫がいくつも零れていく。それでもリリーは、フランの傷口を押さえ続ける。

 フランは、俯いた。

 結局、リリーのことを泣かしてしまっている。自分が不幸にしてしまったのだ、と自分の無力さを呪う。

「いいのよ……、髪の毛を引っ張られたのでしょう? 誰だってバランスを崩すわ。怪我はない?」

 思考はどことなく、ぼんやりする。

「お嬢様、あたしの心配をしている場合ではありませんっ、どうしよう……血が止まらない……」

 リリーの手をやんわり押しのける。

 これまでだって、体罰はあった。だから、フランは自分の傷の程度がよく分かる。これは放っておいても大丈夫な傷だと結論付ける。

「リリー、よく聞いて?」

「嫌ですっ、手当を先に!」

「リリー……」

「どうしよう、あたしのせいでお嬢様に傷が残ったら……」

「リリー」

「あたし、こんな髪の毛、もっと早く切ってれば良かっ」

「リリー、よく聞きなさい」

 フランは、濡れた指先でリリーに触れた。

 リリーの肩が跳ねる。

「落ち着きなさい。まずは、ここを拭いて片付けるように。お義父様と、お義母様が帰ってくる前に。いいわね?」

 フランの言葉に、リリーが一つ頷く。

「それから、自分の部屋に戻って、荷物をまとめなさい」

「お嬢様……」

 リリーの翡翠の瞳に新たな水の膜が浮かんだ。

 だが、フランはそれ以上言わせない。

「最後に私の部屋に来るように。いいわね?」

 リリーはゆるゆると首を振る。

「ダメよ、動きなさい。そうじゃないと今度は私がお義父様たちに怒られてしまうわ」

 リリーが項垂れながら、緩慢な動きで動き出した。

 我ながら、過酷なことを言っていると思う。しかし、もう、戻ることは出来ない。

 口から出た言葉を巻き戻す方法はない。

 今は、それが最善だと信じて動くしか道がないのだ。

 ごめんなさい、と口をついて出そうになった音をフランは飲み込む。許しは求めていない。求めてはいけない。

 リリーの幸せを願っている。

 それなのに、自分がリリーを傷つけている。

 だから、許されてはいけないのだ。

 固く唇を引き結んで、フランは自分の部屋へ戻った。


 雨が窓を叩いている。窓に反射した自分の顔が酷く歪んでいる。

 フランは机に座る。

 手紙用の紙を取り出したところで自分の手が震えていることに気が付いた。

 なんて情けない。

 自分の味方であるリリーを手放そうとしているくせに、これから先のことに怯えている。

 幸せになってほしいと願いながら、離れないでほしい。

 フランは自分にそれはワガママだと言い聞かせる。自分の願いが全て叶うなんて、在り得ない。何かを切り捨てなければ、何も叶えらない。

 自分の右腕を左手で押さえつけながら、紙に必死に文字を書く。

 急ぎの電報を一通。

 それから、リリーに持たせる手紙。

 昨日の今日で、アレクにこんなことをお願いするのは非常識だろう。その謝罪を必死に書き綴る。

 それから、リリーのことをくれぐれもよろしく頼む、という旨を書き添えた。

 自分なんかのことを気にかけてくれた少女。

 どうか、幸せに。

 視界が揺らぐ。

 自分の弱さが嫌になる。

 指先で雫を拭い、封筒に手紙を入れてしまう。それから、蜜蝋をたらして封をした。

 丁度、ノックの音が聞こえた。

 顔を上げる。一度だけ、深呼吸をした。

 リリーの前で泣くようなことがあってはいけない。涙腺を締めなおす。

「どうぞ」

 おずおずと扉が開かれる。

 リリーが入ってきた。目が赤い。散々泣きはらしたのであろう。

「お嬢様……あたし、やっぱり残りたいです」

 リリーの手には荷物は握られていなかった。

 彼女の言葉に胸が軋む。本当はここに居て、と縋ってしまいたい。今すぐにでもリリーを抱きしめて、大丈夫だと言いたい。

 でも、それはフランの役目ではないのだ。

 拳を握る。

「認められないわ。私にはあの場で、貴女を殴る選択なんて出来なかった。分かるでしょう?」

 フランの本音だった。

 リリーだって、それを分からない訳ではないはずだ。返答が出来ずに、彼女は押し黙った。

 卑怯な手であることは自覚していた。

 だけど、手段を選んではいられない。

「荷物をまとめてきなさい」

 厳しい声音で告げると、リリーは項垂れながらまた部屋を出て行った。

 戻ってきたリリーは、はらはらと涙を零していた。

 胸の痛みを必死に無視をして、事務的な手続きを済ませる。

「本当は退職金が出せたら良かったのだけれど……」

 フランは手紙を渡しながら、リリーに告げた。

「そこは別に気にしておりません。あたしはただ……お嬢様のことが心配です」

 手紙を受け取りしまいながら、リリーが顔をあげる。

 潤んだ翡翠色の瞳に自分が反射している。

「私は大丈夫だから」

 言いながら、何が大丈夫なのだろう、と自問自答した。

 答えは出ない。

「自分の体には気を付けるのよ」

「それはあたしのセリフです、お嬢様」

 そう言って、リリーは目を伏せた。

 この世で一番、純粋な涙が滑り落ちていく。


 その日、リリーは屋敷を出て行った。

 フランしか見送りの人は居なかった。

 本当はとてもいい子なのに。フランのせいで、誰にもなじめなかったに違いない。

 申し訳なかった。

「さようなら」

 消えていくリリーの背中を、フランはずっと見続けていた。

 雨の中に消えて見えなくなるまでずっと……。

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