第二話 始まりの朝【前編】
「起きろー、良太! 遅刻するわよ」
その目覚めは唐突に、マウントポジションを取られたところから始まった。
「うっ、ゴホッ、ゴホッ。ふ、双葉ちゃん、もうその起こし方やめてよ」
僕のお腹の上に跨っているのは従妹の双葉ちゃん、一つ屋根の下で暮らしている神楽 双葉である。
朝から女子プロレスラー顔負けの、完全無比なマウントポジション。
この乗り方で、本当に女子プロレスラーなら、間違いなく僕はこの世にいない。
しかしその体躯は、ガチッとしているというよりスラッとした印象で、体重のかかり方は、液体を入れる前のビーカーといった感じだ。ビーカーなんていったら、寸胴なイメージに聞こえるで双葉ちゃんに失礼だな。
容姿にいたっては、ドキッとしちゃうくらいかっこいい吊り目、スーと伸びた鼻筋、口角の少し上がったピンク色の唇、少し面長の顔立ちで、プロレスラーというよりモデルだね。
ポニーテールの髪の先は、肩のところで揺れている。
双葉ちゃんは運動神経が抜群で、テニス部のエースである。
地区大会に敵はなく、県大会でも常に上位の成績、雑誌にも紹介されるほど。
雑誌はもちろんテニス専門誌にも載るのだけど、どちらかといえば大衆紙の『今注目の可愛いアスリート』みないな感じで載ることが多い。
これは僕としてはいまいち嬉しくない。際どい写真なんかは、僕のふたばちゃんをこんな風に撮りやがって、なんて憤ったりもする。決して僕のではないのだけど。
まあ、僕の意見はどうでもいいね。
「あんたはこのくらいしないと起きないでしょ。いい加減、自分で起きられるようになりなさい。本当に美緒さんも甘いんだから」
「お母さんは関係ないじゃない」
「いや、大いにある。こんなギリギリまで寝かしておくなんて、甘やかしている証拠よ。私が良太の母親だったら、朝の五時に起こして、私のように十キロマラソンさせてるんだから」
「はぁ、双葉ちゃんがお母さんでなくて良かったよ。もういい加減どいてくれない?」
僕が溜息をつきながらボヤくと、双葉ちゃんは眉間にシワを寄せ、僕の上でお尻の筋肉だけを使い飛び跳ねた。
慣れた感じで、ボヨンボヨンと何回も跳ね、僕のベッドはギシギシと悲鳴をあげる。だからといって、卑猥な妄想は差し控えていただきたい。
もう既に双葉ちゃんは、学校の制服に着替えていた。それで僕のお腹の上に乗っているってことは、直に当たっているのが薄い布一枚のはずで。
だけど僕は苦しくて、それどころではない。
高二の僕にとって、普通なら別のところが起きるはずだが、そんな状態ではないのだ。ちなみに今は起きていない。
「ゲホッ、ゲホッ」
「だからこんなにひ弱なのよ。お腹に乗ったくらいで咳き込むなんて、腹筋あんの?」
いくらなんでもこんな状態で、お腹に体重をかけられたら、誰だって咳き込むと思うのだが。
まあ、双葉ちゃんの体重が何キロなのかは知らないけどさ。そして訊いたものなら、どれだけ叱られるかわかったものじゃない。
でもいい加減、死ぬぅ。
「も、もう、許じで〜」
「たく、しようがないな〜」
双葉ちゃんは僕のお腹からお尻を離し立ち上がると、フワッとベットの下へ飛び降りた。
地獄のような起こされ方をしたのも関わらず、その優雅で重力を感じさせない床までの降下に、見とれてしまう。
そして遅れてくるスカートのひらめきは、朝から刺激が強すぎる。これぞチラリズム。布の一枚とは別の刺激だ。
「早く着替えて来なさいよ。私まで遅刻するんだから」
「うん、わかった。いつも待っていてくれてありがとう」
「いっ、いいから、早く着替えなさい!」
