第二話 図書室の姫君
中学時代を通じ、陰キャとして一冴は過ごした。
鈴宮蘭と出会ったのは、その最初の年である。
六月も初めのこと――雨が続く中、その日は珍しく晴れていた。校庭や中庭には、前日に降った雨が輝いていたのを覚えている。
昼休み――借りていた本を返すために図書室を一冴は訪れた。
そして、カウンターの少女に目が釘づけとなる。
深い栗色の――ゆるやかに波打つ髪を彼女は持っていた。左側髪は耳にかけられ、一筋の栗色がほほに流れている。顔は丸くて小さく、彳まいは大人びていた。
ふっと、彼女の視線がこちらを向く。
一冴は目を逸らし、カウンターへ歩み寄った。
「返却です。」
「はい。ありがたうございます。」
ふしぎな声だった。
風鈴の余韻のように透き通った――おちついた声だ。
今まで見たことのない、きれいな女子がそこにいた。
なぜ、彼女の声が不思議に感じられたかは分からない。だが、いつまでも耳に残った。昼休みの終わりまで視線は何度も彼女を向く。あまり見るのは失礼だと思っても、ついつい目は流れた。
休み時間が終わりに近づく。適当に本を選ぶと、カウンターへと再び向かった――彼女の声を聴くために。
「六月二十七日までです。」
言って、彼女は本をさしだす。
彼女の声を再び聴きたかった。
それ以降、毎日のように図書室へ通う。
週に二度、彼女は図書室にいた。貸し借りのとき以外、声を聴く機会はない。僅かなそのひと時、硝子細工のように澄んだ音色に耳をすませた。
一方、自分の声は少しずつ変わってきている。男子たちと同じように低くなってゆく。そのことが一冴の心を少しずつ蝕んだ。
彼女が二年生だと知るまで時間はかからなかった。
「あいつ知ってるか?」「二年A組の。」
「ああ。鈴宮蘭。」「学園一の美少女。」
男子たちのそんな会話を教室で聞いた。
「もう何人も男が告白して」「全員ふられたって。」
「イケメンもみんな」「男を寄せつけないお嬢様。」
「声も綺麗。」「早見さんみたい。」「高嶺の花。」
「鈴宮。」「鈴宮蘭。」「鈴宮先輩。」「蘭先輩。」
――鈴宮市と同じ苗字なのか。
学校のあちこちで蘭の姿は目を惹いた。
背筋は曲がらない。坐れば紅いスカートがひざに広がり、歩けば栗色の髪がゆらめいた。
蘭を目にすると、ほのかに胸がときめく。そしてすぐに後ろ向きな思いを抱いた。
自分と蘭とでは何もかも違う。声も姿も――髪だってこんなに短い
二学期に入ると、図書委員に一冴は立候補した――蘭に近づけると思ったからだ。
男子の立候補者は妙に多かった。しかし、くじ引きで一冴は当選する。
初めての委員会はその日の放課後に行なわれた。
幸いにも、蘭は二学期も図書委員だった。
最初に、司書が職務を説明する。そのあと、本棚の配置を委員長の蘭が説明した。
「委員では、司書の先生のお手伝ひをすることもあります。また、探してゐる本の場所が分からないといふ方の声に応へることもあります。なので、どのやうな本がどこの本棚にあるか覚えた方がよいでせう。」
本棚の林立する狭間を、蘭の後に続いて新しい委員が行き来する。静かな図書室に蘭の声が響く。
「あとは、どのやうな本が読みたいか意見を募集したり、お勧めの本を紹介する企画を行なったりすることもあります。」
気にかかり、一冴は尋ねる。
「鈴宮さんは、お勧めの本ってありますか?」
蘭は目をまたたかせた。
「お勧めの本ですか――?」
ええ――と言い、一冴は目をそらす。
蘭は少し考えた。
「いろ〳〵とあって、何を紹介したらいゝのか迷ひますが――」近くにある水色の本を手に取る。「これなんか、わたくしは好きですよ。」
とぼけたような顔の犬の陶人形が表紙に描かれている。
「郷土玩具とゆかりのお菓子が載ってゐる本です。どれも可愛らしいですし、懐かしい気持ちにさせてくれるものばかりです。たとへば、ほら――」
言って、ページを蘭は指し示す。
「石川県金沢市の『福徳せんべい』――可愛くありませんか?」
そこには、もなかの殻のような物が写っていた。打ち出の小づちや米だわらなどの形をしており、中には、招き猫やだるま・きつねなどの小さな土人形が入っている。
「このおせんべいは、おもちゃやお菓子が中に入ってゐます。何が出てくるのかは開けるまでのお楽しみです。人形が出てくる時もあれば、金花糖が出てくるときもあります。」
「――きんかとう。」
「同じく金沢市のお菓子です。こんぺいとうみたいですが、招き猫や、こけしや、だるまさんの形をしてゐて、いろ〳〵な色で彩られてゐます。個人的には、人形よりも金花糖が出てきた方がうれしいです。わたくしはお菓子が好きですので。」
「そうなんですね。」
図書委員となったものの、それ以降、蘭にはあまり近づけなかった――図書委員の仕事は、基本的に当番の日に一人で行なうからだ。
少し経った九月の末のことである。
夕方、時雨が降った。
家に帰ったあと、一冴は忘れ物に気づく。なので、学校に一旦戻った。
教室で忘れ物を取り、廊下へ出る。
ふと――実習棟のテラスを歩く蘭の姿が窓の外に見えた。
実習棟は二つあり、教室棟と竝行している。玄関から遠い方の建物は一階の廊下がテラスだ。そこに蘭はいた。二つの建物の狭間へと進み、実習棟の中ではなくその背後に消える。
蘭は帰宅部のはずだ。なぜこの時間まで残っているのだろう。
――ひょっとして、傘を忘れた?
一冴は少し考える。
そして、渡り廊下へと向かった。
もし傘を忘れたのならば、自分の傘を貸そう。自分は濡れて帰っても構わない。しかし、後をつけてきたと露骨に分かってしまってはまずい。
渡り廊下は、体育館やプールなどとつながっている。実習棟と体育館の間は中庭だ――樹々が生え、温室もある。その陰に隠れれば、蘭に知られず様子を窺えるかもしれない。
渡り廊下を進み、体育館へ向かう。
同時に雨は小降りとなっていった。
体育館のひさしの下へ這入る。
同時に、樹々の合間から見た。
裏庭に面したテラスに、蘭と、見知らぬ黒髪の少女がいる。
お互いは向き合い、両手をつないでいた。しかも親しそうに指を絡めている。
二人は目を閉じ、そして顔を近づけた。
唇が触れ合う――しかも見間違いではないほど長いあいだ。
学園一の美少女。見知らぬ少女。栗色と黒の長い髪。二つの紅いスカート。現実で初めて目にしたキスは、一冴が持たない全てを持つ者によるものだった。
同時に雨は上がってゆく。地上へ差しつつある光の中で、数を減らしながら大粒の雨が輝いている。その静謐な空間の中に二人はあった。