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桜花の鬼  作者: 寿桜壱屋
1/4

桜鬼の章


 ひらりひらり、ひらひらり……。

 黄昏時に桜の花が舞い落ちる。

 それを眺める鬼いっぴき。





『良くお聞き。逢魔ヶ時に、桜の下で泣いてはいけないよ。何故ならそこには鬼が出る。鬼が好む時と場所。何より哀しい泣き声こそが、鬼の心を捕らえてしまう。だから、お気をつけ。桜の下で決して泣いてはいけないよ』



「ーーって言われたの。だから、お兄ちゃんは鬼なんだよね?」


 にっこりと邪気のない満面の笑顔を浮かべる幼い幼女を前に鬼は、桜の花びら舞い散る下でほとほと困ったように苦笑いをした。


「――分かってんなら、桜の下で泣くんじゃねぇよ、ちび」


 言いつけは守るもの。そこまでは教わっていなかったのだろうか。言われた言葉をしっかりと覚えているのは感心だが、実際にそれを守っていなければ意味はない。

 ここは鬱蒼とした森の中、見渡す周囲の影は濃く、遮る枝葉からかすかに覗ける空は一面茜色に染まっていた。

 今は、逢魔ヶ時とも、黄昏時とも言うべき時刻。そして背後には、三百年の時を見つづけている桜の大樹がある。春が訪れ盛りを迎えた古老の桜は、幽けし風に触れられて、ほろりと花びらを散らしている。その下で、鬼は呆れの混じる視線を小さな来訪者に向けていた。




 それに気付いたのは、半時ほど前だった

 ここ数年は、起きているとも寝ているともつかぬまどろみの中にいたのだが、幼子の泣き声にその眠りを唐突に破られた。

 誰かに起こされるというのは、何十年ぶりだろうか。

 自分の寿命というのは嫌になるくらい長く、途方もない時の中を生きてきていたが、いつの時代でも、自分は異端者であった。


 異形の存在。

 桜色の髪に、緋色の瞳。そして頭上にある二本の角。


 それを見る者の眼差しはいつでも恐怖に満ち、あるいは嫌悪を露わにしていた。

 自分達とは全く違う人外の者だという、異質を拒絶する冷たい視線。それが嫌でたまらなくなり、いつしか必要最低限の生きる糧を得る以外は、こうしてひと目のつかぬ所で惰眠を貪るようになっていた。

 一体いつからここをねぐらにしだしたのかは覚えてはいない。転々と放浪する中で流れ着いた場所だった。

 時折手入れはされるものの、祭事という祭事もなく、祀ることすら忘れかけられている小さな神社の奥にある山桜の上に、自分は住み着いた。人があまり来ず静かで、寝床にするには丁度良かったのだ。特にこの桜は、幹の中腹に横へと真っ直ぐに張り出した太い枝があり、寝そべるのに具合がよかった。

 しかも、時は春。

 満開の桜を眺めつつ、惰眠を貪るのは文字通り夢見心地。今日とて、散り際を心得た花びらが幾枚か、ひらりひらりと舞うようにその身を散らす様を頬で感じながら良い気分で眠っていたというのに、不意に人の子の泣き声で起こされた。

 たぶん喧嘩したのだろう。少し前、ほんのわずかに広さがある社の境内で、子供達の言い争う甲高い声を聞いた。その後静かになり、子供らは帰ったのだと思った頃、静寂を突き破る泣き声が聞こえてきたのだ。

 泣いていたのは、時折この古びた神社で遊んでいた子供のうちの一人だった。喧嘩中に『ヒナ』と呼ばれていた小さな子供が、自分が眠るこの樹の下で、ぼろぼろと涙をこぼして泣いていた。その泣き声は、友人達が去った後も止まらなかった。

 本当に小さな身体でよくそれだけの力があると感心してしまうほど、大声で延々と泣き続ける子供に興味を持ったのは、ひと目見てから。

 それでも初めはどうにかしようという気持ちはなかった。だが泣き声は収まる気配もなく、しだいに眠りを破られた苛立ちが我慢の限界をむかえ、耳障りなその声を止めようと、驚かせ追い出すつもりで、その子供の前に姿を見せたのが間違いだったのだろうか。