双葉ちゃんはなぜか照れたような表情を作り、僕の部屋から出ていった。
つい口から出てしまった、ありがとうという言葉に照れ臭かったのかな。よく僕は言えたものだ。
そんな双葉ちゃんを見送り、そそくさと着替えを始める。
本当はもっと早く起きた方がいいのはわかっているし、頑張れば起きられる。でも双葉ちゃんが毎朝起こしに来てくれるのが、本当はとても嬉しいから、この日常は変えたくない。
制服に着替え部屋を出ると、寮のように扉だけが並んだ廊下が続く。
住み込みように作られたからか、二階には同じ間取りの部屋が六つとトイレが一つあり、とても一般住宅とは思い難い。一見、学生寮みたいな感じだが、学生は僕と双葉ちゃんの二人だけである。
お母さんたちはもう仕事場に行っているので、二階は静寂に満ちていた。
いつも大勢いるはずの部屋達には、今や誰もいないなんて何か寂しい。既に、もぬけの殻となっている部屋たちを横切り、双葉ちゃんの待つ食堂へと向かった。
食堂は一階の玄関手前に位置し、これも住み込みの雰囲気を感じさせる十人掛けの長テーブルが、ドーンと置かれていて、キッチンは家庭用というよりちょっとした厨房だ。
厨房は特に力をかけて作られたらしく、食堂顔負けの大きなコンロや、棚の上に高そうな鍋やフライパンなど、ないものはないと思わせるほど充実していた。
普段料理をするのは、料理長が叔母さんの真緒さんで、副料理長がお母さんと双葉ちゃん。
この顔ぶれで作る料理はとにかく美味しい。
当たり前だけど、特にメニューがあるわけじゃなく、常に本日のおすすめ。
だが、このおすすめに前の日の残り物を感じさせることはない。たぶん入っているんだろうけど、残り物と思わせない技術は卓越されている。
建設会社を畳み、レストランでも十分に食べていけるのではないか、と思ってしまうほどのレベルである。どこぞの星三つ、最高ランクである。
この場合、ウエイトレスは男性陣になってしまうのだから、せっかく美人な女性陣がいるというのに、店の雰囲気に暗い印象を与え、折角の美味しい料理を不味く見せてしまうことは避けられないが。
だがしかし、たまに流しのラーメン屋として叔父さんの政宗さんと僕で、厨房に立つときもある。
ラーメンだけは叔父さんが研究を重ねた秘伝のスープが存在感を発揮して、僕も弟子となり受け継いでいるのだ。
家族のみならず、ご近所さん達も唸らせる一品だ。双葉ちゃんのラーメンだけは僕の隠し味を入れた改良版を出していて、こっちの方が好きと言わしめいることに、政宗さんも悔しがっているのだけれど。
朝ご飯は当然のことながら、みんなの食べるタイミングが違うので、いつも双葉ちゃんが二人分を用意して待っていてくれる。
さすがに家族経営の会社というだけあって、もう既にみんなは仕事に行き食堂はもぬけの殻であり、この光景は日常である。
朝、起こしてもらい、ご飯まで用意してもらって、僕は双葉ちゃんに甘えてばかり。起こされ方はいいとして。
でもその分、夜は宿題などの勉強を教えてあげているのだから、持ちつ持たれつなのだ。そう自分に言いき訊かせて、甘えを正当化する僕。
双葉ちゃんの勉強が不得意なことについては、プライバシーの問題なので触れないでおこう。
とりあえず、朝ご飯を食べなくては。
「「いただきます」」
僕たちは向かい合わせに座り合唱をすると、息の合った挨拶した。
生まれた時から一緒にいて、毎朝一緒にご飯を食べているのだから当然だ。
そして今日の朝食の献立は、五穀米、ベーコンエッグ、ほうれん草のお浸しに豆腐の味噌汁。
ちゃんと僕が席に着くのに合わせて温め直してくれていて、気遣いがまるで新妻みたい。
