花風の章
くるくるくるくる――。
風が舞う。
夕暮れの森を巡る、花を散らす春の風。それと一緒に、パタパタパタと小さな足音が聞こえてくる。存在を忘れかけられている傾きかけた社の裏手にある、桜の大樹に棲み長い時を微睡む鬼のところへ向かってきていた。眠りの中にいた鬼は、目は開けないままその音に耳を傾ける。
夕闇迫る黄昏時。
足元は薄暗く、年季の入った樹木たちに占拠された森は、根が地面から隆起している箇所も多々あった。
(危ないぞ)
半分覚醒している頭の中で、そんな警告が現れる。しかし、口で伝えられないそれに、闇に誘われるように徐々に近づいてくる足音が止まるはずもない。近づけば近づくほど、森は深くなり足元は暗く闇に覆われ、そして根が大きく張り出しているものも増えてくるそこで、いっそう駆け足となっていく。
(ああ、こける)
そう思った刹那、真下で、べしっと可愛らしい音が聞こえた。
「うわぁ〜〜ん」
とたんに、サイレンが鳴り響くような泣き声が森全体に響き渡る。その声に驚いて、眠りに入ろうとした鴉が数羽飛び立ってしまった。
「なにやってんだか」
けたたましい泣き声は、自分が宿としている桜の木のすぐ真下から響き渡る。闇夜も見通す真っ赤に染まった自分の眼には、古老の桜が張り出した根に思い切り躓き、うつ伏せになって倒れているヒナの姿が見えた。桜色に染まった髪を乱すように、諦めたふうに首を振った鬼は、盛りを終え、零れるばかりの花びらのごとく、ふわりと地面に降り立った。
「泣くな、ヒナ。お前がこんな時間に、こんなところに来るのが悪いんだろう」
豪快にも、ほぼ倒れた状態のまま泣いていたヒナの首筋の襟に、長く尖った爪先を引っ掛けて、猫の子をつまむようにして起き上がらせる。
「はぁ、ひどいな」
そうして、ようやく正面を向いたその顔に、鬼は盛大に顔を顰め天を仰いだ。
汚い。
たった数分のうちに、涙と鼻水を大量にあふれ出したヒナの顔は、最初にこけた時についた土と交じり、どろどろのぐちゃぐちゃ状態だった。
「……お前、ちょっとは考えて泣け」
そう言いながら、前と同じように着物の袖で顔を拭ってやろうとして、しばし鬼は動きを止めた。
やめた。これを拭えば自分の服も着替えねばならぬくらい汚れてしまう。
鬼は、ねぐらとしている木の幹に手を置くとそのまま手を突っ込んだ。ずぶり、と幹の中に手が沈み込む。手首まで完全に消えたと思ったら、すぐに引っ張り出されるが、その手には先ほどまで持ってなかった桜色に染められた手ぬぐいが握られていた。
それをそのままヒナの顔に押しつける。ぶぅ、と変な声がヒナからもれるが、気にせず真っ黒になった顔を丁寧に拭えば、まだ、本日は泣き声しか聞いてないヒナの口から言葉がもれた。
「ありがとう……桜のお兄ちゃん」
「どういたしまして」
すっかり顔を綺麗にし終えた後、自分の行動を振り返って呆れてしまった。
これで二回目だ。
(……なんで、姿を見せたんだか)
ここ数十年、人には滅多に姿を見せなかった。存在など感じさせず、ただ生きていくための糧を得る時だけ姿を現した。そのたびに騒ぎになったけれど、もうここ百年ばかりは鬼の存在など信じていないようで、誰も本気で鬼を探すことはなく、鬼もまたことさらその姿を誇示することもなく、ひっそりとこの古老の桜に寄生するように生きてきたのだ。
時代が変わったのだ。鬼などという存在は、もうお伽話のようなものである。
それでよかった。
その方が良かった。
ゆっくりとこうしてただただ漫然と時を過ごすのも悪くない。けれど、そうさせてくれないのが、出会ってしまったこの小さな人間だった。
「なんでここに来た。こんなところに来ずに、友と遊べばいいだろう」