 結果、自分は、涙でべちょべちょになったその子の顔を、自分の着物の袖で拭っていた。


「いい加減に泣きやめ。いつまで泣いているんだ」


 自分がなぜこんなことをしているのかわからない。たぶん、その顔があまりにもみっともなかったから放っておけなかったのだろう。それほど涙で濡れたその顔は汚かった。

 なにより驚くことに、その子は自分の姿を見ても恐怖で歪んだ醜い顔は見せなかった。


「だって、涙がかってに出て来るんだもん」


 ぐしぐしと少し痛いほど顔を拭われるその子は、けれど大人しくじっとしており、終わると同時に綺麗になった顔で、こちらに向かってにこっと笑った。無邪気で無垢な笑顔。こちらは異形の姿を晒しているというにもかかわらず、その子は呆れるほど怯えた様子を見せなかった。


 怖くないのだろうか。


 訊ねるのは簡単だろうが、けれど、その様子を見ているだけで、訊ねるだけ無駄な気がしてきた。怖ければ、とっくに逃げ出しているのだ。

 自分の存在を知らないわけでもなさそうである。幼女には、ちゃんと訓戒を教えこんでいる大人がいるのだ。曰く、『逢魔ヶ時に桜の下で泣いてはいけない』と。そんなことをすれば、何が出てくるかわかっていながら、この幼子は夕暮れの桜の下で泣き、そしてーー鬼と出会った。


「涙が勝手に……ね」


 なんでもないようにそう言われて、鬼は苦笑するしかなかった。当たり前のことのように言われるそれが、鬼にとっては、青天の霹靂ほどにありえないことなのだ。

 だから鬼という存在は、それに惹かれるのかも知れない――人の泣き声というものに。こちらの眠りを破くほど、強い力を持つ感情。自分では、あんなに泣くことなど出来ない。あんな風に全身で悲しみを表せない。何よりも涙という存在が、鬼にはきっと存在しないのだろう。少なくても鬼の自分は一度として、自分の眼からあんな風に塩辛い水を零したことはなかった。

 だから、興味を持ってしまった。泣き声が煩くて苛立ったことも本当だが、考えてみれば、こちらが力ひとつ使えば、小さな身体など声が届かなくなるほど吹き飛ばすことはできた。そうしなかったのは――わざわざ、姿まで見せてしまったのは、その存在に興味を持ったから。近づいて見てみたかったから。そして、全身で泣くという力に溢れたその存在を――。


「食べようと思ったんだけどな」


 ぼそりと呟いた。

 実のところ、そろそろ食事をする時期である。小腹が空いているという頃だろうか。 とはいえ、まだその気はなく、もう少し怠惰を貪ってから手ごろな餌を捕まえて喰らってやろうかと思っていた。そのうちだ。そのうちのつもりだったのだが、今、目の前にいるのは自分の食事として申し分のないものである。

 幼く純粋で、無垢な魂と柔らかな身体を持ち、何より鬼の心を揺さぶるほど強い感情を持つもの。それは、わかっているのだが。わかっているのだがーー。


(こいつは、な……)


 美味しそうか、と聞かれれば、躊躇いもなく『是』と応えるだろう。生命力に溢れた温かく柔らかなその身体は、十分自分の舌を喜ばしてくれそうだ。


「本当に美味そうなんだけどなぁ」 

「なぁに?」


 口中の呟きは、間近にいた幼女の耳には、はっきり伝わらなかったようで、こちらを見上げ、怪訝な表情を浮かばせた。無防備な姿。ちょっと手を伸ばせば、簡単に手に入れることができる餌。

