3.フランの決断
雨がしとしとと降っている。
薄暗い自室で、フランは静かに溜息を吐き出した。
山積みの書類仕事を片付けながら、思考を巡らせる。
昨日、アレクにリリーのことが相談出来たのは、本当に幸運だったとしか言いようがない。しかし、大きな課題が一つ残っていた。
フランは書類から顔を上げ、ランプに火をつける準備をしてくれているリリーの背中を見つめた。
リリーのエプロンの紐はくたびれている。背中で結ばれて、余っている紐が以前より長くなっている。つまり、リリーは痩せてしまっている。
それもフラン付きのメイドだから、屋敷内で苦労をかけているのだ。
それが本当に心苦しく、申し訳ない。
「お嬢様、お手元を明るくしましょう。目が悪くなってしまいますよ」
リリーが振り向く。
見ているフランが、思わず安心してしまいたくなるような完璧な笑顔。その裏にどんな気持ちが隠れているのか、フランは見抜けない。
本当に駄目な主だと、そう、フランは自己評価をする。
「いつもありがとう」
「いえいえ! このくらい、当然です」
元気な声が、心に痛い。
リリーはそのまま、踵を返していく。
何度もリリーの笑顔に救われた。
その明るさに縋ってしまいそうになる。だけど、リリーの人生はリリーのものだ。
フランが奪っていいものではない。
何より、リリーには笑っていてほしい。
フランの知らないところでだって、構わない。
「リリー……まだ、時間はあるかしら?」
はい、とリリーが振り向く。大きな翡翠色の瞳がフランを捕らえた。揺れる二つの三つ編みは鮮やかな橙色だ。
彼女はそばかすを気にしているようだったが、それすらも愛らしいチャームポイントだとフランは思っている。
どこから切り出すべきか、フランは少しだけ思考を巡らす。
だが、リリーに見つめられると上手い嘘は出てこないようだった。
「もし……、もしもの話よ? 伯爵家より、もっと素敵な方から、貴女を雇いたいという申し入れがあったら、どうしたいかしら?」
「まあ!」
リリーが声を上げる。
「お嬢様はあたしが、それでお嬢様を置いて行く人間だと思っていらっしゃるのですか!?」
遺憾だと、リリーは頬を膨らませた。
「いえ、そうじゃないの。これはもしもの話よ」
「あたし、そんなもしもの話は聞きたくないです! あたしは、どんな時だって、お嬢様の味方ですから!!」
どうやら、リリーにはフランの言葉が愛情確認のように捉えられてしまったらしい。
「そりゃ、あたしじゃ役に立たないこともあるでしょうけど……」
リリーの表情が曇る。
違うのだ。そんな顔をさせたいわけではない。
だが、真実を告げることはどうしても憚られた。
リリーの申告通り、彼女は決してフランを見捨てるようなことはしないだろう。忠義心が強い、とかそういうものではない。純粋に優しいのだ。
「ごめんなさい、不安にさせたわね。私が悪かったわ。私はとてもとてもリリーに助けられているわ」
これは本当のことだ。
フランはリリーをそっと抱きしめた。
細くなった腕がリリーを遠慮がちに抱きしめ返してきて、フランはなんだか泣きそうになった。
お嬢様、と呟かれた言葉はどこか涙声であった。
フランの中で引っかかっていた問題が確信に変わる。
リリーはアレクからの紹介状をもらっても、ここを出て行かない。それでは、リリーまで巻き込んでしまう。
自分の運命は受け入れていても、リリーを道連れにすることは許されない。
リリーは光の中で愛されて、これからを望むべき人だ。
フランの中で、リリーはそのぐらい大きな存在になっている。
(何か、手を打たないと……)
フランは考え続ける。
自分は断罪される。
大勢の前で、あることないこと、罪状を突き付けられる。
義妹のミリアンに全部、取られて。笑い者になる。
地位も名誉も、金も屋敷も、全て全てなくなる。
それでも、フランはそれを仕方ないと受け入れてしまう。
自分は無知で、愚かだった。だから、幸せになってはいけないのだと思う。それは義両親が長いこと、フランにそう言い聞かせてきたからだ。
