10
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朝起きて、ぽやぽやな顔のまま冷たい水で顔を洗った。
「ちべたぁ…」と声を漏らして、実家では温かいお湯で顔を洗っていた事を思い出す。
自分は甘やかされていたんだな、と思いながらジャバジャバと冷たい水の中に手を入れた。
朝食はナンシーが用意してくれていたものをペロリと頂いた。
食後に甘いものが食べたい気持ちになったが、残念ながら用意がなかったのでテーブルの上に置いているメモに書き記しておいた。
これはナンシーが来た時に渡すための欲しいものリストだ。
今のところはまだ食べ物についてしか書いていない。
さてと、と椅子から立ち上がりレイチェルは家の中の整頓を始めることにした。
まずは二階に置いたままの荷物たちをあるべき場所に置いて行く作業だ、これは一日がかりで頑張ろう!と起きた時に考えていた。正直どこに何をしまっているのかよく分からなかったから昨日は放置を決め込んでいた。
二階に上がる階段を上り部屋の扉を開いた、一番手前がレイチェルの自室でその隣を一応の客間に―人を招く予定は無いが―そして奥の部屋は物置にすることに決めた。
自分のトランクを開け、中に入っているドレスや宝石箱を外に出していく。こんなビラビラした服を持ってきてしまったがここでは着ないかもしれない…と思いながら一着一着丁寧にクローゼットの中に仕舞っていく。
宝石箱も机の上に置いてから、ここでは身に着けることはなさそうね、と苦笑いした。
どちらも何かあった時にお金に変えるものとして大切にしようと決めトランクの中身を全て出し切り収納していった。
自分の今着ているものはレモンイエローの簡素なワンピースだ、丈は膝より少し長めなので動きやすい。靴もヒールのない歩きやすいものにしている、アクセサリーは何も身に着けていない。髪はどうしようか悩んで緩く三つ編みにする、前髪を留めるために昔買ったピンク色のバレッタを身に着けた。
きっと町娘くらいに見える格好をしているだろう!と胸を張って自分を映す鏡に向かって笑った。
実家を出る時にメイドたちからもらった本や種やおもちゃを机の上に置き、眺めてから種を手に取った。「何の種と言っていたかしら…?」と首をかしげながらレイチェルはその種をワンピースのポケットにしまう。
後で庭に植えてみようと決め、他の荷物もじゃんじゃん出していき収納を続けた。
お昼が過ぎてナンシーがレイチェルの家に物資を届けにやって来てくれた。
腕には可愛らしいポストを抱えていて、果物や食材の入った入れ物を紐で引っ張っていた。
レイチェルはナンシーにお礼を言ってから受け取り、2人でポストの設置を始めた、黄色い郵便受けは一目見てすぐわかるし何と言っても超可愛らしい見た目をしていた。うふふ~と笑うレイチェルはポストを手でスリスリ撫でまわして喜ぶ。
「誰かからお手紙とか来ないかしら?あ、毎日新聞が来るんですっけ?」
楽しみね~と浮かれていたレイチェルにナンシーは「新聞はこの辺りだと週に一度しか発行されないんです」と申し訳なさそうに答えた。
週に一度しか来ないのね!?とびっくりしながらも王都とは環境が違うしそんなものか…と納得してしまった。
ポンっと何か思い出したように手を叩くナンシーはそう言えば、と話をする。
「今王都の学園に通っているシドニー様なら新聞を手配してくれるかもしれないです!」
「王都の学校…って……」
「はい聖オリバーライン学園です」
「まぁ!わたくしの弟も通っているの!シドニーさんは何年生なのかしら?」
「シドニー様は今二年生ですよ、確か今度のお休みにはこちらに戻られるはずなので王都の新聞の手配をお願いしておきますね」
ありがとう~!とナンシーの手をぎゅうと握ると彼女は少しだけ耳を赤く染めた。
こうやって少しずつでも打ち解けられたら楽しいスローライフは過ごせるかもしれないわ、とレイチェルは微笑みナンシーの持ってきてくれた食材で一緒にお料理の練習を始めた。
―そう料理、レイチェルは今世料理初体験なのだ。
前世での腕前はどうだったのか、と問われれば目を逸らしてしまうかもしれない。実家暮らしで得意なのは洗濯機を回すことだけだった彼女は今、苦境に立たされている。
包丁を握り小気味いい音を響かせるナンシーの隣で、ガン…ドン…と大きな音を立てながら包丁を上下に揺らす。
「あの、レイチェル様…やはりお料理はまたの機会にしませんか……?」
心配そうな瞳を揺らしたナンシーに声を掛けられレイチェルはふう…と息を吐く、そして「大丈夫よ!」と根拠ない自信の笑みを見せまた息を止めて包丁を握った。
