第三話 始まりの朝【後編】
家から学校までは、歩いて行くには少し遠い。
だから僕たちは、自転車に乗って学校へ登下校している。
裏玄関の前には屋根付きの大きめな駐輪場があり、これは一般住宅に似つかわしい佇まいである。そこにはたった2台の自転車が並んでいて、もちろん僕と双葉ちゃんの自転車だ。
ふと双葉ちゃんを見ると、自分の自転車を出す行為に及ばず、こちらを傍観していた。だけど僕はその理由を知っているので、自転車の用意をしながらただ文句だけを吐き出す。
理由を知っているなら、文句を言う必要はないと思われるかもしれないけど、僕の身体に関わることなんだし言わずにいられない。
「双葉ちゃん、また僕の後ろに乗ってくの? せっかく伯父さんが自転車直してくれたんだから、もうそろそろ自分ので行ったらいいんじゃない?」
すると双葉ちゃんはぶーたれた顔を作りながら、僕の後ろに横向きになって座ると、僕の頭を小突いてきた。
「もう、うっさい。父さんの直し方なんていい加減なんだから、途中で壊れて怪我したらどうするのよ。私はテニス部のエースなんだからね。遅れるからウダウダ言ってないで早く行って!」
仕事から帰ってきて疲労困憊の中、修理をしていた伯父さんが哀れでならない。
まあ「直したぞ」とドヤ顔を作った伯父さんに、双葉ちゃんが「ありがと」とお礼を言い、おじさんは嬉しそうだったから、まあいいか。
仕方なく双葉ちゃんを座席の後ろに乗せたまま、自転車を漕ぎ始める。
実はもうだいぶ前からこの状態が続いていて、正直少し辛い。
外から見たら「そんな可愛い女の子を後ろに乗っけて文句言うな」とも訊こえてきそうだけど、決してそんなに甘いものじゃない。
確かに最初のころは、落ちないように僕の腰に手を回し、その半端ない密着度にドキッとはした。
でも自転車で通わなくてはならない距離に加え、前の籠に二人分の鞄を入れて、後ろには人一人乗っけるのだから、ペダルの重さが尋常じゃない。
行きは全体的に傾斜が上りになっているし。
学校に着いたら、既に一日分の体力を使ったようにクタクタになるのだ。
更に帰りも双葉ちゃんの練習が終わるまで、待っていなくちゃならないオマケ付き。
まあ、このオマケは家に帰ってからやる勉強を学校でやるというだけだから、時間配分には特に影響はないのだけど。
これをこのまま続けていたら、僕の体は強靭になるか壊れるかの二択だ。
前者は僕の体軀からいってありえないから、壊れるの一択しかないのかも。
なんにせよ、僕は必死に自転車のペダルを漕ぐだけ。
馬車馬、それが今の僕に合った言葉だ。
僕の自宅は商店街のど真ん中にあるため、必然的にいつも見慣れた店々の前を通り過ぎる。
この見慣れた光景は、まるで時間が止まったごとくに平静である。
代わり映えのしないのだけど、僕は好きだ。
商店街とはいっても、最低限の必要なものが揃うような小さい商店街で、活気はそれほどない。
コンビニはなく、もしコンビニができようものなら、用済みな店がチラホラ出てきてしまうと思うが、きっと暗黙の了解的な事情で出来ない気がする。
自転車を漕ぎ進めると、パン屋さんのおじさんが店先で水を撒いていた。
双葉ちゃんは平然とした顔で「おはようございます」と挨拶をし、僕も「おはよ、ござ、す」と追随する。
パン屋のおじさんは「おはよう。いつも仲いいね~。いってらっしゃい」と返してきたので、双葉ちゃんは「でしょ~、いってきま~す」なんて元気に挨拶した。
次は肉屋さんの前。親友の佐久間 虎雄、トラ君の家で、おばさんが顔を覗かせている。
またもや双葉ちゃんが爽快に「おはようございます」と挨拶をして、僕も「おはよう、す」と続く。