味噌汁の湯気がゆらゆらと上がり、生唾を飲んでしまうほど食欲がそそる。
「ちゃんと良く噛んで食べなさい。どうやったら頬にご飯粒が付くのよ」
と言いつつ、僕の頬に付いたご飯粒を取って食べる双葉ちゃん。
まるでというより、もう新妻だね。
でも、僕にとっては小さい頃からずっとこんな調子だから、新鮮という感覚が全然ないのが残念。これはこれで僕は、非常に損をしているに違いない。
だけど僕も一応、高二なわけで。
新妻でなければ、結局、双葉ちゃんからしたら僕は単なる子供に見られているっていう。それはそれで寂しいっていうか、悲しいっていうか。
「もう、自分で取るから放っておいてよ。僕の方が年上なんだから、子供扱いしないで」
「一ヶ月しか違わないのに年上面するな! あんたは私がいないと何にもできないくせに、どの口がそれを言うのかしらね」
双葉ちゃんは眉間にシワを寄せながら僕を凝視して、器用にベーコンエッグの卵の黄身を割っていた。
「確かに双葉ちゃんには色々やってもらってるけど、僕ももう高二なんだし」
「はぁ? それじゃ、明日から起こしてもあげないし、ご飯も用意してあげないわよ」
「うっ。それはちょっと困るかな。ごめん、今のナシにして」
「そうよ。あんたは私の言うとおりにしていればいいの」
双葉ちゃんはそう口にしながら微笑みを作っている。さっきより食が進んでいるように見えるのは気のせいか。
「だけど良太は、あんなにみんなのことに気がついてマメに動くくせに、自分のことはからきしになるのは何でなのかなぁ」
「そ、それはただ、周りは目で見ることができるけど、自分のことは見えないからじゃない?」
僕はそうはぐらかした。
実は、僕に靄が見えることを誰にも話していない。
子供の頃に周りの人が見えていないことに気づいたとき、自分が他の人と違うという疎外感があった。生活に支障があるわけでもないし、平和な日常を崩したくなかったから、あえて話題としなかった。
昔に一度だけ、お母さんと双葉ちゃんには言ったことがあったんだ。
でもお母さんは「良太、そういうこと言うと、頭がおかしい子だと思われるからやめてね」と呆れられ、双葉ちゃんには「怖いから、もうそういうオカルト的な話はしないで」と恐怖の眼差しを向けられたから、諦めたんだ。
僕のはぐらかしに、ジト目を持って返してきた双葉ちゃん。
元々は双葉ちゃんが怖いって言ったから、はぐらかすことになったというのに理不尽だ。それでも文句を言えるわけはなく、僕は笑ってごまかす。
僕の逡巡など意図せず、ふたばちゃんは後ろの壁掛け時計に目をやると、気持ちを切り替えたように告げてきた。
「あ、大変。こんなにゆっくりしていたら本当に遅刻しちゃうわ。さっさと食べて行くわよ」
ゆっくり話をしていたのは双葉ちゃんなのに、などと文句を頭に巡らせながら、残りの朝食を胃の中に詰め込む。
向かいの食器は既に空だったので、単に僕の食事が遅いだけなのかもしれないけど、そこはスルーして欲しい。
「「ごちそうさまでした」」と僕たちは挨拶を交わし、洗面所で同時に歯を磨き、鏡に向かって思い思いに身だしなみを整えた後、玄関をでた。
家族のみんなはバリバリ仕事中なので、特に声をかけることはしない。
いくらマザコンと言えど、仕事中まで顔を見に行きたいというのはないし、あれだけ繰り返して言ったものの、そもそも僕はマザコンではないのだし。
最後に玄関の鍵をかけるのは僕の役目なので、玄関を閉めるときに「行ってきます」と呟く。
玄関に行ってきますなんて、おかしな奴極まりないが、なんとなく家が家族の代表みたいに思えて、必ず帰ってくるよって約束したくなるんだ。