「大丈夫そうには見えないんですって……」と小さな声で言うナンシーの声はその日の夕方まで届くことはなかった。
とん、とん、とん、と包丁を鳴らして切った野菜を見つめる。それを手に取って料理を進めるナンシーの傍に行った。
「ナンシー!見てちょうだい?最初より随分と上手になったと思わない???」
えっへんと野菜を手に持ち胸を張るレイチェルにナンシーは聖母のような微笑みを向けた。
「はい、とてもお上手ですレイチェル様」
料理をする手を止めこちらを見て褒めてくれるナンシーの言葉にレイチェルは嬉しくなって「次は何を切りましょうか?」とお手伝いの続行を願い出た。
ナンシーはくすりと笑って「手を洗って椅子に座ってください、ご飯にしましょう」と言う。
「今日はレッスンは終わりなの?」
「はい、ここまで切れるようになったら十分ですよ?このお野菜はサラダ用なのでこのお皿に盛りつけますね」
「わぁ、これ全部わたくしの切ったもの?」
「そうですよ、レイチェル様の作ったサラダです」
これで明日からサラダを一人で作れますね、と言われ胸が熱くなった。
今世での初料理はサラダ!料理と言っていいのか分からないけど楽しかった!!と目を輝かせてナンシーにお礼を言った。そして2人でテーブルにつき食事を始める。
「美味しいご飯をありがとう、ナンシー!」
「いえいえ、喜んでいただけて嬉しいです」
にこにこ笑い合いながらおしゃべりをしていた時にレイチェルは自分の机の上に置いていた欲しいものリストの事を思い出した。
「あ、ナンシーそうだわ、わたくし欲しいものリストを作ったの!」
そう言って書いていたリストを手渡せばナンシーは中身を確認して頷いてみせた。
「このくらいでしたらすぐに手配可能です……が…この下のはなんですか?」
そう質問されたレイチェルは笑って答えた。
「ペットを飼いたいの、出来れば犬がよくて…でも今すぐにではなくてね、この暮らしに慣れた頃にっていう希望で……!」
「なるほど、だから犬、いつか、と書かれていたんですね」
そうなの、とナンシーの方を見れば彼女は優しい顔でレイチェルの事を見つめていた。
そんな表情は初めて見るのでなんだか照れくさく感じながら「優しい顔しているわ」と指摘した。
ナンシーは「仕方ないです」と答えてから手に紙ナプキンを持ちレイチェルの頬を拭う、頬に何かついていたようだった。
「だって、王都からいらしたお客様がこんなに可愛らしいご令嬢だとは思わなかったので。レイチェル様はこんな田舎にいらっしゃるような方ではないでしょう?」
「え、そうかしら…?」
「療養のためとは聞いていますが、それにしても元気いっぱいですしね」
確かに走り回っていた日中の事を思い出してレイチェルは苦笑いした。
「ロベイラ様から王都の伯爵家からお預かりしているご令嬢なので特別親切にするように、と聞いてどんな我儘令嬢が来るのかと気構えていたのに…ほんと拍子抜けです」
「あら…もっと我儘に振舞った方がよかったかしら……?」
そう言えばナンシーはニカっと歯を見せて笑った。
「今のままで十分です!」
レイチェルはナンシーに手を差し出す、そしておずおずと上目遣いでお願いした。
「わたくし、お友達が欲しいと思っていたの…そのナンシーはわたくしのお友達になってくださる?」
考え込むようなポーズを取ったナンシーは、きゅるん…と瞳をうるうるさせたレイチェルを見つめて笑いだして「本当に不思議なひと」と言ってから手をぎゅっと掴んだ。
「この土地にいる間だけでしたら、お友達になりましょうレイチェル様」
掴んだ手を握りしめ、離してからレイチェルは満面の笑みをナンシーに向け頷いて見せた。
「嬉しいわ、わたくしの静かな理想の暮らしにあなたという素敵なお友達がいてくれるなんて!」
そう答えるとナンシーは良かったですね、と言って食器を片付けてしまった。
「言っておきますが、私はメイドとしてやることはしっかりやりますので!あと二日に一度しかここに来ませんからね?次は明後日に会いましょう」
きびきびと答えて、耳を真っ赤にしたままレイチェルのお家から出て行ってしまった。その背を見送り手を振ったレイチェルは一人ニヤニヤ笑った。
「恥ずかしがり屋さんなのね?ふふふ」
こうしてレイチェルの田舎暮らしに花を添えるようにお友達のメイドさんが追加され、お料理もすこしずつ…本当にすこしずつ覚えていった。
*****
田舎暮らしを始めてから時間が経ち、なかなかここでの暮らしも様になって来ていた。