「あら、おはよう。良ちゃん相変わらず尻にしかれているねぇ」とおばさんはいい、双葉ちゃんは「尻になんか敷いていませんよ~」と屈託のない笑顔で反論していた。
それから、郵便局、八百屋さん、交番、などなどの前を通るたびに、似たようなやり取りが続き、双葉ちゃんは都度、爽やかに応対をしていた。
漸く商店街を抜け、その先にある堤防への道を登ると、河川敷の向こうに僕らの通う高校が見えてくる。
本日は晴天なり、なんて声に出てしまいそうな快晴で、堤防走行日和だ。
心地良い川風が僕達を包み、それを浴びた双葉ちゃんのポニーテールがサラサラと揺れている。
なんてことは、必死に前を向きながら自転車を漕ぐ僕の、想像でしかない。
堤防沿いをひたすら走る僕の自転車。
二人を乗せ一人力で進む自転車は、次々と同じ高校の生徒に追い抜かれていくことはやむを得ない。
もちろん、自転車での登校者であり、歩いている人にまで抜かれたりはしない。僕を見くびって貰っては困る。
時折、同級生と挨拶を交わす双葉ちゃん。僕は既に息をするのがやっとで言葉にならないため、挨拶をする余裕などなく、多少の見くびりはしかたない。
「お~す、良、双葉。なぁ双葉、おまえいつまで良の後ろに乗ってんの?」
声を掛けてきたのは、肉屋さんの息子で親友のトラ君だ。
トラ君は一見、怖い人。
だがしかし、とても良い人である。
明るい茶色のツンツンな短髪で、狐のような尖った目。
睨まれると本当に怖くて目を反らす人多数。まさに蛇に睨まれた蛙を地で行く感じである。
でも本当に良い人なのだ。
さっきは怖いと言ったけど、容姿はとてもかっこいいので、学校中、いや他校の生徒からも羨望の眼差しを向けられているが、それでも良い人……だ。
決して羨ましくなどない。
どんなところが良いのか具体的に上げてみると、仲間が絡まれていると力任せに割って入ったり、友達同士が抗論して喧嘩をしていると、力任せで制裁したり。
う〜ん、良い人なんだよね?
そして、僕の親友にして、僕と双葉ちゃんの幼馴染でもあるのだ。
そんな凄い人達に囲まれて、良太君可哀想なんて思われるかもしれないけど、これはこれで僕は幸せなんだ。
思ってない? それは失礼しました。
「いつまで乗ってても、あんたに関係ないでしょ。自分の後ろに可愛い女の子が乗ってないからって、僻むんじゃないの」
「誰が僻むか。っていうか自分で可愛いなんて普通言わねえだろ。俺は良が辛そうだからいってんだよ」
「フッ、私だから言えるのよ。他の誰でもない私が乗っているんだから、良太だって辛さなんて全然感じてないわ。ねぇ良太!」
「ふぅ、ふぅ、い、今僕に、はな、、はぁ、し、かけな、いで」
「ほらね」
「いや、ほらねじゃねえだろ。どう見ても疲れてるから。そんな無駄にでかくなったおっぱい押し付けたって元気なんて出ねーんだからな」
そのトラ君の言葉に双葉ちゃんは反応し、少し僕の腰に回した手を緩めたのだけど、今の僕にはその会話に参加する余裕がない。
筋肉の軋みとはさっきから会話をしていて、ストライキを起こされつつある状態だから。
「あっ、朝からスケベなやつね。とっと行け、この変態野郎」
「は、言われなくても行くっつーの。じゃ、頑張れよ、良」
トラ君はそう言い残し、僕たちの先へと自転車を走らせて行った。
トラ君の背を目で追いながら、この役目はトラ君の方が、体格的に相応しいんじゃないかって思ってしまう僕。
そしてトラ君の存在が遠ざかったからか、僕へ回した手を締め直す双葉ちゃん。
「ねぇ、良太。その、私のじゃ元気でないのかな」
「ふ、双葉ちゃん、ふぅ、もう少し、で、着くから」
太ももの筋肉疲労と闘いながら、学校の校門というゴールだけを目指していたので、双葉ちゃんのそんな呟きは脳の中で掠れてしまっていた。
