孤独と女
私は合法的に女に飼われている。
彼女と初めて出逢ったのは十一月が始まったばかりのとても寒い日だった。仕事を終えた私は厚手のコートを着込み、正面から吹き付けてくる風に顔をしかめ、人混みの中をすり抜けていた。寒くて仕方がなかった。鼻先や尖った耳が鈍い痛みを訴える。身体は正直だと思った。私は震えながらコートの襟を立てすぐに首をすくませた。長い髪が風に揺れていく。空は明るさを失い夜の気配を滲ませる。
私は目を細め、前を睨む。アーケードは人に溢れ、店先は既にクリスマスを感じさせた。慌ただしい季節に足を踏み入れたのだ。大きな吊り看板の上には小さなサンタクロースがトナカイとともに笑顔を見せている。ハロウィンカラーは暖色に飲み込まれて消えてしまっていた。
「あ」
突然、視界に人が映り込んだ。私は息を吐き、痩躯の男を避け、息を呑む。
「あ、すみません」
男は目を微かに開き、急ぐように私を避けていく。私は顔を歪ませ、纏わりつく匂いをひたすら裂いていく。男から冷たい香水の香りがした。はっとした。嗅ぎ慣れた香り、無意識に記憶が引き出され、私は痛みを感じた。愛していたはずなのにと。眩暈が起きそうになる。私はかぶりを振り、覚束なくなりそうな足に力を込めた。
前を見据え、温かな人の波を静かに避けていく。私は目を細めた。その度に心が冷え、萎んでいった。それなのにアーケードは騒がしくて私の孤独がただ、浮かんでいく。私は眉をひそめた。私を邪魔する障害物は楽しそうにじゃれあう学生だったり、スマートフォンに視線を落とし続ける二足歩行者だった。私は笑う。私は苛立ちながら現状から抜け出すことが出来ない。何もかも捨て何処かにふらふらと飛んでいくこともない臆病者だ。不意に息が苦しくなる。私はこれから何処に行けるのだろう。誰に必要とされるのだろう。
怖くて言葉にできない問いが毒のように私の中で回っていく。私は顔を歪ませた。私はこれからアパートに戻り、冷たい空気を吸う。お帰りと言われることも言うこともない。私は一人でこれからも一人だ。私の為に明かりを点け、温かな笑みを浮かべてくれる人間などいない。私は笑う。
「なんて悲しい人生だろう」
私は手を握り締め、掌に爪を立てる。痛みだけが現実だった。私は唇を噛みこの思いを絶つ。鼻から大きく息を吐き、私は速度を上げていく。全身が冷えていき、芯が壊れていくようだった。歩く度にパンプスが悲しい音を吐き出していく。いつもと同じ音、私は生きたいのか死にたいかも解らない。私は足元だけを見つめ、歩く。幸せそうな人を見てしまうことや自分より不幸な顔を探そうとすることがとても怖くて情けなかった。
擦れ違っていく色とりどりの靴は慌ただしく、迷惑そうに私を避けていく。私は口角を上げた。誰にぶつかっても謝るものかと思った。同時に私は自分をひたすら恥じていた。消えてしまいたかった。ずっとずっと消えたいと思っていた。
「寂しい……」
それでも、必要とされたかった。馬鹿な女だ。寂しくてただ、狂ってしまいそうだ。
「あ」
「え?」
唐突に女の声が降り、身体が弾けそうになる。膨らんだビニール袋と真っ赤なパンプスが見え、私ははっと手を伸ばした。無意識に私は両手で女の肩を支えていた。目が合い初めて女の顔を見た。通行人が立ち止まる私達を不愉快そうに眺め、何も言うことなく消えていった。露骨に舌を鳴らす者もいた。それでも私は黙っていた。女は私より年下だった。彼女の大きな瞳は私を非難している。そんな感情を抱かせる程、女は私を真っ直ぐ見つめていたのだ。
大学生だろうか、綺麗な顔立ちで長い髪はチョコレート色に染められている。背丈は私より高く、足も手も長い。勿論、顔は小さい。笑いそうになる。パンツスーツの私とは違う。女は白いブラウスに真っ青なワイドパンツを履きこなし、肩にはグレーのチェーンバック、センスの無い私とは大違いだった。ただ、女の表情は暗い。
「邪魔。もう、離してくれる?」
私は女の言葉にどきりとし、手をぱっと放してしまう。とても低い声だった。女は息を吐く。そのまま、私を睨み付けた。
「じゃあね、おばさん。あたし、あんたなんかに構ってられないから」
女は吐き捨てすぐに踵を返した。
「あ、待って」
私は叫ぶ。手を伸ばし、女の腕を掴む。細い腕だった。私は茫然と女を見上げた。エキストラがうんざりした顔を私達に向ける。
「な、何なの、あんた」
女が顔を引きつらせた。私は苦笑いを浮かべる。女は綺麗な顔を歪ませ、私を睨みつけた。私は困り、より曖昧な笑みを浮かべていた。誰かがすれ違い様に邪魔だと呟いた。女は眉根を寄せ、首を傾けた。女は強い視線を向けながら舌を鳴らす。
「……邪魔はあんただっての」
女は呟き、再び、私を見た。私は女を見上げ、黙っている。
「……」
女は視線を泳がし、少しずつ表情を変え、最後に私を不安げに見下ろしている。私は女を見つめ、口を開く。女が息を呑んだ。
「どうしてだろうね。本当は誰かに必要とされたいのに気付かないふりをする。幸福の意味すら知らないくせに誰よりも幸せな顔をするのは……ねぇ、どうしてなんだろう」
私は乾いた唇を舐め、微かに笑う。
女は驚き、戸惑っている。私はくすりと笑う。
「私の家に来ない? ちょうどさ、私も誰かといたかったんだ」
私は女に言った。
「はぁ?」
女は可笑しい程、目を瞬かせていたが、やがて、静かに頷いた。
「良かった……」
私は息を吐く。掌は汗ばみ、全身は震えていた。
「変な奴」
女は言い、俯いた。
そして、私はすぐに彼女の世界に取り込まれていった。
「美穂」
女は私の名を猫のように呼んだ。
「ああ……」
甘ったるい声に私は眩暈を起こす。女は私の反応に満足げに目を細め、細い腕を伸ばす。私は女に見惚れ、動くことが出来ない。
「明日香」
私は舌をもつれさせながら女の名を呼ぶ。女は微笑み、私の短い髪に触れ撫でる。私は震えながら吐息を漏らす。
「好き、愛してる」
私は声を震わし、近づいてくる女の唇を舌先でそっと舐めた。
「美穂、犬みたいで可愛い」
女は笑い、「……でも、足りない」と両腕を私の首に絡ませ、強引に口づける。私は目を見開き、呻いた。甘い、とても甘くて壊れてしまいそうだった。私は口の横から唾液を零しながら何度も口づけを交わす。私達は体温を上げながらじゃれ合い、ひたすら四肢を絡ませ続ける。狭い部屋の中に湿った服が散らばっていく。
今でも幸福の意味は解らない。それでも――
私は声を上げ、女の首に噛みついた。女は愉しげに叫び、私の背に爪を立てる。
私は笑い、思う。手懐けられた猫はもう、逃げられない。