残花の章
はらはらはらはら……。
枝が揺れるたびに花が散る。
寂れた神社の奥深く、鎮守の森の古桜は今年の役目を終えたとばかりに静かに薄紅色の衣を散らしていく。
そこへ響くのは幼い泣き声。
「ひっく……うぇ……えっ……ひっく」
全てが霞んで見える黄昏の地。
日は西の彼方に沈み、東の空からは夜がじわりじわりと迫りやって来る。誰もが家路へと足早に辿るその時刻、涙を流す幼女が一人、空よりも先に夜が訪れている深い森の中へ足を踏み入れた。
泣き声は止まらない。足元さえ見え難い闇に飲まれたその森で、幼子の歩みは惑うことなく一つの道を進み、桜の大樹の前でぴたりと止まった。
「うぇ……っく……ぐしゅ……」
足元には散り終えた花びらの残骸がうっすらと積もっている。それが盛りを迎えたのは数日前。けれど春の風と雨とを経て、今はもう随分と花は散らされ消え去り、代わりに瑞々しい若葉を茂らせ始めていた。
涙や鼻水でぐしゃぐしゃになった顔を拭くこともなく、幼女は桜の木を見上げれば、その視界には、影に飲み込まれた葉しか見えなかった。わずかに覗ける空は赤。幼女は、それでもぽたぽたと涙を流し泣いた。そして、じっと待った。そこに、それが現れるのを。
逢魔ヶ時。
桜の木の下。
幼子の泣き声。
全てがそれを誘うもの―――果たしてそれはすぐさま現れた。音もなく、桜の木からそれは出現する。
――鬼。
夜が迫る闇の中。
闇色に染まる葉桜の下で泣いている子の前に現れた。
闇に浮かぶ、真紅の炎。鬼火と呼ばれるそれを背後に異形のその存在は、小さくか弱げな幼女に鋭く尖る爪をもつ手を伸ばすと――その頭をやんわりと撫でて、溜息を一つついた。
「ヒナ。泣くなら他で泣け。なんで俺のところに泣きにくるんだ」
憮然とした声音で、幼い女の子ーーヒナの頭をかき混ぜつつ、優しい眼差しを浮べる鬼にヒナと呼ばれた幼女は泣いていたのも忘れ、にぱっと笑みを浮かべるといった。
「でも泣かないと、桜のお兄ちゃんに逢えないんでしょ?」
全く邪気のない声でそう告げて、涙で濡れる瞳を真っ直ぐとこちらに向ける。
(はぁー。まったく俺も甘いな……)
そう思いながらも鬼は、ヒナの前に現れた。
弱いのだ。
大体鬼は、否応無しに惹かれるものなのだ――人の子の泣き声に。生命力の溢れる幼子の泣き声に、ついつい心が惹かれてしまう。
それにこのヒナは特別だった。
自分の存在を知りつつ自分が何者であるか知りつつ、怯えることも怖がることもなく、ここへ訪れてくれるかけがえのない存在。そんな子が、泣いているのを放っておくことなどできはしない。だが、それはやっぱり『甘い』というものなのかもしれない。
「今回は、どうして泣いてたんだ?」
住処としている桜の木の手ごろな枝に腰かけると、その隣に座らせたヒナの顔を自前の手ぬぐいで拭ってやった。
始めのうちは、服の袖で拭ってやったりもしたのだが、そう頻繁に泣かれに来られれば、それ専用のものが用意されてしまうものだ。
ぐしぐしと手荒く拭ってやれば、泣きはらして、びちょびちょになっていた顔も少しはましになる。
どうして自分がこんな面倒をみらなければいけないのかと、時々本気で悩んでいたりもするのだが、仕方が無い。これも慣れだ。
「ありがとう、お兄ちゃん」
それにその後、まだ真っ赤になってる顔で、にぱっと無邪気に笑ってくれれば悪い気はしなかった。
ヒナは、枝から落ちるのが恐いのか、きゅっとしっかりと自分の服にしがみついていた。
鬼は、手ぬぐいを手近な枝に向かって無雑作に放り投げるとと、その身体にしっかりと腕を回し落ちないように安心させると、その顔を覗き込んだ。
「で、泣き虫ヒナの泣いてる理由はなんだ?」
そうからかう口調で言えば、自分の言葉が気に食わなかったヒナは、柔らかな頬に空気いっぱいつめた。ぱんぱんに膨れ上がりふくれっ面になる。