学校の駐輪場へ到着すると、軽快に僕の自転車の後ろから降りる双葉ちゃん。
かたや僕は、鈍重に自転車から張った足を上げて、駐輪場へと自転車を止めた。そして籠の中に詰まれた二つの鞄を取り、一つを双葉ちゃんに渡す。
照れ隠しのような俯き顔で、「ありがと」とお礼を言われると、疲れが和らぐような気がした。この一言だけで疲れが和らいでしまうなんて、男とはチョロイものだ。
和らいだついでに、さっきの会話に参加できなかった失態を打開しようと、最後の言葉の続きを問いかけてみる。
「ねぇ、双葉ちゃん。さっき、何か言ってなかった?」
「べ、別に何も言ってないわよ。ほら、早く行かないと遅れるわ」
あれれ? さっき私のじゃみたいなこと言ってたような…………
双葉ちゃんの焦ったような仕草に多少の疑問を感じたが、だけど本当に早く行かなくては遅刻してしまうため、気にしないことにする。
僕と双葉ちゃんは違うクラス。トラ君と僕は同じクラス。
だから教室に入ると双葉ちゃんと別れる代わりにトラ君がいる。
トラ君は一番後ろの窓側の席で、入学してからずっとそこが専用席なのだ。そこの力関係は僕の知るところではない。
僕はというとトラ君の前の席。これはたまたまの偶然で僕の専用席ではない。
この教室内ではカースト制度など存在しないのだ。
恐らくきっと。
そして僕が自席に座ると。
「お前ら相変わらず兄妹みたいにベッタリなのな。ていうかあれで兄妹だったらキモいか。なんで付き合ってないんだ?」
トラ君は僕に向かって、核心を突いてきた。
これだけ長い付き合いの中、なぜにこの朝っぱらから核心をつくのか。不意の攻撃というか砲撃というかに、冷静を装い返答する僕。
「だって、確かに僕は双葉ちゃんのこと好きだけど、もう生まれた時から一緒だったから、好きとかっていうタイミングないんだもん。かえってギクシャクしても嫌だし、双葉ちゃんのテニスに影響与えたくないしさ」
「お前な〜。そんなこといってると俺が取っちまうぞ」
「だ、ダメだよ。トラ君モテるんだから、わざわざ双葉ちゃん取らなくてもいいじゃない」
「それは冗談だけどよ。でも双葉、気は強いけど美人でスタイルいいし、胸なんかなかなかだからな。俺がいかなくても他の奴が黙ってないぞ。現に双葉と同じクラスの竹内が狙ってるって訊いたことあるしな」
それは確かにそうだ。普通に考えても双葉ちゃんは、かなり、結構、とんでもなく、いい線いっている。
これまで言い寄られた話を訊かなかったのが、不思議なくらいだ。
そして竹内君。顔も良くて頭も良くてスポーツも出来て、性格も良い。非の打ち所がない人物だ。
冗談にも訊こえない発言に、ビックリして立ち上がり、トラ君に問いかけた。
「それ本当? 本当なの?」
本当なら衝撃的な事実だ。これは真実を確かめなくては僕の運命に関わる。
だけどトラ君は冷静な眼差しをしながら、顎で黒板のほうへ促していた。
何かと思い黒板に目をやると、既に先生が教壇で立っている。スーツ姿にちょっとだけすっきりとした頭を光らせ、どう見ても切れた眼つきで僕を睨んでいた。
「コラ、越善。もうホームルームが始まっているんだから、いきなり立ち上がるな」
僕は朝の疲れとトラ君との会話で、ホームルームが始まっていること以前に、先生が入ってきていることにさえ全然気づいていなかった。
トラ君の言葉に不完全燃焼ではあったのだが、「すみません」と謝り着座して、肩を窄めた。
でも竹内君が双葉ちゃんを狙ってるなんて、本当にそうなら大変なことだ。
双葉ちゃんが他の人と付き合うなんて考えられない。
僕には竹内君のように、自慢できることは何もないのだけど、ウダウダ理由をつけて引き伸ばしていないで、そろそろ覚悟を決めなければ。