今日は朝から前にお庭に埋めた種が目を出し、蕾をつけたので歌を歌いながら水やりをしている。もう少し時間が経てばナンシーがお茶をしにやってくる時間だ。
「みんながくれた種はどんな花が咲くのかしら?楽しみだわ」
ウキウキと体を揺らしながらスカートを翻しクルクルと回って歌う。ここの暮らしはレイチェルにとても合っているようで体調も今のところ悪くなったりしていない、それどころか毎日すこぶる元気なくらいだ。
―きっと空気が綺麗なのね、と笑って空を見上げる。
レイチェルがトエウィースル領で暮らし始めてもう二ヶ月は経っていた。
王都ではきっと聖女様が現れたことをお祝いしたり、自分と王子の婚約が破棄されたりと色々あっただろうな、と想像する。
あくまで想像だけだ、この土地には情報が下りてこないのだ。
新聞も地域の活動やイベントのお知らせばかりが書かれているし、お手紙も全然誰からも来ない。レイチェルには知る手段が何も用意できなかったのだ。
「のほほんと二ヶ月も吞気に暮らしてしまっていたわ…」
そう言いながら部屋の中に戻り水で手を念入りに洗った。
―毎日が楽しい、楽しすぎるのだ。
料理を覚えて毎日自分のご飯を調理する、お外で山菜を採ったりお魚を釣ったり畑の手伝いをして食材を分けてもらったり…ずいぶん伯爵令嬢らしくない生活に馴染んでしまったものだ。
今では香水の香りよりも土の香りの方が落ち着くくらいなのだ。
それはそうとナンシーが来るまでにケーキを焼いてみようと考えていたレイチェルはボールに小麦粉や卵を入れキッチンをウロウロ歩き回りながらかき混ぜていた。
オーブンを温め混ぜ合わせたケーキの生地を型に流し込む。トロトロと流れるのを見つめながらため息をついた。
「お父様やお母様、フィンは元気かしら……」
時間が経てばたつほど自分の最愛の家族の事が心配になる。
大丈夫だとは言ってくれていたけど、王子と伯爵令嬢の婚約破棄なのだ流石に父には多大なる迷惑をかけたに違いない。
今何も出来ずにケーキを作っている自分に嫌気が差す。
ーお父様とお母様宛の手紙には婚約破棄の後に部屋にあるジョルジュ様から貰ったプレゼントを全て返却するようにお願いしていた。せっかく作ったBoxがここで役に立って本当に良かったと思っている。ー
フィンもきっと学園で自分の事について何か言われているのではないかと心配になる。
(お前の姉は婚約破棄されたらしいな~とか言って虐められていたらどうしよう……!)
たった一枚の紙きれにサインしただけで結ばれた婚約なのに、破棄したら自分の以外の人たちにこんなに迷惑が掛かるだなんて思ってもみなかった。
ここにきてゆっくり考える時間が出来て気づけたことだ、不甲斐ない姉でごめんね。と謝罪の手紙を一度フィンリーに送ったのだが返事は来なかった。
怒っているのかしら…と可愛い弟の事を考え胸が痛くなる。
「実家に帰ったらきちんと説明しよう…きっとわかってくれるわ…!」
何も言わずに王都から逃げてしまった姉を許してね。と心の中で呟きオーブンを見つめた。テキパキとケーキの型をオーブンの中に入れていき蓋をパタンとしめる。
「えっと、10分くらいかしら……」
もうすぐナンシーがやってくる時間なので丁度いいわ、と手を叩き綺麗なお皿とティーセットをテーブルの上に並べた。
このセットは実家にいた時からのお気に入りでこちらにも持ってきていた。
ふふん~と鼻歌を歌いながら準備を進めているとドアを叩く音がした。
慌てて玄関の方へ向かい扉を開ける。
そこには、視界いっぱいにお花が広がっていた。
「わふ………」
もふっと顔面を花に埋め、驚きながら一歩下がった。
何が起きたのかと慌てて回りを見渡せばナンシーともう一人男の人が前に立っていた。
「レイチェル様、突然すみません!」
「ナンシー!良かったわ…扉を開けたらお花だらけで」
レイチェルが言葉を続けようとしたら、それを遮るように男の人が話始めた。
「本当にルベライトの姫だ!!本物だ!!!!」
そう言って山盛り持っていた花束のようなものをレイチェルに手渡し、手を差し出す。レイチェルは花を何とか抱えながらその手に自分の手を重ねてぎこちなく笑い返した。
「えぇっと…こちらは?」
「あ!すみませんレイチェル様!俺はシドニー・ステンリーです、いつも母とナンシーがお世話になっているようで!」
シドニーという彼はニカっと歯を見せて笑う。
麦わら帽子しか見えていなかったが、綺麗でシックな服ときりっとした顔立ち、よく見ればロベイラにそっくりだった。
