第一話 自分が男だと気づかなかった
――恋に先立つ失恋といふものがあります。
のちに、その一文を一冴は何度も思い返す。
――生まれながらにして彼女は失恋を定められてゐたのです。
令和の女子高生が書いた文章だ。しかし全て歴史的仮名づかいである。そして思い返すたびに、沁みるような痛みが胸の奥に奔った。
一冴が生まれた街を鈴宮市という。東京からさほど離れていない地にある港町だ。
幕末の頃から、欧米との交易で街は栄えた。ゆえに紅煉瓦の建物が多い。街の至る処では、潮風と共に異国の香りがした。加えて、路面電車がいまだ営業している。
一冴の父は、そんな街で貿易業を営んでいる。父と母と、妹の佳倫との四人暮らしだ。
五歳まで、自分が男だと一冴は気づかなかった。
幼い頃、一冴と佳倫は双子のように仲がよかった。おそろいのぬいぐるみを抱きしめ、同じ布団にくるまって寝て、同じ物に興味を示した。佳倫は、一冴にとって初めての友達だったのだ。
佳倫の髪かざりがほしいと言うまではよかったかもしれない。しかし、佳倫と同じ髪にしたい、佳倫と同じ服がいいと言いだし、ようやく両親は呆れて男女の違いを教える。
「かずさはおにいちゃんなんだから。」
そう言って、泣きわめく一冴の髪をばっさり短く母親は切った。
「おとこのこならみじかくしなきゃだめでしょ。」
一方、小学校に入った頃から妹は髪を伸ばし始めた。
他人よりも細く、癖がない髮。やがてそれは腰に届く。時としてふわりと拡がり、頭の動きと共にゆらめいた。
――あんな髪が僕にはない。
テレビアニメは佳倫と同じものを見ていたし、おもちゃも同じ物で遊んだ。両親は、男の子らしくなさ過ぎると思ったのか、少年向け特撮ヒーローものを一冴に見せる。すると、佳倫も一緒に見はじめた。一時間後、一冴は飽きてテレビから離れ、佳倫が画面に貼りついていた。
「かずさ、女の子とばっか遊んでて超きもい。」
小学三年生のある日、菊花からそう言われる。
それをきっかけに、男子からは揶揄われだした。行為はエスカレートし、激しい苛めとなる。筆箱をサッカーボールにされ、髪を掴まれて引きずられ、ランドセルを切り刻まれた。
しかも――ついでに菊花も苛めに加わっていた。
それ以降、女の子らしい物を一冴は避けだす。「僕」と言うのもやめて「俺」と言いだした。結果、あまり苛められなくなる。
やがて、第二次世界大戦で活躍した戦闘機や戦車に一冴は惹かれ始めた。今までにない刺激を感じ、やがてそれに熱中した。やっと男らしくなったと思った父は、戦鬪機のプラモデルなどを積極的に買い与える。
だが、同年代の男子にはなじめなかった。
男子は怖い。髪を掴まれた感触が今も残っている――本当は伸ばしたかった髪を。
だから男子に友達はいない。大抵、教室で一冴は独りだ。
成長するにつれ、佳倫とは距離が開いた。初めてできた友達と疎遠になっていったのだ。それはずっと心の中に引っかかって、残り火のようにくすぶった。
中学に入ると制服を着せられる。
紺のブレザーと水色のネクタイ。男子の制服は素直に格好いいと思った。
しかし実際に学校生活が始まると、引っかかりを抱きはじめる。
当然、同じ小学校の女子たちもクラスには多い。それまでは私服姿だった女子たちが、大人びた少女へと変身している。
紺のブレザーはほぼ同じだ。しかし、胸元の紅いリボンと紅いスカートが違う。長い髪や、ささやかな髪かざりを着けている者も多い。
一方、自分が着ているのは、自分を苛めていた男子と同じ制服だ。
あの髪かざりを着けたい。しかし、自分には似合わないだろう。きっと、戦闘機や戦車などと戯れている方が似合っているのだ。