「泣き虫じゃないもん!」
「ほぉ。それなら、この泣いた跡はなんなんだ?」
顔をぬぐってやったが、それでもまだ目や頬は真っ赤に染まっている。その頬を爪の先で優しくつついてやれば、ぷくぅと空気を入れて膨らました頬が、音を立てて唇から零れた。
「ぶぅー。だって、おばあちゃんが……」
「ヒナのおばあちゃんがどうした?」
先を促せば、ヒナは、再び泣きそうに顔を歪ました。
「……おばあちゃんが、鬼がいる森に、もう遊びに行っちゃ駄目だって。危ないから」
うるうると再び瞳を潤ませるヒナに、自分は、その顔に再び手ぬぐいを押し付けた。涙を拭えと促し、そうしてその背に回していた手で、宥めるように優しく背中を叩く。
この幼女に泣かれるのは苦手だった―――否、この子に泣いてもらいたくはなかった。泣く存在に惹かれるくせに、どうにもこうにも、この泣き顔に弱い自分がいるのだ。
泣けば涙を拭い、その涙の原因を取り除きたくなる。
いつもは姿を表せば、その涙も止まるが、今回はーーーー。
「あー、そういうことか……」
泣く原因を聞かされ、歯切れ悪く言葉を濁した。彼の祖母がなぜそんなことを言ったのか分かるからだ。だからこそ困惑してしまう。
きっと祖母も本気で鬼に逢っているとは思わないだろう、知っていたならば何があろうとここへ大切な孫は来させない。
そうではなくても夕暮れの、すぐに闇が迫り夜となる時刻に幼い子がひとり誰も訪れないような寂しい神社に来ることなどよしとしないだろう。 ふっと溜息にも似た息を短く吐くと、口を開いた。
「お前の祖母は、お前を心配しているんだ。ここへ来る時間は遅いだろう? 帰りは暗くなっているし、大体最初に会った時なんてお前の祖母が探しに来たぐらいだ」
最初の日以外は、比較的早めに帰るように促しているから、探しに来るまではないようだけれど、それでも孫が遅い時間に帰るのは心配だろう。
なにより、孫に言い聞かせる言葉にほんのわずかでも真実が含まれているかもしれないと危惧しているのならばなおさらだ。
鬼は本当に幼子を喰らうのだ。
ああ、だが、その真実は口には出せない。
だから鬼は、ぽんぽんとあやすように頭を叩きそう言えば、ヒナは不満げな表情で自分を見つめた。
納得してない顔だ。
それでもこの子に決して真実など話せはしない。きっとこの子は、知らない。自分がどれほど、目の前にいるヒナを『美味しそう』と思っているのか。その身を喰らいたくて涎を垂らしているかを。
「でも、ヒナはお兄ちゃんに会いたい……」
ああ、なんて嬉しい言葉を言ってくれるのだろう。それだけで顔をほころばせる自分がいる。胸がトクトクと嬉しそうに跳ねる。
けれど、いつまでもこうして会うことは出来ない。そうしたくても出来ない理由があるのだ。
「でもな……」
――ぐぅぅぅー。
そこまで言って、自分のお腹の中から凄まじい音が聞こえてきた。言葉を紡ぐのを止め、とっさに、腹を押さえれば、それが何の音なのか、ヒナさえわかってしまう。
「お兄ちゃん? お腹すいてるの?」
きょとんとした顔で、こちらを見上げるヒナに、ばつの悪い表情を浮かべて頷いた。
「ああ」
腹は減っている。もう食事時なのだ。そう腹は、催促している。
いつもより早い要求。
苛立ちを覚えるが、仕方なかった。それは、眠っているよりも、こうして起きる時間が増えたせいなのだから。活動期間が長ければ、それだけ腹の減りは早くなる。
ああ、なんて忌々しい。どうして自分は鬼なのか。そんなこと生まれてから一度も思ったことがないのに、今になって我が身が厭わしく思うことがあるなんて。
「あのね、ヒナ、飴玉ならもってるよ。食べる?」
ごそごそと自分のポケットを探るヒナに、その手を止めた。
「いや、遠慮する。俺は、これを飲むから平気だ」