 だが、鬼は首を横へ振った。


「いや、なんでもない」


 それができないことは、もうあの時から、分かっていた。そう、気まぐれを起こして、この幼女の元に降り立った時から――。


『お兄ちゃんも悲しいことがあったの?』


 本当に全てのエネルギーを使っていると思うぐらいに、盛大に泣いていたその子は、けれど自分が姿を現したとたん、ぴたりと泣き止んでそう言った。

 行き成り姿を現した自分を、真っ直ぐと見つめてきた。自分の異彩にたじろぐことも怯えることもしなかったその子は、純粋に自分のことを心配してくれたのだった。

 泣きそうな顔の自分――けれど、それは見間違いだ。自分はただ不機嫌な顔をしていただけだった。

 眠りを妨げられたことと泣き声が煩いことで苛立って、しかめ面の顔で、その子の前に現れた。それなのに、その子は自分が泣いているのも忘れて自分を気遣ってくれたのである。

 しかめ面は何か傷みをこらえているかのように見えたのだろうか。それとも緋色の瞳が、涙で赤くなったと思ったのだろうか。それは大きな誤解ではある。『違う』と一言呟いて、泣き止んだことをいいことに、そのまま姿を消せばよかったのかもしれないが――気がつけば、自分は幼いその子の顔を拭っていた。


「……まいったなぁ」


 ガシガシと自分の髪をかき乱し、苦笑した。

 長い長い年月の中で、人の目に姿をさらしたことなどいくつもあった。

 しかし皆自分の姿に、恐怖に満ちた顔で逃げ去るか、憎しみの瞳をもって向かってきた。

 こんなふうに、自分を心配してくれたものなど、滅多にいなかった。まったく、とは言わない。そんな珍しい人間も過去にはいたのだ。けれど、人と関わることをやめてからは、随分と久しいことだった。

 人は、嫌いではなかった。

 長い長い年月を生きる自分に、興味を与えてくれるのは、人ばかりだったから、人を疎ましく思っても嫌うことはなかった。だが、同じ感情しか向けられなければ飽きがくる。怯えられたり、憎まれたりするのが面倒になって、人の前から姿を消して随分と時が流れてしまったから、色んなことを忘れてしまっていた。

 ああ、嬉しいという感情も忘れていたな。 

 知らぬうちに、温かいぬくもりが心の中を満たされていた。それだけで、なんとなく身体の内側が満足する。腹は空いているのに、胸がいっぱいというのは、なんとも珍しいことだったが悪い気はしない。

 それならば、食べる必要などなかった。


「ヒナ」


 アサヒカワヒナノと名乗ったヒナは、自分のことをヒナと呼ぶ。

 だから自分もヒナと呼んだ。名は体を表すではないのだが、その名の持ち主はまだ六つか七つぐらいの年の頃で、何百年も生きている自分から見れば、卵から孵ったばかりの鳥の雛と大差ないから覚えやすい名だ。

 

「なぁに? 桜のお兄ちゃん」


 代わりにヒナは自分のことをそう呼んだ。

 名前を訊かれたが、名前など、いつどこでどうやって生まれたのかもわからず、目覚めた時からひとりでいた自分にあるはずがないと言えば、幼い頭では理解できなかったのか、不思議そうな顔をしていたが、好きに呼べば良いと言えば、自分の見た目からそう呼ぶことにしたのだと言った。なんと呼ばれても本当に構わなかったから、その名で呼ぶことを許せば、嬉しそうに笑ってくれたから名前の必要さを久しぶりに思い出した。呼ばれるたびに、名で自分の存在を認めてくれるたびに胸の奥がくすぐられる。

 不思議な感覚だ。

 それは嫌なものなどではなく、けれど嬉しいというには面はゆく、されど耳に心地いい。


「どうしたの? 桜のお兄ちゃん」


 慣れぬ呼び名に様々な感情を浮かばせていれば、もう一度名を呼ばれた。ああ、伝えなければいけないことがあったのだ、と思い出す。


「ヒナ、もう夜だ。家に帰らなければいけないじゃないのか?」


 子供というものは、夜は家に帰らなければいけないものだ。本来ならば、そんなことは自分が気にする必要はないけれど、食わぬと決めたのだから、帰さなければいけない。

 手放すのが惜しいと思いつつも、その背を叩いて促せば、ヒナは慌てて周りを見て、それから真っ青になった。今ごろになってすっかり周囲が夜になっていたことに気がついたのだろう。

