異世界転生というのは実際にあるのか?
エッセイですので、もちろん創作の部分はありません。
全部本当のことです。
異世界転生というのは実際問題として可能かどうかを確かめるのは難しいと思います。
ファンタジーとして楽しむときに、異世界が舞台の方がワクワクしてときめくから、異世界転生なのでしょうが現実問題としては同じ地球上での転生がずっと確かめやすいのだと思うのです。
異世界転生については別の機会に論じるとして、同世界転生ならどうかということについて考えたいと思います。
まず前世の記憶を持った子供たちの話をよく見聞きしますね。色々な検証をして、その子供が知りえない知識を子供が知っていることで、前世に別の人間であったという結論に導かれた動画などよく見ます。そういう著作物もたくさんありますよね。
でもそんなことを百万遍見聞きしても、確信には至らないのが正直なところです。
ところが私は前世というのはありうると信じています。上で述べたように前世の記憶を持っている子供が存在すると言われてますが、殆どの人間はそんな記憶はありません。でもその中間的な記憶を私は持っているのです。前世の記憶はなかったけれど、きっと前世の精神状態のまま転生したのではないかという記憶を私は持っているのです。
私は五人兄弟の末っ子で、上から長男、長女、次女、三女、最後が次男の私です。
私たちは貧しくてたった二間の部屋に住んでいました。
一番目の記憶……私は奥の部屋で一人で寝ていましたが、他の兄姉は玄関側の茶の間に集まっていたのです。家の中は日中ですが電気をつけてないのでとても暗かったです。多分曇りがちだったか雨模様だったのでしょう。私は両親がいなかったので、とても不安になりました。そして兄姉の方に行きたいと思ったのですが体が全然動きません。そのときどうして動かないんだろうと思いました。私はそのとき考えました。私が起きていることを知らせれば良いのだと。そして声を出しました。でも頭で思ってることを言語化できないので、「えええ……あああ”」とかいう声になったと思います。その声を聞いてしっかり者の二番目の姉が私の所に来て抱っこして、柱時計のある茶の間と奥の間の境目の柱の下に座らせてくれました。私は今どんな状況か知りたくてたまりませんでした。お母さんはどこ?の積りで何か言った気がしますが、姉の誰かがぼそっとそれに対して言いました。それはたぶん我慢しなさいとか黙ってなさいというような言葉だったと思います。その後兄が中心になってなにやらぼそぼそ喋っているのですが、意味は全然分かりません。
この記憶から軽く半世紀以上は経っていますが、私は記憶の経年劣化を避ける為に何度も正確に思い返すようにしています。ここで考えられることは、私は手足が動かないことに驚いたのは手足が自由に動けたという記憶を持っていたのではないかということです。そして自分が起きたことを知らせる為に泣くのではなく声を出したということです。この判断が自分では動けない乳幼児がしたとは思えないということ。さらに兄たちの会話の意味が分からなかったのは、かなり私が幼くて日本語の会話スピードについて行けなかったということです。少なくても前世の言語記憶の方はなかったのだと思います。
第二の記憶……私は七条の広場というところに座ってました。ベンチに座っていたのか花壇の縁に座っていたのかはわかりません。すると小さい子がキャッキャとはしゃいだり、突然泣き叫んだりするのを見て、まるで赤ちゃんみたいだと思っているのです。そして自分のこの感じ方に不思議な思いがしました。まるで私が七十才か八十才の老人のような気持ちで子供たちを見ているのです。でも私自身よちよち歩きの幼児の体をしていました。大人の体がとっても背が高く見えているそんな幼児です。私はそんな自分を不思議な思いで観察しています。いくら心がオトナみたいでも体は子供でとっても無力なんだと思っていました。
第三の記憶……上と同じく七条の広場にいたときです。多分一番下の姉だと思いますが、私が裸足でいるのを指摘して、それに対して靴が小さくてきついからと言ったような気がします。すると姉は私を父親の所に連れて行って私の靴を見せて小さくなったから買ってあげて欲しいと言ってくれたと思います。
けれども父は色よい返事はしませんでした。すぐ買ってくれるわけではなかった様子でした。
そのとき私が見た靴はビニールかゴムでできた本当に赤ちゃん用のような靴だったのです。
これは小さい子用の靴じゃないかと思いました。思った私はもっと大人の心を持っていたのではと思うのです。私は自分が小さい子供のくせに何故かもっと自分が大人のような意識を持っていたのです。
第四の記憶……家族写真を撮る為に私は赤ちゃん用の黒いスモックを着せられました。きっとそれが可愛いから余所行きの服として着せたのでしょう。でも私はそのときそんなスカートのようなものを被るのが嫌でした。自分は何故か長ズボンを履きたかったのです。大人のような長ズボンを。そしてそれを脱ぎ捨てました。けれど母親や姉たちはまた着せます。それを脱いで……というのを十回くらいは繰り返したと思います。最後は次女の姉に殴られて私は従ったのです。その後写真館で撮った写真は今でも残っています。大人になってから見れば可愛くて似合っていると思いましたが、その時の私は全力で拒否したのです。きっと大人の心があってそんな羞恥プレーはしたくないと思ったのです。
幼いころの記憶はもっとたくさんあって、兄姉の中でも私が一番良く覚えてるみたいです。
それはきっと前世からの大人の魂の部分があって幼児の体の自分を観客のように眺めていたから覚えているのだと思います。一円札とか闇市とか街頭スピーカーから流れる上海帰りのリルとか傷痍軍人がギターで歌っているのとか・・・戦後数年経った世界の記憶です。
以上私は転生というのはあると思っています。でもきっと私は前世は日本人でそれほど時代が離れていない過去に生きていたのだと思っています。
第三の記憶で見た幼児用の靴のデザインにそれほど違和感を感じなかったからです。そういうものに既視感を感じたということは、それほど離れていない時代だったのでしょうね。
そしてもし私が今度転生するなら……やはり今世の記憶は繰り越したくないですね。
というのはもう一度似たようなことをするのは面倒くさいからです。記憶がなければ初めてのことのように新鮮な気持ちで体験できるからです。
それと異世界とか剣と魔法の世界はファンタジーの世界だけで良いです。現実では怖くってお断りですね。まして今世の記憶を持ったままなんて、とんでもないです。死にます。(笑い)