人の食い物は自然物以外、口に合わない。加工された物の中には、自分にとって毒となりえるものまであるのだ。
ヒナの好意を首をふって断ると、桜の幹に手を突っ込んだ。幹に当たるはずの手は、何でもないようにスルリと幹の中に吸い込まれ、そうして再び出た時には、蓋がついた瓢箪と素焼きの杯が一つ手の中にあった。
「なぁにこれ?」
不思議そうに、でも興味深々といった感じで見つめるヒナに、口の端が少し持ち上がる。
にぃと笑った自分は、キュポンッ、と音立てて瓢箪の栓を口で抜くと、トクトクと音を立て、その杯に中身が注がれる。
「桜水だ」
「桜水?」
白杯の中には、うっすら紅が混ざった透明な液体が揺らぐ。甘い匂いがほんのりと辺りに漂った。
杯を上から覗き込むヒナをかわし、口元まで持ち上げると、きゅっとそれを飲み干した。とたんに、かぁと腹の中が熱くなる。ぐぅぐぅとなる腹の音も収まった。
その様子を好奇心いっぱいにじっと見つめているヒナに、顔をむけるとにんまりと笑ってみせた。
「一口飲んでみるか?」
再び杯に桜水を注ぎ、そう言うと、興味津々だったヒナは、ぱっと顔を輝かす。
「うん!」
その返事に、杯をヒナへと渡せば、両手で零さぬように真面目な顔つきで受け取ったそれを、自分の真似なのか一気に煽った。
ごくん――ぽとん。
桜水がヒナの喉を通ったあと、空になった杯が、ヒナの手から零れるのを慌てて掴めば、今度はぐらり、と大きく身体をゆらし落ちていくヒナの体に、急いでそれも抱きとめた。
「ヒ、ヒナっ!」
「にゃ……にゃんか、へんだぉ……おにい………たん」
真っ赤な顔に呂律の回らない舌でそう言ったヒナは、そのままこてんと自分の腕の中で意識を失った。
「ヒナ?」
驚いて、その身体を揺さぶれば、すぅすぅとなんとも健やかな寝息が聞こえてきた。
「――はぁ……なんだ、眠ってるだけか。それなら大丈夫だろう」
力なく自分の腕の中で眠る小さな存在は、顔を紅潮させ、へちゃとしまりのない笑顔を浮かべたまま、深い眠りについていた。
ぽりぽりとこめかみを掻きながら、鬼はそれを見下ろす。
つい鬼の飲物を人の子であるヒナに与えてしまったが、どうやらまずかったようである。
桜水はただの水ではない。人にとっては酒にあたるものだ。もっとも普通の酒とは作り方は違うのだが、味や匂い、含まれる酒精に代わりはない。だから人にとっても毒ではないのだが、よくよく考えてみれば、小さな子に酒は与えてはダメだった気がする。それならば桜水もダメなのだろう。とはいっても、もう手遅れなのだが。
人の世から久しく外れすぎていて忘れていた。
「俺には美味いが、ヒナには早すぎたか」
昔、数度だけ、この『桜水』で、人と杯を交わしたことがある。誰もが気に入ってくれたけれど、相手は十分な大人ばかりだった。だから、幼い子供には、酒を飲ませてはいけないということをすっかりと忘れていたのだ。
倒れたのは驚いたが、寝ているだけならば問題ないだろう。
腕の中にある小さな宝物を落ちないようしっかりと抱き抱える。とたんに立ち上る、甘い香り。
―ーぐぅぅぅー。
再び、唸るような音が聞こえてきた。
ヒナの鼾ではない。自分の腹からだ。ヒナから立ち上る甘い香りを嗅いだとたん鳴りだした。節操のない腹だと、苦笑を浮かべながら、瓢箪に口を当てると、杯にも注がずそのまま飲み干した。
それで腹の虫を黙らせたい。
――ぐぅぅぅぅー。
けれどまた、腹が鳴った。先ほど桜水を飲んだばかりなのに、腹立たしい。もう、どうしても誤魔化しがきかないのだ。わかっているのに空しい。
自分の腕の中で無防備に眠るヒナを眺める。
柔らかく無垢な存在。温かく甘くーー美味しそうな……。
無意識にヒナの柔らかな頬を指で撫でる。
(……大丈夫。俺は食べない)
それだけは、決めていた。