友達はいたはずである。もっとも、この間は喧嘩をしていたようなので、それ以後仲直りをしたかどうかはわからないが、この年の子供達は、仲違いなど長く続かないものだということは知っていた。案の定、ヒナは、こくりと頷いた。
「遊んだよ、今日も。でもヒナは、桜のお兄ちゃんに会いたかったの」
その言葉に、とくん、と何か胸の奥で弾む。
「俺に会いに?」
「またね、っていったでしょ?」
確かに聞いた、その言葉。あれは、まだ記憶に新しい二日ほど前のことだ。喧嘩をし負けたのか、盛大に泣いていたこの小さな人間の子供に姿を見せた。
おかしなことに、自分のこの異質な容貌に怖がるそぶりはまったく見せず、それどころかすっかり懐いてくれた。そして別れ際に、その子供は言ったのだ。
『またね』と。
その約束は、果たされた。再びその子は、ここへ来てくれたのである。
「だからといって、こんな時間に来ずとも」
もっと明るい時間に来れば、こけずにすんだはずである。
ひらり、と頭上から花びらが零れ落ちてくる。夕暮れの風が、花びらを散らしている。
頭上の桜は、盛りを迎え、後は散るばかりである。こうやって話をしている間も、雪のようにちらりちらりと降ってくる。薄闇の中で散る風景は物悲しくて、こんな幼い子が見るべきものではない。
それなのにこの子は、なぜこんな時間に、自分のところへやって来たのだろうか。
「だって、この時間じゃないとお兄ちゃん出て来ないんでしょ?」
だから来たのだと、威張って告げてくれるヒナに、鬼は、呆れたような笑みを浮かべるしかなかった。
この間もそうだったが、祖母のいいつけは、しっかりと覚えているようである。しかし、守られているわけではなかった。むしろ、鬼と会える都合のいい方法だと思ってしまったようである。
けれど、祖母の言葉は、本当の意味では真実の話ではない。逢魔ヶ時桜の下で泣いている子の前に必ず鬼が出るかといえば、必ずしもそうではないのだ。
確かに鬼は、ここで子供をさらい食らっていたけれど、泣いている子を食べたわけではない。食べようと姿を見せたら泣かれたのだ。
おそらく遠くで幼子の泣き声が聞こえ、その後姿が見えなくなったために、そんな話が生まれたのだろう。時刻が夕刻なのは、魔物は昼間はじっと身を潜め、黄昏時から姿を表すからだ。桜の時期に子を喰らったのは、桜の時期に目を覚ましている時が多いから。たまたまだったのだが、ヒナの祖母の言葉通り自分が姿を現してしまったから、余計に誤解を生んでしまった。
「……そういうわけじゃないんだがな」
いつでも姿を見せることは可能なのだ。
認めたくないが、この時間でなくてもこのヒナがくれば、自分は出てくることは間違いなかった。なんだかんだ言いつつも、自分は、このヒナを気に入ってしまったのだ――食べることを諦めてしまうくらいに。
「だから、今日も桜のお兄ちゃんに会えてうれしい」
率直過ぎる言葉をどう受け止めていいかわからない。面映い気持ちを玩ばせながら、じっと自分を見つめる瞳を指差した。
「けど、いちいち泣くなよ。目が真っ赤だぞ」
顔を拭う時に泥も一緒に拭ったために、擦りすぎたのかもしれないが、目元も頬も、同じように真っ赤になっていた。
泣いて擦られ真っ赤になった瞳を、ヒナは、ぱちくりと大きく瞬きさせた。
「桜のお兄ちゃんと同じ赤い色?」
その他愛のない質問に、今度はこちらが目を見開かされる。そんな自分に、ヒナは嬉しそうに笑って言った。
「同じ色なら、ヒナはうれしいよ。お兄ちゃんの目、とってもキレイな色をしているから、大好き!」
「この色がか?」
思わぬ言葉に、自分の瞳をまぶたの上から指を這わせながら、なんともいえぬ表情を浮かべてしまった。
