2章②
「さ、始めるわよ。藍駆にはみっちり仕事を仕込むから覚悟しなさい」
大した抵抗もせず、というより大した抵抗をすることも出来ず、兒井獅に引っ張られるままに会社へと到着する。
「少し……休ませてくれ。こっちは……お前と違ってヘトヘト……なんだ」
……歩く速度が遅くなるたびに、大声で助けを呼ぶと脅迫するのは、本当に卑怯だと思う。
おかげで体力だけでなく、精神力すら大幅に消費した。
「貧弱すぎ。そんなんで魔術師やっていけると思ってるの?」
息一つ乱していないお前が異常なだけだろ……それとも魔術師にとってはあんな階段くらいわけないということなのか?
「お二人とも来ましたね」
昨日と同じように朗らかな笑顔で迎えてくれる鈅谷さん。人によってはこの光景に癒しを感じているだろう……だが忘れてはならない。この人が俺の個人情報を全て握っている、閻魔大王だということを。
「鈅谷さん。どうやって俺のことを調べたんですか?」
「…………♪」
お金のジェスチャーをする鈅谷さん……うん。やっぱりこの人は敵に回しちゃいけない。
「藍駆。あんた何で陽子を名前で呼ばないわけ?」
「え?」
「同じ社員なんだから、名前呼びは基本でしょ?」
……基本でしょ? と言われても。まあ、それがここのルールというのなら仕方ない。
「…………それじゃあ、陽子さんで」
「はい。藍駆君」
「お、なら私も名前で呼びな」
これまた昨日と同じように奥の部屋から出てくる喜貴さん。パンツ一丁だった昨日とは違い、今日は上下しっかりと下着を着けている。
「昴さん……服を着てください」
…………まあ、だからと言って目のやり場に困るのは変わらないのだが。
「最後は私! さあ!」
期待を込めた目で俺の言葉を待つ兒井獅。
「……お前なんざ兒井獅で十分だ」
だが、俺はその期待には答えてやらない。
「なんで‼」
「何でも」
……恐らく、明日もこいつは俺の学校に来るだろう。
その時に名前で呼び合ってみろ。俺に向けられる負の声が余計に増えるだろうが。
「まあまあ、きっと藍駆君は幸ちゃんを名前で呼ぶ機会を決めているんですよ」
「思春期の男だからな。自分の女にした時じゃないと、呼ぶ気にならないんだろう」
ちょうどよく誤解してくれる二人。この際どう捉えられても気にしない……わけあるか!
「どうしたらそんな誤解になるんですか⁉ 特に昴さん!」
「……? 私がどう誤解してるんだ?」
「…………それは」
何も言い返せずに口籠る。
流石に本人を前に本音を話すのは……だからと言って早く何か言わなければ、肯定していることになってしまう。
「……藍駆。名前で呼ばなくていいから」
以外や以外。俺に助け舟を出したのは兒井獅だった。
「まあ? 私が藍駆のか、彼女になるなんて? 万に一つも無い話だけど? とにかく藍駆が私を名前で呼ぶことについてはもういいから」
顔を赤くしながら話題を締める兒井獅……あれ? もしかして誤解したまま?
「ちょっ……」「さあ、仕事の話に戻るわよ!」
顔真っ赤にさせたまま、会社の奥に行ってしまう兒井獅。
…………まあいいか。実際、俺と兒井獅がどうこうなるとは思えないし。
出されたお茶を飲み、昴さんの稽古を断り、静かに座って兒井獅を待つ。
……そして待つこと数分。
「お待たせ」
革製の鞄に分厚い本、羽ペンや羊皮紙などなど。
様々な道具を持った兒井獅が、奥の部屋から帰ってきた。
「何だそれは?」
「さっきも言ったでしょ? ここで働くにおいて、基本的なことを教えるって」
机に鞄を置くと、中をごそごそと漁る兒井獅。
「「死神」や「術式」の説明も必要なんだろうけど……まずは藍駆も被害に遭っている「呪い」についてから始めましょう」
本を持ちながらドヤ顔をしている兒井獅……先生のつもりなんだろうが、俺には言葉を覚えたばかりで実践してみたいと、わくわくしている幼稚園児にしか見えない。
「呪いっていうのは大雑把なイメージだけど病気のようなものね。ある日突然、突拍子もなく発症するの」
「人が人に呪いをかけたりはしないのか?」
俺の知る呪いは、人間が他の人間を貶める手段のイメージなんだが。
「偶発的に呪いを患わせる研究をしてる組織は存在するけど、それについての説明は今度するから、今は割愛」
……呪いの結社、本当に存在しているんだな。
「話を戻すわよ……呪いは効果も強弱もバラバラだけど、人を不幸にすること。瘴気を発生させること。という共通点があるわ」
「瘴気?」
「呪いに発症した人の周囲を漂う、黒い靄のことよ。人体に多少の悪影響はあるけど、一番の問題はこの瘴気が濃すぎると死神が……っと、この話も後で説明するから」
「ちなみに、俺の周りにもその黒い靄が漂ってるのか?」
「少しだけね。ほとんどの瘴気は昨日のうちに晴らしておいたから」
……昨日のあれは何も改善されていないと思っていたが、そんなことなかったのか。
「とにかく! 呪いを解呪できるのは、呪いを感知でき尚且つ解呪の方法を知る私たちのような「魔術師」だけなの! ……ふふん! 他に聞きたいことはあるかしら?」
凄いでしょ。と言わんばかりの兒井獅。
(……他の仕事については、上手く説明出来る自信がないな……)
「魔術師は呪いの解呪以外にやることはないのか? 事細やかに教えてくれ」
「へっ⁉」
予想外の切り返しに酷く動揺する兒井獅……こいつの鼻は早めに折っておこう。
「…………こ、これ以上の説明は混乱するだろうし、続きは後日ね!」
あ、逃げた。
「陽子! 近くに呪いの反応はある⁉」
兒井獅の要求を聞くと、カタカタとパソコンを叩き、何かを調べ始める陽子さん。
「……五キロ先に、弱いですが反応があります。藍駆君を連れて行っても問題なさそうです」
「決まり! これから研修よ! 魔術師は、とにかく実践あるのみなんだから!」
しめたとばかりに準備を進める兒井獅……どれだけ見栄を張りたいんだか。
「藍駆君。好きな子を虐めたいという気持ちは痛いほど分かりますが、あまり幸ちゃんを虐めすぎないでくださいね」
「……陽子さんの気持ちは一切理解できませんが、あまり問い詰めないようにはします」
銭ゲバに閻魔大王にサド……陽子さんの柔和でお淑やかな印象は、今や見る影もない。
「藍駆! 行くわよ、早くしなさい!」
「……はいはい」
小うるさい社長に連れられ、俺は初めての研修へと向かうのだった。