 辺りはすでに真っ暗だった。

 泣いていたのが夕刻であるのだから、当然である。ここは神社の森の中で、乱立する樹木の枝々がさらに夜より深い闇を湛えていた。今までその闇に気付かなかったのは、自分が光を灯していたからだ。夕闇が深まるとともに、周りを鬼火で囲っていた。闇が迫るたびに、少しずつ数を増やしていた。だから、闇も自分達の周りにはなかったのである。

 それは、この小さな子のため。

 ぼんやりと浮かぶ桜の大木が幻想的で、美しくて、時折こんな風に、鬼火を出して遊んだこともあるけれど、闇を払うために、鬼火を使ったのは初めてである。闇に沈みそうになるヒナをそこから掬うために、こっそりと鬼火を出して光を生み出していた。

 しかし、それが逆にヒナにとっては、時間の感覚を狂わせる結果になっていたようであった。

 気付けばもう、宵闇の中。


(悪いことをしたな)


 そう思ってしまうから、思わぬほど深い闇に気付き、驚いてまた泣きそうになっているヒナに声をかけた。


「恐いなら、神社の鳥居まで送ってやる」


 そんな優しさで作られた言葉を口にするのは初めてなのに、意外なほどするりと出てきた。


(まったく調子が狂いっぱなしだ)


 それでも悪い気分ではなく、ただなんとはなしにくすぐったい気分を味わっていれば、泣きそうな顔をしていたヒナは、その表情をすぐさま変えて笑ってくれた。


「ありがとう、桜のお兄ちゃん」


 その言葉とともに、こちらへ躊躇いもなく手を伸ばされて心底驚いた。本気で身体が震えた。見開いた目で小さな子供を見下ろせば、じっと懇願するように見つめられた。


「あのね。真っ暗で迷子になっちゃいそうだから、ヒナと、お手てつないでくれる?」 


 本当に自分と?

 触れることはおろか、視線を合わすことさえも怯える人との出会いばかりの中で、それはとても衝撃的だった。

 もちろん、その申し出を断ることなんてできなくて、震える手を押し隠して、その子の手とつないだ。長い爪がか弱い人の子の肌を傷つけないように細心の注意を払って、小さく柔らかな手を自分の中にすっぽりと包み込む。

 そこから伝わる暖かなぬくもりは、何かとても大切な物を握っている気持ちにさせてくれた。

 そこからじんわりと伝わる熱が心まで届くようで、ふわふわとした気持ちを感じながら手をつないだまま、ヒナの歩みに合わせて歩いていれば、森を抜ける前に人の声が聞こえてきた。『ヒナノ』という言葉が、聞こえてくる言葉の中に混じる。


「おばあちゃんだ!」


 その声に反応したのは、手を繋いでいたヒナだった。ぐん、と力強く前に引っ張られる。

 声はまだ少し遠くて姿は見えなくても、誰が来たのか分かったのだ。


「お前を探しに来たんだな」

「うん。あのね、おばあちゃんが、お兄ちゃんのことをお話してくれたんだよ」

「そうか」


 無邪気に告げる子になんと言っていいかわからず鬼は、苦笑した。

 桜に住む鬼の話を孫に言い聞かせた祖母が少し憐れに思う。鬼自身にそんなことを思われるのは心外だろうが、しかし、忠告のつもりでした話は、このまだ幼い子には、なんの警告にもならなかったのだから憐れだ。


(この町のものかな)


 あの子にそんな話を聞かせたというのならば、きっとそうなのだろう。森の奥の桜に住む鬼のことは、年老いた者達だけが口にする。それは、自分が何十年かに一度ずつ、この森に迷い込んできた子を食らってきたためだ。