ヒナを抱いているその腕に力もこめる。優しいぬくもりは、いつだって心を満たしてくれていた。決して腹を満たしてはくれないとしても、それはとても幸せなことだった。だから、これを失うようなことは絶対にしないと自分は決めた。
他のもので飢えを満たすことも考えたが、けれど、それも出来なかった。いつの間にか美味しそうだと思えるのはヒナだけで、他で満たすことに嫌悪感すら覚えるほどで、けれどヒナは食えないから、だからもう、覚悟は決めたのだ。
「大丈夫」
自分は、笑ってそう呟く。
ころり、と手の中の飴玉がころがる。いらないと言ったがヒナに、押し付けられたのだ。お腹すいた時に食べて、と。
その優しさや気遣いが嬉しかった。
ころころ転がる飴玉を口の中に放り込む。ガリッとひと噛みすれば、ざりざりとした感触が舌の上に広がる。
「苦い」
感想はその一言だ。
甘いと言われたそれは、鬼の舌には甘味などいっさい感じられなかった。ただひたすら痺れるような苦みが広がり、それを桜水で無理矢理のど奥へと流し込む。
けれど腹の内におさまれば、とたんに腹がぐるると不満げに唸るのに、忌々しさと侘びしさが入り交じる。人の食い物が鬼の口には合わないことを身体が訴えるのだ。
「ああ……」
なにげなく空を見上げた。夕闇はもう間近に迫っている。葉桜が視界の端に見える。もう大部分の桜は散った。残ってはいるものの今晩で全て散るだろう。
出会ったのは、この桜が満開の時だった。
長い時を生きる自分の中の時間に比べれば、それはほんのわずかな時間でしかなかったのに、その短い時間の間に、この子からは色んなものをもらった。
自分が欲しがっても得られなかったものを。満たされたかった思いを満たしてくれた。
ヒナがいなければ、自分が寂しかったことにすら気づかなかった。寂しくて冷たく凍っていた心は、今は溶け出し温かい。
(それで、満足じゃないか。なにを後悔することがあるだろうか)
何もない。
自分は今、とても幸せだ。
「このまま消えたとしても、後悔など――」
その先の言葉を飲み込んだ。腕の中の存在が、身じろぎを始めたからだ。
聞かれなかっただろうか。先ほどの言葉は……。
大丈夫だ。ヒナは、自分が抱いているのだと知ると、無邪気に抱きついてくれた。
「目覚めたなら丁度いい。そろそろ帰る時間だぞ」
「うん」
空はもう闇に覆われている。逢魔ヶ刻は終わりを告げている。
鬼は、ヒナを抱きつかせたまま、桜から飛び降りた。足下はもう影すら映らないくらい夜の気配に満ちている。
何度も遊びに来たおかげで、すっかりなれてしまった鬼火を出してあげれば、それをお供にひとりで帰れるからと、ヒナは、少し名残惜しげにしつつも、鬼の首から小さな腕を離した。
(お別れか――)
離れようとする、その小さな身体をそっと抱きしめた。
(ああ、温かい)
それはとても愛しくて、愛しくて……哀しい。
人の身でないことが哀しいと思ったのは、初めてだ。
「好きだよ、ヒナ」
赤い瞳の中に可愛い愛しい幼女がいる。狂おしいほどの飢餓が腹の底からわき上がるのに、愛おしくて守りたい想いがそれを凌駕する。
「ヒナも桜のお兄ちゃんが大好きだよ!」
包み込む身体が、逆にぎゅっ、と自分を抱きしめる。わき腹にかろうじて届く腕は細くて、押しつけられた身体は小さくてか弱くて、けれどとても温かく優しい愛くるしい存在。ふわりと立ち上る甘い香りに、飢えで溢れるそうになる生唾を飲み込み、さらに抱きしめ返す。
(愛してる)
思いを込めて小さなつむじに唇を落とし、ヒナから身体を離すと、心から願う言葉を告げる。
「泣き虫ヒナ。もう、ここに泣きにきたらダメだぞ」
「そんなに泣かないもん」
むぅと頬をいっぱいに膨らませて、そんなことを言うヒナに、鬼は笑みを浮かべその頬に触れた。もう涙の跡は消えている。
(そうだな。もう泣かないで欲しい。泣いても、俺はその顔をぬぐってやれないから)