この下の色は、真紅だ。血のような毒々しい赤い色をしているのである。人とは違う色だ。だが、こんな色をこのヒナは、気に入ってくれていたのだろうか。
「うん! ヒナの大好きな真っ赤なリンゴさんの色だし、それに今日の夕日もそんなキレイな色をしてたよ」
「ッ!」
無邪気な言葉。真っ直ぐに向けられる視線が、息が詰まり苦しいほど眩しい。
「ああ」
思わず漏れる吐息。それがどれほど嬉しいかなんて、この無垢な幼子にはわからないだろう。ともすれば、その背中が折れるくらい抱きしめたいぐらい愛しさを感じてしまう。
「そうか」
「そうなの!」
跳ねるように頷くヒナの小さな頭を、壊れ物に触れるように、そっと撫でた。くすくすくすとその下で嬉しそうに身を震わせ笑う子が、愛しくて愛おしくてたまらない。同時に、熱い何かに胸が満たされた。その熱は全身に巡り、目元まで熱がこみ上げてくる。
――――ぽたり。
「あれ? お兄ちゃん、なんか落ちてきたよ?」
顔をあげたヒナが、自分の手を振る。どうやら、そこに何かが落ちてきたようであった。
「花びらか?」
花は風に揺らされ、ちらちらと二人の頭上に降り注ぐように舞っている。けれど、ヒナは小さな首を横に振った。
「ん〜ん、なんかぬれてたよ」
「じゃあ、夜露かもな」
朝方の夜露がこんな夕刻まで残ることはほとんどないが、空は晴れ渡っていて雨ではないし、鳥は飛んでなかったから糞ではなさそうだった。だとすれば、そんなものしか思いつかない。
「そっかぁ」
ヒナもあまり気にはしてないから、その話はこれでおしまいだ。
「ーー大分暗くなってきたな」
どれほどたわいのない会話を続けていただろうか。互いに桜の枝にならび、花盛りの下で言葉を交わしていれば、気がつけば辺りはすっかり夜の気配につつまれていた。どこからか、カァと、寝床に戻った鴉が、眠たげに鳴いている。
「もう帰らないと」
名残惜しげにそう呟くヒナの頭を、もう一度優しく撫でる。こんな仕草を、自分ができることを忘れていた。木から抱いて下ろし、そのまま手を繋ぎ、神社の鳥居まで一緒に歩き、そうしてようやくその小さな手を手放した。
「気をつけて帰れよ」
この間よりも少しふっくらとした月が、空を飾る。足元を照らすには覚束ない光だが、ここまでくれば後は慣れた道筋のためか、今回、お迎えはまだ来ていなかったが、ヒナは怖がるそぶりは見せなかった。
「またね!」
「ああ、また」
元気よく手を振るヒナに、自分もまた、見送るために手を上げた。それを背に、来た時と同じように走って行く。再びこけないように願いつつ、姿が消えると同時に、踵を返し、ねぐらに戻って行く。目はすっかり冴えていたが、棲みかに戻ると、気に入りの枝に寝そべった。
ほろ、ほろり。
夜風に触れられ、花びらが幾枚も舞い落ちる。瞼をかするように撫でていった花びらに、目を閉じる。
今日は、もう眠ろうか。いつ、あの子が来ても起きていられるように――。
どうせ、訪れるのは、また夕刻のような気がするけれど――また、けたたましく泣いてくれれば、寝ていたとしても目を覚ますのだけれど――約束してしまったのだ。
「『また』……か」
誰かと再び会う約束など、もう何百年もしたことはなかった。異形の自分と交流したがる変わり者などそうそうおらず、自分の周りから、いつの間にか消えてしまっていたのだ。だから、もうそんな約束などすることはないと思っていたのだけれど、また会う約束を、小さな子供相手に結んでしまった。
だから、会わなければいけない。
「すごいな……」
そんなことを、躊躇いもなくしてしまった自分が、なんだかおかしくて、鬼は、ほろりと笑みを零した。