 そのたび騒ぎになって大捜索が行われたが、鬼に食べられた子が戻ってくることは当然なかった。

 もっとも、本当に鬼に食べられたと信じているものは少ないだろう。

 何百年も前ならば、自分達の存在を信じ、退治することを生業としていた者達もいた。だが、もうここ百年ばかりその姿は目にしていない。

 いつのまにやら時代の流れとともに自分の仲間が大勢姿を消したこともあるのだろう。

 誰も鬼の仕業だとは思わない。

 子が消えても、誰かにかどわかされたか、あるいは近くを流れる川に落ちてしまったのか。そんな風に考え、ここまで探しに来ても誰も鬼の姿を探さない。

 それでも、先のヒナが祖母から教わったように教訓めいた言葉は残る。

 真実は分からずとも、その言葉を守りすれば、子を失うことはないと経験で分かっていたから、幼い子達に夕暮れ時には、決してここには近づかないように言い含める。

 だが、それでも獲物はやってくる。この子のように――。

 ちらりと眼下にいるヒナを見る。すでに意識は、迎えにきている祖母にある。何十年と繰り返してきたように、このまま引き裂いて喰らうこともできる。

 けれどそれは――もう、出来ない。


「陽菜乃、どこにいるんだい?」


 ヒナを呼ぶ声が段々近づいてきている。先ほどヒナが応えた声が聞こえたのだろう。こちらへと向かう足音は、かなりの足早だ。手元には光を持っているのか、時折チラチラとかすめるが、森の奥の深い闇までは探れない。

 大事な孫の姿も見えず、声や足取りに焦りが見えている。


「陽菜乃? 陽菜乃、どこだい?」


 孫を探す声はもう近い。

 神社の入り口まで来ているようだ。


「ほら、ここまで来れば大丈夫だろ」


 古ぼけた本殿まで来て、握っていた手を離した。ぽん、とその小さな背中を押してやる。

 まだ周りの闇夜は濃いが、拝殿の近くには古びているが電灯があり、夜になれば明かりを灯している。足元もここまでまで来るとぼんやりと地面が見える。


「うん」


 ヒナは、にっこり笑って頷き、前に走り出す。するりと手から温もりが逃げていく。

 まだ、今からでも遅くはない。捕まえて、攫ってはいけるけれど、その身を喰らって、ずっと一緒にいるということもできるけれど、そんなことはしたくはなかった。そうしたら、自分はきっと自分を一生許せない。何よりも、あの子の笑顔がもう見れなくなる。 

 だから、静かに踵を返した。いつまでもここにいても未練が残るだけだ。なのに次の瞬間、声が聞こえ、足を止めてしまった。


「またね、お兄ちゃんっ!」


 驚いて振り返った自分に、あの子は笑顔で手を振ってくれていた。真っ直ぐに天に向かって伸ばされた手を大きく左右に揺らす。


「またね?」


 問い返す声に、すぐさま返事が返る。


「うん、また。遊びに行くからね」 

「ああ」


 素直に頷く自分が、信じられなかった。

 嬉しい言葉。

 暖かな言葉。

 それを感じながら、ヒナが闇に消えていくまで、じっと見つめていた。

 もうあの子は、ここにはいない。けれど、『また』逢いに来てくれるのだろうか。


(本当に?)


 たぶん、きっと必ず、あの子は逢いに来てくれるだろう。異形の鬼の元へ。そう信じた瞬間、胸の奥で熱いものが膨れ上がり込みあがった。なんの感情だろうか。わからぬままにそれを押さえ込もうと、ぐっと奥歯をかみしめる。


 ――――ぽとん。


「んっ……雨か?」


 俯いた自分の手の甲に、水滴が一滴落ちた。空を仰ぎ見ると遮るものもないそこからは、弓なりなった月と瞬く星達が見えた。

 雲は一つもなかった。


「なん……だ?」


 思わぬ冷たさに胸の奥からわき上がっていた熱い思いも掻き消えた。

 あれは、なんだったのだろうか。わからない。

 わからないけれど何となく嬉しくて――鬼は、満天の空に向かって、ふんわりと微笑んだ。



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