木にかけた涙を拭うための手拭いは、今日でお役ゴメンになって欲しい。
たぶん、きっともう一度泣くことは間違いないとわかっていても願うのだ。
そこに自分がいないと分かっているからーー。
「桜のお兄ちゃん、またね!」
明日も同じ日々があることを疑わずに、次に会う約束を含んだ別れの言葉をヒナは紡ぐ。そして、小さな手を思い切りあげて、こちらに向かって振ってくれる。いつもと変わらぬ別れの挨拶である。いつもならば、自分もまたそれに応えるのだけれど、けれど今日は、それは出来なかった。
「さよならだ、ヒナ」
初めて使う言葉である。
また――とは、いえないから、そう別れの言葉を口にする。
鬼は、人とは違い嘘がつけない生き物なのだ。だから、次の約束は出来ない。守れない約束は口には出せない。
初めての言葉に、きょとんとするがヒナにはこちらの意図など読めない。読ませる気もないから説明などしない。
笑顔が浮かぶのは嘘偽りではなく本心からーーヒナに会えたことを後悔していないため。これが最後だと分かっていてもーー。
「うんっ。ーーさよなら、桜のお兄ちゃん!」
それに、ヒナは元気な声で返してくれた。
ありがとう。それだけで、十分だった。哀しい別れなんて必要ない。
その姿が、闇に消えてもまだ、自分はその場を見続けた。
ざわり。
葉桜が風に揺れてざわめく。かろうじて残っていた花びらが、桜木に別れを告げて、ひらひらと空に舞う。
老いた桜木は、それでも毎年毎年こうして花を咲かせ、葉を茂らせ、散っていく。季節はこんなにも美しく鮮やかに移ろいでいく。
あの日、満開の桜の日に出会ってから、どれだけの幸福を手に入れられただろうか。
これまで生きていた年月を考えれば、それは瞬きほどの時間しか経っていない。なのに、その全ての年月よりも、この数日の方が鮮やかに色付き、自分の心は満たしてくれた。
トクトクトク……。
桜の幹に背を預け、杯に桜水を注いだ。
桜色に澄んだ液体は、風に揺られ小さな波紋がいくつも生まれる。それを覗くと、赤い瞳に桜色の髪、そして角を持つ異形の顔が映っていた。鬼の顔だ。人に恐れられる存在のくせに、そこにあるのは、笑っているような泣いているような、どちらともつかぬ情けない顔だった。
――ぐぅぅぅぅー。
腹が鳴る。
腹が減った。
腹の中は空っぽだ。
「お前は、幸せか?」
自問自答。
けれど水面の自分は答えてくれない。
――ぽとり。
代わりに覗き込んだ杯の中に何かが落ちた。小さな波紋を広げている。
「んっ? 鼻水か?」
乾いた鼻をこすって、何事もなかったように杯の中の酒を飲み干した。
――ぐぅぅぅぅー。
空しい音が、腹に響く。力はほとんど入らない。限界がきたようだった。
カラン……。
杯が手から零れ落ちる。拾う手は伸ばされなかった。お腹の中はもう空っぽで何も入ってはいない。けれど、心は満たされたままである。
「ありがとう……ヒナ」
愛しい子の名を口にする。
――ぽとり……ぽと、ぽとり……ぽとっ。
満ち足りた身体から熱い雫が零れ落ちる。何だと思いつつ、拭うそれが、目から流れているのに初めて気がついた。
ああ、なんてことだろう。それが『涙』と呼ぶのだと、今、ようやく気付いた。
鬼も涙を流せるのだ。
長い時を生きていて誰も教えてくれなかった。自分もまた、知らなかった。
無慈悲とも言われる鬼にも涙を出せるほどに心を揺さぶられることがあるのだ。
それを与えてくれたのは、桜咲く頃出会えた小さな愛しい子だった。
その出会いに感謝する。
ほろほろほろほろほろ……ほろり。
涙は止まることはない。
目頭が焼けるように熱い。
視界が歪み何も見えない。
腹が空いてスースーする。
けれど、はぁ、と満足げにため息をついた。
「ああ、胸がいっぱいで幸せだなぁ」
ゆるりと浮かべた笑みが、闇に溶ける。
鬼の棲む桜の木から、最後の花びらが散った。