「まぁ!ロベイラ夫人の息子さん?初めまして、わたくしはレイチェル・ドルレットですわ、どうぞよろしくお願いいたします」
手に抱えた花を落とさないようにちょこんとスカートの裾を持って礼をすればシドニーは興奮気味にナンシーの肩を揺らしていた。
ナンシーは「痛いですやめてください」と冷たい表情をしたままシドニーの手を叩き落としていた。
「玄関先でお話もなんですし、入ってちょうだい?今ケーキを焼いていたの!」
「確かにいい香りがしますね」
「本当だな!レイチェル様はお菓子作りが得意なんですか?」
「始めたばかりなの、趣味になればいいのだけど」
そんな話をしながらダイニングへ2人を案内する。
先に椅子に座ってもらい、レイチェルはもらった花を花瓶に生ける。そして生けた花をテーブルに飾りつけ、オーブンの方へ走って向かった。
「あちち…」
慌ててオーブンの扉を開いて中のケーキの型を取り出す。こんがり焼けたケーキを見つめレイチェルは香りを胸いっぱい吸い込んだ。
ほんのり甘い香りのするケーキを型から取り出してお皿にのせ布巾を上に被せる。
もう少ししたら切り分けて2人に振舞おうとナイフを台に置いて、用意していた紅茶の茶葉を手に取ってダイニングに向かった。
「お待たせしました、先にお茶を楽しみましょう?」
そう言って用意していたティーセットに手を伸ばせばナンシーがレイチェルの肩を押した。
「ここは私が入れますから、レイチェル様は席に座っていてください」
「でも…」
「紅茶には私並々ならぬこだわりがあるので!」
「ふふ、そうだったわね。ではお願いするわ」
ナンシーに押されながらレイチェルはシドニーの前の席に腰を下ろした。彼と目が合ってニカリと笑みをおくられたので、こちらもにこりと笑みを返す。
「本物のルベライトの姫は上品で可愛らしいな……」
ぼそりと呟く彼にレイチェルは何か?と尋ねる。彼は手を振って何も!と答えていたが顔が少し赤くなっているようだった。
「そういえばシドニー様は今は休暇でお戻りに?」
「あ、そうなんですよ!王都の新聞やら何やらをいっぱい買ってくるよう言われて」
「新聞!!!」
それはきっと自分がお願いしたものだわ!と嬉しくなって声を上げる。声を上げてから少しだけ恥ずかしくて気まずい気持ちになったのでコホンと咳払いをした。
「レイチェル様にこちらを、宜しければ夜にでも読んでみてください」
「夜に?」
「量も多いので、それに………いえ、今は美味しいお茶を頂きたいですから!」
何かを誤魔化すように笑う彼を見て、新聞には自分の事が取り上げられているのだと悟った。まぁ、それはそれとしてこちらが知りたいのはその後の王子と聖女の恋についてなのだ。
夜じっくり読みますわ!と微笑み返しナンシーの入れてくれたお茶を手に取った。
シドニーは自分の事は呼び捨てで構わないと話してきて、レイチェルも好きに呼んで欲しいとお願いをした。出来ればお友達に…と声に出そうとしたところでナンシーに止められたので笑って誤魔化した。
「そういえば、シドニーはわたくしをルベライトの姫と呼びましたよね?」
「はい、呼びましたね」
「わたくしはあまりその名前で呼ばれた事が無いのですが…そんなに浸透している呼び名なのですか?」
「社交界ではみなが知っている二つ名みたいなものですね、俺もレイチェルさんの事はずっとルベライトの姫と呼んでましたし………あ、失礼でしたか?」
「いいえ、なんだか久しぶりに聞いたので…ふふ、そう呼ばれていたなと思い出しただけなんです」
くすりと口に手を当て笑えばシドニーはホワ…と頬を染める。そんな彼の目をナンシーが塞いでレイチェルに向かって笑いかける。
「レイチェル様いけませんよ?この人惚れやすいんです。誰でも好きになってしまうからしっかり気がない事を見せないと!」
シドニーの目を覆ていた彼女の手はそのまま首に下りて行き、ぐいっと後ろに絞められていた。
「いだ、いだだだだだ…!!!」
「え!?大丈夫なのそれ??!」
「大丈夫です、加減してますから」
いだだだだだ…と涙目で訴えかけるシドニーの顔はみるみるうちに真っ赤に染まっていき、ナンシーは仕方ないと手を離した。
「ふたりは…とっても仲良しなのね…?」
レイチェルが困ったように眉を下げながら両手を合わせて笑うと、シドニーはカラッとした顔で頷いて答える。
「そりゃ俺たちは婚約者ですからね」
その返答に思わずフリーズしてから、レイチェルは大きな声を上げた。
「えええええぇ~~~~!?!?!?!?」
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