妖精を生むもの
「、、ララ、一族の、その力を隠し、お前は生き延びろ」
燃えさかる故郷を背に、私は走った。寝るときも放さなかった、大好きだった本を抱きしめながら。私には、力がない。私は、なにもできない。
世界はとっても広いって、お父さんは、お母さんは、この本は、そう言っていた。
やっぱり、空は大きくて、道はどこまであって、どこまで走っても、世界の端に行き着くことはない。
だけど、なんでだろう。
空が押し寄せてくる。
延々と続く道の先、どれだけ進んでも、景色は変わらない。
どうしようもなく、寂しくて、どうしようもなく、一人で。
どうして、こんなにも、私の世界は、狭いんだろう。
みんな、もういないんだ。
この世界に、光はないんだ。
ーーーーーー
イリリア修道院の朝は、日が昇ると同時に始まる。整容と更衣をすませ、それぞれが自室でお祈りを始める。聖堂や回廊の掃除をし、聖書を読む。朝食は固くなったパンをこれでもかとかみ、冷たいスープをすする。再びお祈りをする。それを終えると、シスターによる聖書の授業が始まる。授業の最後は讃歌の練習で締め、労働の時間になる。ベールを脱ぎ、汚れてもいい格好で農作業に精を出す。気づけば日は頂点にのぼっており、再び固くなったパンをかじり冷たいスープをすする。そして再びお祈り、労働、掃除、お祈り、固いパンと冷たいスープ、お祈り、就寝。そして、また日が昇る。
10日に一度、修道服にベールをまとい、近くの町へ行く。道に住んでいる人にパンをわけたり、ゴミ拾いをしたり。森の中の修道院に住んでいる彼女たちは、この日を楽しみにしていた。
「ララ、見て見て」
ひと際小柄なジェムが屈託のない笑顔でララを呼んだ。
「ほら、もうすぐ32年に一度の祭典があるんだって!」とどこで拾ったのか、しわくちゃのチラシを広げてララに見せた。
「『オールワン』?」
「そうそう。ヒトもオルグもゴブリンも、みんなが集まって平和を願うんだって!」
ララは、「ふーん」と答えた。
「ララ、全然興味ないじゃん!」
「こいつにそんな感情ねえっての」
ララのポケットから、真っ白い妖精、シロがひょっこり顔を出した。
「シロちゃん。いたんだ」
「相変わらずちっこいな、ジェム」
「シロちゃんの方が小さいじゃん!」
ジェムのことばに、シロは大きくあくびをすると「昨日ぶどう酒を飲み過ぎた。もう少し寝るぜ」と再びララのポケットに入っていった。一日の9割は寝ているこの怠惰な妖精は、ララが育てたゲンティウスの花から生まれた。
「ジェムさん、ララさん、そろそろ出発しますよ」
清くも美しい声。ベールの下には形のよい艶やかな額があり、麗しき瞳は慈悲に満ちており、その一挙一動、仕草、佇まいには毅然さと謙虚さが共存していた。イリリア修道院きっての秀才であり、みんなのお姉さんでもあるイゼである。
イゼに呼ばれ、二人は小走りでみんなのもとへと向かう。
夕日が落ちかけていた。帰り道中、ララの目の端に老人があった。白杖を片手に、もう片方の手で何かを探している。そっと一団から抜け「大丈夫ですか?」と話しかける。老人はララの声に反応し、顔を上げる。目には色がなく、ララの方をぼんやりと見ている。
「ええ、大事なものを落としまして。鎖のついた十字なんですがね。するっと手から抜けちまって」
と老人は再び辺りを手探りはじめた。
ララは、老人の足下に落ちていた十字を拾う。錆びた鎖に繋がれた、メッキの剥がれた十字は掌ほどの大きさで、その下部分は角がすり減って尖っていた。「どうぞ」と老人の右腕に優しく巻き、掌ほどの大きさの十字をそっと握らせる。
「ああ、ありがとうございます、ありがとうございます、あなたは女神さまだ」
老人は白杖を落とし、祈るように両手をあわせると、その十字のすり減った部分を両手で強く握り、ララに頭を下げた。
「私は、女神なんかじゃ。帰りは、大丈夫ですか?」
「ええ。いつもの道ですんで」
老人はにかりと笑った。黒ずんだ歯が一本あるだけであった。だが、ララにはとても美しい笑顔に見えた。
「じゃあ」とララは再び一団に戻った。ちらちらと、ゆっくりと歩を進める老人を見ながら。
寝ぼけ眼のジェムを支えるように歩くイゼが、そっと戻って来たララに言う。
「ララさん、あなたはとっても優しいのね」
「う、ううん、私のは別に。そういうのじゃなくて」
たまたま困っている老人が視界に入ってしまった。放っておくとなんか嫌だし。あの老人のために、ではない。とにかく私は、優しいなんてことはない。謙遜ではない。ララは本当にそう思っていた。
伏し目がちになるララに
「ララさんは、本当に優しいわ。主もそれをよくご存知よ」
とイゼはふふ、と笑った。
イゼのそばで、ふよりと浮いている妖精があった。シロと同じ、ゲンティウスの花の妖精である。オレンジ色がかったその妖精の体を見て、イゼのイメージとぴったりの色だな、とララは思った。