そう思い込まされ続けてきた。
だから、当然の結末だとすんなり受け入れられてしまう。
しかし、リリーは違う。
リリーはこんなフランに唯一優しくしてくれた。見捨てないでいてくれてた。優しい、恩人だ。
例え、リリーを傷つけるとしても、彼女をこの牢獄から逃がさなければならない。
必死に頭を働かせるが、リリーが納得するような説得は出てこなかった。
「この無礼者っ!!」
不意に大きな怒鳴り声が屋敷に聞こえてきた。
義妹のミリアンのヒステリックな声である。
「どうしてくれんのっ⁉ お気に入りのドレスだったのに!! あんたなんかの給料じゃ一生かかっても払えないのよ⁉」
ミリアンが喚き散らしている。
何事かと、フランは廊下に出て、階段を降りる。
上から玄関ホールをのぞき込んで、フランは立ち止まった。
花瓶が割れている。飛び散った水がミリアンのドレスの裾を濡らしていた。その近くで土下座を強要されているのは、リリーであった。
「申し訳ございませんっ! 急に後ろから三つ編みを引っ張られて、バランスを崩してしまい……」
「関係ないわ!」
ミリアンが扇子を振り上げる。
「ま、待ってください!!」
フランは階段を駆け下り、ミリアンの前に進み出た。
遠くの壁際で、見慣れないメイドがくすくすとリリーとフランを笑っている。
「リリーは私のメイドです、この子がした不手際は私が責任を負いますから……」
「お義姉さまが?」
ミリアンが目を細める。
扇子がフランの顎下に添えられた。
「お金もない、存在価値もない、お義姉さまに何ができるの?」
嘲笑と侮蔑を含んだ言葉。
しかし、フランの心はもうちっとも痛まなかった。
いつものことだからだ。
「申し訳ありませんでした」
頭を下げる。
すると、頬に固いものが当たった。
「お嬢様……っ!」
リリーの悲鳴が聞こえて、ようやく頬を扇子で叩かれたのだと理解する。
「それが謝る態度かしら? お義姉さまの分際で頭を下げれば済むと思っているの?」
ミリアンの言葉に、フランはすっと屈んだ。
「お、お嬢様、なりません!」
リリーが必死に止めようとしてくるが、フランは止まらなかった。
この家では、当たり前のことだ。
このくらいの形式で済むのであれば、安いとすら思えてしまう。
フランは両手を地面に着けて、頭を床にこすりつける。
「申し訳ありませんでした。リリーにはよく言って聞かせますので……」
「お嬢様、おやめくださいっ! あたしが! あたしが悪いのです!」
「あんたのメイドはなんにも分かってないみたいだけど?」
後頭部にがつん、とヒールが刺さった。
リリーが息を飲んで黙り込む。
「そうだ。お義姉さまが罰してくださいな。お義姉さまのメイドだものね? お義姉さまが手ずから鞭でも打てばよろしいのではなくて?」
ミリアンが高笑いする。
リリーをフランの手で傷つけるなんて、そんなことできるわけがない。
ミリアンの笑い声が耳についてうるさい。
いつか、こんなことになるんじゃないかと思っていた。リリーのような良い子が自分の傍にいたら、不幸になってしまう。分かっていたのに、手を打たなかった。
そんな自分が許せない。
「ほら! 早くしなさいよ!!」
何度もガンガンと頭を踏まれる。
ミリアンのせいで、何も考えがまとまらない。頭から滑り落ちてくる液体が煩わしい。
「血が……」
リリーの怯え切った声が聞こえる。
それで、自分が怪我をしたのを知った。
ミリアンが舌打ちをしながら、足を退ける。
「汚れちゃったじゃない、もう!」
自分でしたことのはずなのに、ミリアンの怒りはフランに向いている。その矛先が、いつリリーに向かってしまうのか。
それだけが恐ろしい。
フランは土下座をしながら、必死に頭を働かせた。
目の前の水溜まりに朱色が混ざる。
頭から血が抜けて、思考がぐるぐると回転しだした。
そうして、フランは閃く。
ずっと抱えていた問題も、現在、目の前に転がっている問題も解決する方法を。
「リリーを……こちらのメイドを本日付けで解雇いたします」